ドアの向こう
看護師Mさんの話。
以前勤めていた病院には何年も寝たきりで亡くなるまで個室に入院していた患者Bさんがいた。
Mさんが勤めるずっと以前からいたというのだから、かなり長いのだが、家族に会ったことはなく、見舞客もいないので、金はあっても身寄りや友人はいないのだろうと思った。
Mさんがちょうど夜勤明けでいない日にBさんはあっけなく亡くなった。
遺体は処置を施されて運び出され、その後どう弔われたのか、Mさんにはわからない。
ずっといたBさんがいなくなったので「なんだかさみしいね」などとみんなで話し合っていたが、それもほんの数日だけで、後は忙しさに紛れてしまった。
病室はしばらく開け放され、長年の澱んだ空気も古いマットレスなどとともに交換された。
閉め切っていたブラインドを上げて明るくなった病室にやがて初老の男性患者Fさんが入院してくる。
Mさんが夜勤のある夜、その病室からのナースコールが鳴り響き、担当の新人ナースが素早く駆けていった。
だが、すぐ戻ってきてFさんが寝ぼけていると笑う。
「わけわからんこと言うてはるねん」
誰かがドアの前に立っているのが小窓に映っているのだという。
「わたし行ったときは誰もおらんかったし」
新人ナースはそう言うと次の仕事に移った。
その後もFさんは間髪入れず何度もコールを鳴らしてきて、その度に駆け付けていた新人ナースがべそをかき始めた。
「Mさん何とかしてぇ。誰か立ってる言うねん。怖くて眠れやんって。誰もおりませんよ言うても、いてるって聞かへんねん。背の高い紺色の寝巻着た人やって、ガラスのとこにぴったり張りついてずうっとこっち見てるって。
カーテン引いても、見える言うて聞かへんねん」
Mさんは持っていたペンを落とした。
Bさんが紺色の寝巻を着た背の高い老人だったことを思い出したのだ。
大きくナースコールが響き、Mさんはびくりとした。戸惑いつつも行こうとする新人ナースを手で制し、今度はMさんが行った。
部屋を変えてくれと訴えるFさんの手を握り、今夜は無理だからとなだめる。
明日、明日換えますから。
Fさんにではなく、自分には見えないドアの向こうに立つBさんに懇願した。
すると、すうすうFさんの寝息が聞こえ始め、Mさんはほっとした。
翌朝申し送りの際、昨夜の一件を師長に伝え、Fさんの病室は速やかに交換された。
その後Mさんが辞めるまで、どんなに満室でもその部屋だけは病室として使用しなかったという。
ただ今はどうなっているのかわからない。