花園
長らく続いてきた大戦で、今はすっかり手入れの行き届かなくなってしまったリオネング城の花園。
ほとんどの植物が枯れ果てた中、その奥に一つの小さな部屋へと通じるドアがあった。
そのドアの先はどこへ行くのか、どこにつながっているのか、だれも知らない。
ただ一つだけ城の皆が知っていること。それは特別なカギがないと絶対開かないとのこと。
ある日のこと、小さな白い手が、がちゃり、とそのカギを開けた。
小さなドアよりもさらに小さな背丈。おおよそ人間と違うその風体。
その小さな身体は、陽光さす奥の広間へと続く長い石造りの廊下の上を、ちゃっちゃと爪の音を立てながら歩んでいった。
その廊下の突き当りには『研究室』と表札の下げられた扉が。
「おはようございます、デュノ様」ドアを開けると、真新しい白衣に身を包んだ若い人間の女性が、笑顔で小さな存在に挨拶をした。
「う……ん、その名前で僕を呼ぶのはやめてくれって言ってるじゃないか」
「でも、デュノ様はれっきとした……」
「僕はそれ以上でもそれ以下でもない。ルースでいいんだよ。タージア」気まずそうに鼻を掻きながら、白く小さな獣人の青年＝ルースは言った。
「ルース……様」
「様もいらない。ルースでいいって」
「は、はい……ルース」
部屋の中心にある広い机の上には、赤や緑色の薬が入った、まだまだ貴重なガラス瓶があちこちに置かれている。
その傍らには、医学書と思しき厚い書物が何冊も。
無造作に開かれたそのページには、人体の解剖図、さらには植物の色とりどりの絵と……
「聞いたよ、マシャンヴァルの捕虜が手に入ったんだって？」いそいそと専用の白衣を身にまとい、ルースはタージアに告げた。
「ええ、傭兵のラッシュとディナレ協会所属の弓兵のアスティが先日の作戦で運良く捕えまして。無傷ではありませんが」
ラッシュという言葉に、ルースの耳がぴくっと反応した。
「ラッシュ……ほかに何かなかったかい？」
「はい、ルース……様が事前におっしゃっていらした通り、マシャンヴァルへ亡命したゲイルという獣人からも情報を入手することができました、ただ……」
「ただ、なんだい？」タージアから渡された羊皮紙のレポートを読む、その目は真剣だった。
「報告をしてくれた新兵のアスティなのですが、直後に城内で消息を絶ったらしく、これ以上情報が……」
「な……⁉」
「おそらく、連中の仕業ではないかと」
その言葉に、ルースの奥歯がぎぎっと鳴る。
「く……そっ、まだいたのか！ ほぼ掃除し終えたとばかり思っていたのに！」
「残念ですが……このリオネングも、一枚岩とは言えませんから」
まだまだ道のりは長いな、とルースは黒い瞳を天井に向けた。
「この場所も、いつまで隠し通せるか分からないもんな……」小さなため息が一つ、埃の舞う空間に消えた。
「捕虜、ご覧になられますか？」タージアがさらに奥へとつながる扉を開けた。
さっきまでの日の光がさす通路とは違い、そこから先はランプのか細い明りだけが手がかりの、頑強な石造りの湿った地下通路となっていた。
だが、レポートを読んでいるルースの身体は一向に動く気配すら見せない。
「ルース様？」
「ヴェール……⁉︎」
小さなその手は小刻みに震えていた。
暗い一本道の終わりに、その牢屋は存在した。
頑丈な鋳鉄で作られた仕切りの厚い扉を開けると、重々しいかび臭さが二人の鼻をつく。
「気を付けてください。まだまだ凶暴さは残されているかもしれませんので」前を行くタージアが、小さな身体のルースに話しかけた。身長差にしておおよそ彼女の半分くらいといったところであろうか。
扉と同様に太く重厚感のある柵の奥。そこにマシャンヴァルの捕虜はつながれていた。
ボロ雑巾のような上衣だけを身につけた身体はすっかり痩せ細り、暗闇にらんらんと輝いていた瞳は、まるで老人のように白濁している。
「ここに来た当初はまだ普通な身体つきだったのですが、みるみるうちに老化しているようで……」
「食事はどうなんだ？」その言葉に、彼女は首を左右に振った。
「会話は？」
「ぎりぎり保てている状態です……ですが、我々リオネングに対する悪態しか口にしません」
捕虜は二人の存在など意に介さず、ひたすら牢の中を四つん這いで行ったり来たりしていた。
「ずっとあの調子です。だけどあの進行具合からして、時間の問題かと……」
わかった。との言葉にルースは、牢のカギに手をかける。
「ルース様！」
「言っただろタージア。僕はそれ以上でもそれ以下でもないって」
牢内に足を踏み入れると、床にはおびただしい量の血と、吐しゃ物が散乱していた。
こりゃひどいな、とつぶやくルースの前に、捕虜が突然顔を近づけてきた。
その鼻で、ルースの身体をふんふんと嗅ぎ続ける。まるで同族かを確かめるかのように。
「お前、ヒトじゃないな」ひとしきりチェックをした捕虜は、ルースに小さな声で話しかけた。
「ご名答。目が見えなくても匂いでわかるのかい？」
「ああ、お前、から、はヴェール大司教様と同じ匂い、がする」
ヴェール……その言葉にルースは息を飲んだ。
「その、ヴェールとやらに会ったことはあるのかい」
「ああ、祭壇で少し、だけ姿を見た、だけだ。遠目でしか、見れな、かったが、お前と同じ……背格好、してた」
ルースはなにかをこらえていた。拳をぎゅっと握りしめ、怒りにも似た感情が沸き上がるのを。
しかしそれを深い呼吸で抑えながら、また質問を続けた。
オコニドとマシャンヴァルの関係について。
「マシャンヴァルは、とて、も友好的だった……が、その国に足を、踏み入れること、は我々には一切許されなかった。たとえ我が国の王であっても、だ」
「君たちは元々は人間だったろ？ どうしてそんな異業の姿に？」
「深き窪みのさらに底、ツタの壁、の、奥に、神殿がある。唯一我々オコニドが入ることを許された場所。そこに祭壇があって、告げられたのだ」
捕虜は続けた。マシャンバルの神の子として永遠の命、さらには人を超えた力を授かりたいのならば、私たちに従え……と。
神殿でそう我々に告げたものこそが、マシャンバルの神にして王、ディ＝ディズゥだと言う。
「やせ細って、まるで骸骨のようだった……ああ、生きている感じすら、しない。まるで骨、が話しているようだった」
そして神王の言葉にだれも異を唱える者はいなかった。そう、もはやオコニドにはそれを受け入れるしか道はなかったからである。
「われわ、れ、オコニドの兵、は、神国の民となるべく、儀式、を受けた。神の血と呼ぶ真っ赤、な水の、沸き立つ風呂に浸かり。そして神の酒を飲み……」
だが朝を迎えるたび、兵の数は一人二人と数を減らしていった。唯一話すことのできたマシャンバルの神官いわく「肉体が耐えきれなかった」とのことだ。
「徐々に自分、の感覚が研ぎ、澄まされて、ゆくのが分かっ、てきた。耳も、目も、鼻も。だが同時に俺たちの姿、も、少しづつ変わ、ってきたん……だ」
だんだんと捕虜の息が荒くなってきた。腐臭にも似た生臭い吐息が、ルースの鼻を覆う。
「そう……一人、お前の国から来た獣人……我々と同じ儀式をして、そいつ……俺たちと同じ、人間と同じ姿、に、なった」
ルースは直感した、ゲイルのことだと。
そうして儀式を続け生き残ったオコニドの民は、一年で半数近くにまで減ったという。
儀式に耐えきれず死んだとしてもそれは本当の死ではない。お前たちの血肉として、お前たちの、そして神王さまの一部として生きるであろう、と神官は告げた。
「われわ、れ、は、新たな力を得て、またお前たちとの戦いに挑んだ。分かるか……？ 新たなるオコニドは、今までの比ではない……それに、もうこの国の中にも……ガハァ！」
突然、捕虜は大量の血を吐き出した。
「どうした、大丈夫か⁉」ルースが身体を支えるも、捕虜の目から、耳から、そして鼻からも血が流れだしてきた。
「はや、く、神の酒……もう、時間、な……い」
「死ぬな！ お前にはもっと聞かなきゃいけないことが……！」ルースがぎゅっと手を握るが、まるで身体じゅうの血が抜けてゆくかのように、蝋のように白くなり、そして……
血の海の中で、捕虜は果てた。
「ルース様、大丈夫ですか⁉」
おびただしい血のカーペットの上で、白い毛の獣人、ルースの肩は小さく震えていた。彼女の叫びに一切応えることなく。
「ああ、そうか……わかったよヴェール。これがお前の答えなんだね」
「ルース……さま？」
血にまみれた身体で。ルースは高らかに笑い声を上げた。
「は……はは、僕もいつか行ってやるさ、マシャンヴァルに。そして僕が……この手で」
不気味にゆがんだ笑みが、血の池に映り込む。
「この手でお前を……殺してあげるよ」
