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どうしたのかって問いかけても、彼女は雷に打たれたみたいに微動だにしないまま。
ただ、かすかに「まさか、そんなことは…」とよく分からん独り言を漏らすだけだった。
しょうがねえな……と、彼女の細い腕を軽く引っ張る。
「もういいから、俺もそろそろ戻らねえと」その言葉に、ようやく彼女も我に返ったみたいだった。
不思議なことに、例の傷跡には全く開いた痕跡すらなかったそうだ。
……じゃあ、あれはいったい何だったんだ。天井裏にだれか潜んででもいたのか……いや、まさかな。
「あの、ここで出会えたのもディナレ様のお導きだったのかもしれませんし、また近くに来られた際には、ここに来てもらえますでしょうか」
別れ際にこいつ、突然なにを言い出すんだか。
こんな宗教なんか俺は全く興味なんてねえし、こっちもいろいろ仕事で忙しいからと、適当に理由付けをしておいた。
それに……
「チビを表で待たせているんだ。ずっと一人にさせときたくないしな」
「え、お子様がおられるのですか?」
ああ。とそれだけ答え、俺は教会から出ようとした……が。
「ごごごめんなさい、最後に、その、お名前だけでも」
しょうがねえな。とため息まじりに「ラッシュだ。周りからはそう呼ばれてる」。
彼女は軽く微笑むと、胸の前で手と指を組んだ。あのディナレ像と同じポーズだ。
「ありがとうございます……って、私から名乗るの忘れてましたぁあ!」
ぺこぺこ頭を下げながら、彼女は俺に名前を告げてくれた。
ロレンタ。それが彼女の名前だそうだ。
「ラッシュ様。これからもディナレ様の明るきお導きがありますように」
……教会を出た途端、どっと疲れが押し寄せた。
なんだったんだ一体。変な女と出会うわ血まみれになるわで……もう二度と来るかこんなとこ!
……と、今度はチビがいないことに気が付いた。扉の前で背負いカゴと一緒にいたはずなのに!
ここに入ってそれほど時間は経っていなかったはず。でもなにもかもが消えちまっている。
「おいチビ! どこに隠れてんだ! 怒らねえから早く出てこい!」
だが、耳を澄ましても何も聞こえない。わずかに風が葉を揺らす音が聞こえてくるだけだ。
この建物以外には街路樹くらいしか身を隠すものなんてないし、要は殺風景な通りだ。
まさか、人さらいにでも……⁉ 俺の背筋に冷たい汗が走った。
こういう時に鼻が利いていれば、チビの残り香をたどって……となるんだが、あいにく俺の鼻はてんで役にも立たないし。
後悔の念が一気に頭を駆け巡っていく。なんてバカなことをしちまったんだ俺は! もしあいつの身に何かあったりでもしたら!
急ぎでリンゴ園に戻っても結果は無駄に終わった。爺さんのところにも戻ってはいなかった。そうだよな、あいつ一人じゃあんなにリンゴの詰まったカゴを持てるわけないし。
ほかの人にも尋ねてみるかと思っても、俺にはそんな仲間すらいないし……とりあえずは家に戻ってトガリに事情を話すしかないか。
背中に鉄のかたまりでも乗ってるかのように重い。歩くたびに俺は胸の中で祈った。チビ、どうか無事でいてくれって。あの時リンゴを置いてさっさと戻ればよかった。俺は親方失格だ……じゃない、ディナレの加護ももクソもあったもんじゃねえな。だから俺は宗教だろうがワケの分からねえもんにすがりたくはないんだ。
どのくらい歩いたかもうわからない。家についたときには辺りはもう真っ暗だった。
「トガリになんて説明すりゃいいんだ……」
重い身体のまま、俺は家へと入っていった。