8 崩壊の予兆
バルドルの投げた短剣が、一直線に飛ぶ。
軽やかに舞う蝶のようにふわりと、何かが飛び込んだ。
テムルル・エイグを庇い、豪奢な衣装を翻して。
「お兄様!」
テムルル・エイグの腕へと
「リルデ、何故お前が……」
テムルル・エイグは妹を抱き留め、蒼白な顔で片膝を付いた。
「皇子…捜して……、お兄様……無事……良か……」
兄の腕の中で、宗主の次妃でもあるリルデが瞳を閉じる。
バルドルはわなわなと震え、立ち尽くしていた。
「……俺は死んでも構わなかったのに……」
テムルル・エイグは、リルデを腕に抱き留めたまま呟く。
「……エイグ様、どうか、自分を
膝を折り、
「俺を殺せ、バルドル。お前がしようとしたように」
悲しみも、怒りも、後悔も、あらゆる感情が無いかのように、テムルル・エイグは虚ろな瞳を宙に向ける。
「できません、エイグ様。どうか、自分を手討に……」
バルドルが泣き伏せる。
「医者だ! 二人ともしっかりしろ! 早く医者に!」
タルギン・シゼルが叫ぶ。
「無駄だ」
テムルル・エイグは、露台の床にリルデを置いた。
「呼吸も鼓動も止まっている」
「諦めるな! 狂科学者の居場所を知っているはずだな。並の医者には無理でも、天才的な外科医でもある奴なら……」
タルギン・シゼルはリルデに駆け寄り、自分の上着を引き裂くと、リルデの背中の短剣を固定して、きつく巻き付け止血した。
「短剣を抜くと出血が酷くなる。だが、短剣が刺さったまま動かすと、傷口が広がる。後は、大急ぎでドナレオ・ダビルの所へ」
「バルドル!」
テムルル・エイグが一声だけ叫んだ。
我に返ったバルドルが駆け寄り、リルデを抱き上げる。
「狂科学者の居場所なら、バルドルも知っている。お前も一緒に行け。宮殿に長居すると、ジグドル・ダザルの部下達に捕まるぞ」
タルギン・シゼルは立ち上がるが、テムルル・エイグは動かない。
「お前は来ないのか、テムルル・エイグ」
「早く行け」
テムルル・エイグは、静かに笑った。
「死ぬなよ、テムルル・エイグ」
タルギン・シゼルは、リルデを抱いて走るバルドルの後を追った。
一人になった露台で、テムルル・エイグは立ち上がった。
「タルギン・シゼル、お前の言う通り、これは俺の報いだろう。世界を思うように動かそうとした。動かせると思っていた。だが、虚しいものだな。何をしても満たされず、生きている意味があるのか。俺は、生きていないも同然なのかも知れぬな」
「あの、エイグ様」
呼び掛けられ、テムルル・エイグはゆっくりと振り返った。
「リルデ様を御存じありませんか」
「リルデ付きの侍女か」
「はい。皇子様は無事に見つかったとお伝えしたいのですが、お姿が見えないのでございます」
「なるほど。皇子は今どこに?」
「乳母殿の
「妹を見かけたら伝えておこう」
「あの、エイグ様」
「まだ何か用か?」
「いえ、あの、お袖に血のような……もしや、お怪我でも、と……」
テムルル・エイグは、侍女に言われた袖を見やった。
「大事無い。もう行け」
侍女は、膝を折って頭を下げ、その場を去った。
テムルル・エイグの頭上で、微かな音がした。
見上げると、透明な天蓋が軋み、亀裂が走っている。
長らく保守作業を怠り、老朽化していた天蓋は、目に見える変化の無いまま、忍び足で崩落へと向かっていたのだった。
「もう長くは持たぬか。次のストーレに耐えられるかどうか……」
テムルル・エイグは、他人事のように呟いた。
天蓋が崩壊すれば、篠突くストーレに、ラダムナ宮殿も城下の町も、大打撃を免れない。建物はしばらくは持つとしても、濁流にのまれ、多くのものが
「ジグドル・ダザル、この難局をどう乗り切る。ウルクストリアの行く末、今暫くは眺めてみるか」
テムルル・エイグは、崩落へと向かう天蓋に向かって、高笑いした。
*************
テムルル家の高速艇でラヴィア島に向かい、入り江とは反対側の洞窟へと入ると、バルドルは、リルデを抱えて大股で進みながら、狂科学者の名を叫んだ。
タルギン・シゼルもバルドルの後ろを走る。
行き交う炎人達が道を空け、示された入り口に入ると、そこは機械類が並んだ研究室のような場所で、寝台もあった。
狂科学者ドナレオ・ダビルは、バルドルに抱かれたリルデを一目見て、おおよそは察したようだった。
「そこの寝台に、うつ伏せに」
それから周囲の炎人に何事か指図し、機器類が寝台周りに配置される。
バルドルとタルギン・シゼルは、別の炎人が長椅子へと案内した。
「これを飲んで落ち着くようにと、先生が」
香茶の盆が机に置かれた。
タルギン・シゼルがバルドルの顔を見やると、目は血走り、息も荒いようだった。
「確かに落ち着く必要があるな。バルドルも飲め。きっと次妃殿下は助かる」
「いや、自分は……」
バルドルは、立ったまま落ち着かない様子。
「気持ちは分かるが、今は、待つ以外に出来る事は無い。さあ、座って飲め」
タルギン・シゼルに促され、バルドルも漸く長椅子に腰を下ろして香茶を飲む。
疲れていた為か、香茶で気が解れたからか、或いは香茶に何か薬でも入れられていたか、タルギン・シゼルとバルドルは、やがて崩れるように寝入った。
呼び掛けられ、タルギン・シゼルとバルドルが目を覚ますと、目の前に、狂科学者ドナレオ・ダビルが立っていた。
「少しは疲れが取れて落ち着いたかの?」
二人には、それぞれに毛布が掛けられていた。
「長く寝ていたのか?」
タルギン・シゼルは、まだ覚め切らない声で訊いた。
「3日程かの」
ドナレオ・ダビルが
「リルデ様は!」
弾かれたようにバルドルが叫ぶ。
「こっちじゃ」
機器類に囲まれた寝台の上で、リルデの鼻と口は機器に覆われ、身体にも幾つかの管が取り付けられて、管は機械に繋がっていた。
「助かったのか?」
タルギン・シゼルが訊くと、狂科学者ドナレオ・ダビルは唸った。
「死んではおらん。今はまだ、機械を外せば呼吸も鼓動も止まるがの」
「そうか、話には聞いていたが、やっぱりあんたは凄いな、ドナレオ・ダビル」
「いやいや、脳死に至っていなかったのでな。じゃが、生きてはおるが、目覚めるかどうかは、また別の話での」
「目が覚めなかったら、どうなる?」
「このまま機械に繋いでおる間は、死にはせんはずじゃがな」
ドナレオ・ダビルの言葉に、バルドルが膝を床に付いた。
「そんな……リルデ様……どうすれば……」
「まあ、試験的に使った薬が効いてくれば、目を覚ますじゃろうて」
その言葉通り、数日後には、リルデは目を覚ました。
まだ話は出来なかったが、もう心配は無いとドナレオ・ダビルが太鼓判を押す。
バルドルは、テムルル・エイグを心配してラダムナへと戻り、代わりに、タルギン・シゼルが留まることになった。
更に数日後には、リルデは話も出来るほどに回復した。
「私、死ななかったのね」
「嬉しくはござらんか?」
「お兄様が無事なら、それで良かったのよ。ドナレオ・ダビル、なぜ私を助けたの? ウルクストリアは、長い年月お前を狂科学者として牢獄に繋いだのに」
脈を診るドナレオ・ダビルに、リルデは顔を背けて言った。
「またそのような事を。皇子殿下がおられるに」
ドナレオ・ダビルは、受け流すように応える。
「私なんか居なくても、皇子には乳母や侍女がいる」
「このタルギン・シゼルとバルドルが連れてきたでな。このドナレオ・ダビルも医者の端くれ。眼の前に怪我人や病人が居たら、ただ治療するだけじゃよ」
リルデは、背けていた視線をタルギン・シゼルに向けた。
「貴男には、私の事なんて関係ないでしょうに」
「そうかも知れんが、俺にも妹が居たんでね。兄貴としては、妹は助けたいさ」
「妹が居た?」
「アスタリアの歌姫だったシェリン。父親は違うが」
「アスタリアの歌姫……」
リルデは、そう呟いたきり、顔を背けて寝具を被った。
「どうかしたのか?」
タルギン・シゼルが尋ねても、リルデは応えない。
仕方なく寝台のそばを去ろうとするタルギン・シゼルを、小さな声が呼び止めた。
「待って、私、謝らなくては」
タルギン・シゼルは振り返った。
「俺に、一体何を謝るって?」
「私、アスタリアの歌姫に嫉妬したの。兄エイグが、アスタリアの歌姫は血の繋がった実の妹だと言ったのよ。私とお兄様は、血の繋がった兄妹ではないから、お兄様は私に意地悪で、私、アスタリアの歌姫が憎くて、ソルディナに捨ててしまえばいいって、シルニンに言ったの」
リルデを覆う寝具が、震えるように小刻みに上下していた。
「そんなことが……」
タルギン・シゼルは、複雑な面持ちで寝台を見下ろす。
「俺には、次妃殿下を、許すとも許さないとも言えん。ただ、アスタリアの歌姫は、ソルディナで今も生きているよ……」
そして、リルデには聞こえない小さな声で呟いた。
もう俺の妹ではなくなってしまったが、と。
「リルデ様」と、ドナレオ・ダビルが呼び掛けた。
「人は誰でも、いつ罪を犯すか分からぬ迷い子よの。じゃが、生きていれば、償える時もあろう」
「そんな道徳の教本みたいな話、聞きたくないわ」
「
「そんな事、出来るはず無いわ。私はお兄様に嫌われているもの」
「エイグ様の真意はエイグ様にしか、いや、エイグ様ご自身でさえ分かってはおられぬやも知れぬが、それでも、リルデ様だけがお救い出来ますじゃ」
リルデは、寝具から半分だけ顔を出した。
「本当にそうかしら? よく分からないわ」
「口を挟んでもいいか?」とタルギン・シゼル。
「俺は、幼い頃に母を亡くした。皇子殿下とは比べるべくも無いが、母親を亡くしたら、同じように悲しむに決まっている。それに、次妃殿下が生きる事をテムルル・エイグも望んでいると、俺は思う。幸せであって欲しいと望まないはずは無いと」
ドナレオ・ダビルも頷いた。
「まずは気楽に養生されよ」
そうね、と、リルデは寂しげに呟いた。
「一度死んで助けられた命、天空の神ヴィドゥヤーの思し召しに従うわ」
炎人が食事の盆を運んできた。
「宮殿の馳走には遠く及ばぬが、消化吸収の良い栄養食じゃよ」
リルデは寝台の上に起き上がり、運んできた炎人を見やる。
「お前が作ったの?」
炎人が、おずおずと頷く。
迷うように一口食べ、リルデは意外そうな顔で炎人を見上げた。
「美味しい」
リルデの言葉に、炎人は笑顔を輝かせた。
「ありがとう。私、知らない事が沢山あったのね」
ドナレオ・ダビルは、じっとリルデを眺めていた。
話でしか知らなかったであろう炎人に臆することなく、抱いていたであろう偏見にも惑わされず、真実を見極められる素直さ。
時には嫉妬に駆られ、間違いを犯すとしても。
「リルデ様、わしは感謝申し上げる」
「え? 何? 私を助けたのはお前よ?」
「皇子殿下の母君がリルデ様であることにじゃ。リルデ様ならば、崩壊へと向かうこの国の、灯ともなられよう」
「崩壊へと向かう? 何の話なの?」
腑に落ちない顔で、リルデはドナレオ・ダビルを見る。
「政治の不穏はご存じのはず。じゃが、それだけでは済まぬかも知れぬでの」
狂科学者ドナレオ・ダビルは話した。
このエラーラという惑星は、長い間、磁場が殆ど消失していたらしい。ドナレオ・ダビルの調査によると、2000年ほど昔に、ある程度まで活性化したとみられるが、再び弱まっているという。
惑星上の大気や水や生命は、宇宙空間を飛び交う高エネルギーの放射線や太陽風から、磁場によって守られており、磁場の消失は、惑星上に多大な影響を及ぼす。
惑星エラーラの持つ磁場は、急激に弱まって再び消失すると思われ、更に、太陽の活動が活発化して、莫大な量の太陽風が放出される兆しがあると。
「そうなったら、どうなる?」
タルギン・シゼルは、半信半疑で尋ねた。
「大気も海も剝ぎ取られるやも知れぬ」
「大気も海も……って、一体そんな事がいつ起きるんだ?」
「さての。昔の縁で、調査を手伝ってくれる炎人や海人もおるが、分かる事は僅か。今かも知れぬし、ずっと後かも知れぬ。銀のジュニーラの動きも気になるしの」
「銀のジュニーラがどうして」
「この惑星エラーラに対して、銀のジュニーラが桁違いに大きな月じゃからじゃよ。銀のジュニーラの直径は、エラーラの半径に匹敵するからの。万が一にでも衝突するような事が起きれば……」
「まさか、あり得ないだろ」
「あり得るか、あり得ないか、人知を超えた神のみが知る」
「狂科学者のあんたが、神を語るとはね」
「狂科学者なればこそ、神へと辿り着く。未知の心、未知の世界、未知の宇宙、それらの深淵に辿り着かんとすることは、神を追い求めることに等しいのかも知れん」
そして、ドナレオ・ダビルは、リルデに向き直った。
「天蓋都市を築き、ストーレという自然の脅威にも対抗してきた人類じゃが、宇宙の秘めたる力には太刀打ち出来ん。多くの民が、恐れ慄き、不安に喘ぎ、救いの手を求める。そうなった時、科学に出来る事は僅かしか無いかも知れん」
「本当にそんな事になったら、私には何も出来そうにないわ」
「まあ、わしの話は、あくまでも可能性の話。一寸先は神のみぞ知るじゃが、リルデ様ならば、困難には毅然と向かい、救いを求める声には寄り添えよう。民に勇気と希望を与える、そんな国母となられよ。
狂科学者ドナレオ・ダビルの話に、リルデは、じっと耳を傾けていた。