鬼婚。
生まれ変わりって、あるらしい。
綾乃は、そんな話、信じられないと思う。
「でも、そうなんです!」
目の前の美しい顔立ちをした男性は、涙で黒い瞳を潤ませながら必死に訴える。
「そ、そんなこと突然言われても!」
綾乃は、おおいに困惑していた。
突然、「生まれ変わり」、そんな話をされても到底信じられるわけがない。
「てゆーか、なんで私の部屋にいるのよ!?」
日曜の平和な朝のはずだった。外は晴れ渡り、桜の花が満開を迎えていた。
一人暮らしの綾乃の部屋は、うららかな朝日で満たされていた。なにも予定がない、のんびりとした休日のはずだった。オーブントースターの中のロールパンが、自分の出番はまだか、といい匂いをさせながら待機している。野菜たっぷりのスープも、鍋の中で湯気を立てている、そんなときだった。
「どうやって部屋に入ったの!? てゆーか、あんた……!」
見知らぬ美しい男性を指差す綾乃の手が震える。綾乃の指は、まっすぐ男性の頭の辺りを指していた。なぜかというと、それは――、男性の頭の上に、立派な角が一対、ついていたからである。
「なんで鬼がいるのよーっ!?」
叫ぶ綾乃の声は、かすれて震えていた。本当は、大声で隣近所に助けを求めるべきなのだろうが、驚きと恐怖で肝心の大声が出ない。
節分には、ちゃんと豆を撒いたのに……!
混乱する綾乃の脳は思わず、節分について思い返していた。あのときの、豆の量が足りなかったのだろうか、それとも面倒だから、買い置きしてあった小袋に入っているミックスナッツを撒いたのもいけなかったのだろうか、なんてことまで考える。
「……先ほどもご説明しましたが、綾乃さんの魂の三回目の人生で、私と綾乃さんが結婚の約束をしておりまして――」
「だから、魂の三回目って、なに!?」
綾乃は思わず叫んだ。今度はちゃんと大きい声が出た。
「平たく申し上げますと、つまり、綾乃さんの数代前の、前世というものです」
「前世って、そんなものがあるの!? それに、たとえあったとしても、私、前世の約束なんて知らない……!」
「綾乃さんにとっては遠い前世でしょうけれど、ほぼ永遠ともいえる魂を持つ私にとっては現在、現世の話なのです」
「なんで! なんで私なのよ!?」
百歩譲って、前世の約束だとしても、何回か生まれ変わりがあった中で、なぜ自分に白羽の矢が立ったのか、わけがわからない。
「ずっと、男性だったのです」
「は?」
「約束をしてから、ずっと男性に生まれ変わってしまっていたのです」
「じゃ、じゃあ、なに!? もしかして、私がその『約束』の後に生まれ変わった最初の女性ってこと!?」
「はい! だから、こうして馳せ参じました」
「なんでそんな約束したのよ!? 『前世の女』の私!」
「いえ。約束を交わしたのは、当時の綾乃さんではなく、綾乃さんのご両親です」
「え……?」
「そのときの綾乃さんは、とても重い病気にかかり、医者も匙を投げるような状態でした。それで、綾乃さんのご両親は、病が治るようにと、山の中の祠に住む私に向かって、願かけをしたのです」
「が、願かけ!?」
「はい。ご両親は、娘の病を治してくれたらそのお礼になんでもします、とおっしゃいました。それで私は、あなたをお嫁にもらうことを望みました。ご両親は動揺されておりましたが、それで命が助かるのなら、と約束されました」
「なにその昔話みたいな展開!?」
どこかの昔話や伝説で聞いたことのある展開だった。
「……しかし、残念ながら、当時の綾乃さんが年ごろに成長すると、人間の恋人ができてしまい……」
鬼は、悲しそうな目をした。
「……愛し合う二人を引き裂いてはいけない、と思い、私はそっと身を引いたのです」
「へえ、偉いね!? 結構いいとこあるじゃん!」
「でしょう?」
鬼は、今度は瞳を輝かせた。褒めてもらって嬉しいらしい。
「でも、せっかくの約束、私は待つことにしました」
「そ、そして私が生まれたから、約束を果たすために……?」
「はい! 新しく生まれ変わったあなたを探すのに、少々時間がかかりましたけど……。なにしろ、生まれ変わりはワールドワイドですから……」
これは、悪い夢だ。
綾乃は、おたまを持ったまま呆然と立ち尽くす。それにしても、この鬼、よくしゃべるなあ、と思う。そのせいか、怖さはまったく感じられなくなっていた。
古風な着物を身にまとい、艶やかな黒髪は腰までの長さ、涼しげな目元、すっと通った鼻筋、引き締まった口元、長身で、すらりとした手足――、角があることを除けば、うっとりするような美青年だった。
いや。いい夢なのかな?
見目麗しい青年が求婚してくる、しかも、前世の約束などという美しい言葉を掲げて。これを悪夢と言ったら世の夢見る乙女たちから猛抗議を受けてしまうかもしれない――。
「と、いうわけですので、早速ですが、婚礼の儀は次の満月の晩にでも――」
「ちょっと! 勝手に話を進めないでよ!?」
綾乃は、叫んだ。滅茶苦茶だ、と思った。いきなり現れて、身に覚えのない前世だかなんだかわけのわからない話を持ち出し、挙句結婚の日取りまで勝手に決める、すべてが一方的で強引である。しかも相手は鬼、美しい容貌で穏やかな物腰、されど鬼である。
「私は人間よ!? 鬼のお嫁さんなんて無理よ!」
「鬼嫁。そういうお嫁さんは結構いると思いますけど……」
「それはたとえの話よ! ほんとの鬼嫁になってどうする!?」
「……鬼嫁、いないんですか?」
「そういう意味の鬼嫁はいないっ!」
野菜スープが吹きこぼれていた。綾乃は、慌てて火を止める。
そのときだった。
「危ないわね」
不意に、女性の声がした。
「女の声!? だ、誰っ!?」
綾乃の目の前に、美しい女性がいた。
「えええっ!?」
綾乃は、目を疑う。いつの間に現れたのだろう、鬼の青年同様、いきなりの登場だった。
女性は、やはり長い黒髪が美しく、艶やかな着物を着ている。そしてその頭頂部には――、三本の角があった。
「あんたも鬼かいっ!」
綾乃は、思わずツッコミを入れる。
「その結婚話、待ったよ!」
鬼の美女は叫んだ。
「え……?」
綾乃と鬼は顔を見合わす。
「あんたの知り合い……?」
綾乃は鬼に尋ねる。
「いいえ……? 確かに同族みたいですけど……」
鬼も首をかしげる。
「間に合ってよかった……! 私はね、綾乃の五回目の生まれ変わりのときに、結婚の約束をしていたのよ……!」
鬼の美女が叫んだ。
「えええっ!? どういうことですか!?」
綾乃と鬼は、声を揃えて叫び返す。
「綾乃の五代目は、不慮の事故で死の淵をさまよっていたの。それで、綾乃の両親が、私の祠に願かけしたのよ! 助けてくれるならなんでもしますって!」
「そ、それであなたも結婚を条件にしたの……!?」
「そうよ!」
なんということだろう。前世の私、死にかけすぎる――。
そして両親、安易に約束しすぎる。結婚は、その後の人生を左右する一大事なのに。願かけするなら、ちゃんと神様や仏様にしてくれ、と綾乃は思う。
「あれっ? でも私は女よ!? どうして私のところに!? 男ばかりに生まれ変わっていたというし、ちゃんと旦那さん候補の前世がいたはずじゃない!」
「みんな早死にしちゃったのよ!」
そ、そうですか……。
自分の前世は死にかけと早死にばかり、なんとも悲しいお知らせだった。
「あっ……! それであなたは、なんで今来たの!? 私とこの鬼さんとの結婚に間に合ってよかったって、なんで? なにがいけないの?」
話の流れ上、うっかり結婚を認めているような話しぶりになってしまった。
「一度鬼の籍に入ったら、戻れないのよ!」
この場合の「鬼籍」は一般に言う「鬼籍」ではない。
「戻れないって……?」
「ずっと鬼のお嫁さん。永遠に生き、生まれ変わりはなくなるの」
「えーっ!? そうなの!?」
「そんなの、困るわよ! 今度はちゃんと丈夫でイケメンな男の子に生まれてくれないと……!」
『イケメン』は鬼の美女の密かな願いである。
「困ります! 私の約束のほうが先なんですから!」
鬼が割って入る。
「そ、そんなこと言ったって……!」
ん……? 待てよ……?
鬼の青年は結婚がしたい。鬼の美女も結婚がしたい。と、いうことは……。
「ちょっと! それじゃあんたたちがくっついたら、丸く収まるんじゃないの!?」
「え……!?」
「あんたたち、早く結婚したいんでしょ!? しかも、同じ鬼同士だし! いいじゃない? 結構あんたたち、お似合いよ!?」
鬼なだけに、お似合い、と勢いでダジャレまで言いそうになったが、それはかろうじて踏みとどまった。
「えええ!? 私たちが、ですか!?」
鬼の青年と鬼の美女は顔を見合わせた。
「そんな急に……。だって、お互い何も知らないし、それなのに急に結婚だなんて……」
「私だって何も知らないでしょう!?」
「そ、それはそうですけど……」
鬼の青年と鬼の美女は恥ずかしそうに見つめ合う。
「とりあえず、今日は天気もいいし、桜も綺麗に咲いているし、二人でこれからデートでもしてみたら?」
「え……」
戸惑う鬼二人の背中を押す。
「この部屋で偶然鉢合わせ、これって運命かもよ!?」
「運命……?」
「現世のことは、現世のうちに! 私の前世の古い約束に縛られてないで、今の運命の流れ、信じてみたら!?」
綾乃は、鬼二人の背中を文字通り押して、笑顔で外に押し出した。
「さあ! 後は若い人同士、仲良くお散歩でもしてらっしゃい!」
「は、はい……!」
照れくさそうに視線を交し合いながら、鬼たちは桜の花咲く青空の下へ歩いて行った。
さて……! 鬼は外! だな……!
綾乃は、やれやれと思いながら、自分の朝食をテーブルに並べようとした。
「あのう……」
部屋の隅から、いきなり見知らぬ男性の声がした。
「えええっ!? 今度はいったいなにっ!?」
声のするほうを見る。そこには、小柄だが端正な顔立ちの青年が立っていた――、サラサラの黒髪は、現代風にカットされている。服装も、今どきの若者の服装だった――、しかし頭頂部には、やはり、一本の角。
「また鬼かいっ!」
もしかして、また前世の約束……。
「あのう……。実は俺、綾乃さんの幼いころ、結婚の約束を――」
「私の幼いころ!?」
思いっきり現世だった。
「それじゃ、もしかして、約束したのって、私の両親!?」
「はい……。綾乃さんが小さいころ、重い病にかかりまして、ご両親が俺の祠に願かけに……」
私も「死にかけ」タイプだった……!
綾乃は、「死にかけシリーズ」最新作、などというちょっと不謹慎な言葉を自嘲気味に頭の中に浮かべる。
「俺も結婚を望んだのですが、でも、俺は偶然、あの先輩がたの約束があるのを知り、どうしようかとずっと迷っていて……」
「そうだったの……!」
「それで、その……、今になりました……」
一本角の鬼はうつむいた。
「やっぱり、鬼はだめですよね……」
一本角の鬼は、黒い瞳に涙を浮かべ、帰ろうとした。
「待って……!」
「え……?」
一本角の鬼は振り返る。
綾乃は、優しく微笑んだ。
「なんでしょうか……? 綾乃さん?」
綾乃は、深呼吸をした。そして……。
「結婚、しよっか……?」
「えええっ!?」
衝撃の、逆プロポーズをした。
綾乃は、三十八歳。独身。母性本能をくすぐる年下男性がタイプだった。両親から結婚話のプレッシャーがかかる日々。
相手が鬼だけど、この際、かわいいからいいか……! 一本角だと、帽子とかで隠しやすそうだし……!
外は花盛り。恋のシーズン真っ只中。
綾乃は、少女のようにはにかむ。
「でも、いきなり、結婚っていうのもなんだね。やっぱり、結婚は、ちょっと付き合ってから考えようか? 今までずいぶん待っててくれてたんだから、もうちょっとくらい待てるよね?」
「はい……!」
一本角の鬼は顔を明るく輝かせた。
「とりあえず、朝ごはん、食べる?」
「はい……!」
鬼も、ロールパン、食べるんだろうか。
綾乃は、オーブントースターにもう一人分、ロールパンを追加した。