バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

宇喜多騒動

また、宇喜多左京祐、戸川肥後守、岡越前守、花房志摩守たちが
お家を立ち去り、有用な人物が足りなくなったので、掃部は、大坂で浪人を雇おうとした。格別に厳しい面談を経て、数人の人物を雇ったが、正木左兵衛(まさき さへえ)という者が特に優れていた。総髪で右の目が左より少し高い。かと言っても、異様な姿ではなく、穏やかな眼差しである。あと槍を持たせれば、柄の握り方、穂先の付き方を見ても、美しく素速い。鼻は高く、唇はしまっている。肌は茶色で焼けている。論語、韓非子、孫子、貞観政要、資治通鑑を諳んじており、誤りがない。掃部の厳しい問いにも全く動じない。これは、数少ない逸材だと掃部は思った。掃部は左兵衛に尋ねた。
「左兵衛殿、今までは、どのお家にいらっしゃったのですか」
「はい、実は拙者は、徳川内府様に仕えておる本多(ほんだ)佐渡守(さどのかみ)正信(まさのぶ)の次男でございます。実の名は本多政重と申します。父が悪名が高いので、本多と言う名を憚って、この名を使っておりました。前は大谷刑部吉継様の馬廻りでございました」
 徳川と聞いて、面談場の面々が騒ぎ始めた。宇喜多家では、既に、徳川内府が、幼き秀頼が当主である豊臣家から天下を奪うつもりだという考えが広まっていたからだ。秀家は、内府のやり方に、かなり激怒している。掃部は政重に問うた。
「何故、大大名の内府様の懐刀として有名な、本多佐渡守殿の側を離れられたのですか」
 政重は涼しい顔で言った。
「拙者は、一度は、徳川家の一家臣の養子となったのですが、秀忠(ひでただ)様の乳母の息子と争いとなり、斬り殺してしまいました。訳は、父本多佐渡守を内府様の君側の奸と言われて、父を侮辱し、決して許せぬと思ったからでした。皮肉にも、その父とも、その斬り殺しで喧嘩してしまい、勘当を喰らい、それで徳川家には、いられなくなり出奔致しました。その後は、越前敦賀郡を治められている大谷刑部様にお仕え申しておりましたが、刑部様から、二万余石しかない自分の元では、お前は力を持て余し、実に勿体たいない。自分も、若き時に、亡き秀吉様から言われたことがあるから、よく分かる。刑部様は、キリスト教信者であり、同じキリスト教信者が多い五十七万四千石の大大名である宇喜多備前宰相(さいしよう)秀家様の元で力を振るうがよいと言われまして、こちらに参ったのでございます。宇喜多家では今、お家騒動が起こり、人手が足りぬから、そなたが宇喜多家を懸命に奉公してくれとも言われました。ここに刑部様からの紹介状がございます。ご覧下され」
 そう言って、政重は書状を宇喜多家の家臣に渡した。掃部が、書状を見る。紛れもなく,大谷刑部の書状であった。 隣にいる家臣の一人が掃部に囁いた。

しおり