蛆父
饐えたにおいのする薄暗い路地の奥の、さらにその奥に、電話で聞いた通り古い雑居ビルがあった。
入り口にある階段の上から腐敗臭のようなにおいが風に乗って降りてくる。一瞬躊躇したが思い切って二階に上がった。
階段脇に黒いドアがあり、指示された通り三回ノックする。返事を待たずドアを開けよ、とこれも指示された通りに行うと中からむっとする異臭が流れ出て来た。
窓のない部屋は照明もなく、濃く深い闇が沈殿していた。そこから先に踏み込めずにいると、黒い澱の中から滲み出るように小柄な男が現れた。闇のままの真っ黒な姿で目鼻立ちも判別できない。
顔がないのかもしれないと思ったとたん、背中全体を虫が這うような感覚に襲われた。
「ご依頼を承りましょうか」
ぎしぎしとした声で黒い男は言った。
殺害して欲しい人物の名を告げて前金の入った厚い封筒を渡す。後金は依頼が成功した後に振り込むことになっていた。
振込先のプリントされたカードを受け取って雑居ビルを後にする。
大通りに出てから思いきり深呼吸した。
排気ガスが新鮮な空気のように感じる。
それにしても後金は振り込みだなんて、依頼人にとんずらされたことはないのだろうか。
そんなことを頭の隅で考えながら家路へと急いだ。
しばらくの間、何事もなく日々が過ぎた。
依頼は本当に実行されるのか。
奴の後金より自分の前金を心配し始めた頃、夜中に横で眠っている妻――ターゲットの枕元に何かのいる気配を感じた。
寝返りをして薄目を開ける。
常夜灯に浮かぶ黒い影――どこから入ってきたのか、あの男だ。
妻の上に両手を差し出しこすり合わせている。その手から何か細かいものが溢れ、ざああと米の流れるような音が聞こえていた。
その一つが跳ねて自分の枕元に転がってきた。
蠢く蛆虫だ。
「ひっ」
思わず声を上げ、飛び起きた。
「おやおや見てしまったのですか。これは私の子供たちです。かわいいでしょう? それだけではなくとても優秀なのですよ」
黒い影がくくくと笑う。
妻は大量の蛆虫に集られ、悲鳴を上げる間もなくすでに死んでいた。見開いた眼球の上に群がっていた蛆虫たちがごそっと眼窩に落ち込むのを見て吐き気が込み上げる。
「ね、優秀でしょう。血を一滴も残さず、骨まで食べ尽くしてしまいます。
だからご安心ください。証拠は何一つ残りませんから」
すでに妻の全身は骸骨になり果て、それに寄り集まった蛆たちの骨のかじる音が聞こえてくる。
こりこりこりこりこりこりこりこりこりこり
脳にまとわりつく嫌な音だった。
耳を塞ごうとしたその瞬間、
「では、後金の振り込みよろしくお願いしますよ」
と言う声が聞こえ、ぶぶっという羽音を立てて男は闇に溶けた。
カーテンの隙間から注がれる朝の光で目が覚めた。
横を見たが隣に妻はいなかった。すでに起床しているのではと気配を窺ったが、そんな様子はない。
夢ではなかったのだと確信し、浮気と浪費癖のある妻にもう悩まされることはないのだと安堵する。
あの男が言ったとおり殺害された痕跡がまったく残っていないので私が警察に疑われることもないだろう。
連絡のないまま妻が帰ってこないことはしょっちゅうあったから、頃合いを図って警察に届け出すればいい。
それにしてもあれだけの蛆虫たちはいったいどこに消えたのか。どうやって男のもとへ帰ったのだろう――いや、一匹だけ残っている。もぞもぞと枕の端を這い、私が見ていることに気付いて頭を持ち上げた。そのとたん、シーツの下が一斉に蠢いた感触がした。
決して安いとはいえない後金をすぐ振り込みに行ったのは言うまでもない。