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1.赤ビルの朝

 朝八時、枕元の目覚ましの音で、俺はベッドから起き上がる。
 バスルームに行き、そこでシャワーを浴びながらついでに顔も洗って、服を着替える。
 それからカレンダーを確認し、今日が約束の日である事を二度見で確かめた。
 俺は朝食を食べずに家を出て、エレベーターで自分の部屋のある四階から五階へと上り、当然のように鍵が掛かっていない扉を開けて中に入る。
 シノさんはペントハウスで暮らすようになってから、一階に施錠がしてあるからって理由で、部屋には施錠をしない。
 敬一クンは、此処に暮らし始めて最初の頃は、やはりそれぞれの部屋で施錠をすべきだと考えて、俺にもペントハウスの合鍵をわざわざ作ってくれた。
 だが、シノさんはやっぱり鍵を閉めないし、敬一クンの友人であるエビセンが出入りをするようになったら、鍵が掛かっていると不便な事が増えたので、諦めたようだ。
 その代わり、メゾンの出入り口である赤ビルの裏口の鍵の複製を作り、ビルの住人には部屋の鍵と裏口の鍵の両方を渡して、裏口の施錠を必ずするようにと伝えたらしい。
 なぜ「らしい」のかと言うと、俺はシノさんがここで暮らし始めた時から裏口の合鍵を貰っていたので、改めて鍵を受け取った訳では無いからだ。
 ペントハウスに入ったら、後は勝手知ったるナントカ…で、俺はシノさんの寝室に行き、そこで寝てるシノさんを起こす。
 ちなみに、表現をもう少し正確にすると、現在ここはシノさんの寝室でなく、シノさんと敬一クンの寝室だ。
 強引マイウェイなシノさんから義弟認定された敬一クンが、シノさんの家で暮らし始めてそろそろ二ヶ月目に突入する。
 現役大学生の敬一クンは、まだ日が昇る前の早朝に起きてランニングに行くのが日課だから、この時刻には寝室になどいない。
 登校時間が遅めの日は、ランニングから戻ってくると、適当な時間にシノさんを起こし、一緒に朝食を摂って開店準備を手伝ったりする。
 でも早めに学校に行かねばならない日は、ランニングの後は一人で食事をして、シノさんに声を掛けずに登校して行ってしまう。
 シノさんはかなりの朝寝坊で、誰かが起こさないと昼まで寝てたりする。
 だから敬一クンがいなくなってしまう朝は、俺がシノさんを起こさねばならない。
 敬一クンのスケジュールは曜日毎にパターンが決まっていて、カレンダーを念入りにチェックしたのは、敬一クンのスケジュールを確認するためだ。
 早めに登校してしまう日は、俺がペントハウスに行ってシノさんを起こし、シノさんと一緒に朝食を済ませ、一緒に階下へ降りて、一緒に開店準備をしなければならない。
 前述の通り、シノさんはかなりの朝寝坊なのだが、時々敬一クンがランニングに出掛けるのと同じくらいの時間に飛び起きて、鼻歌交じりで好物のフレンチトーストを作っていたりする事もあるが、そんな事は都内に雪が降るよりもマレな話で、大体はちょっとやそっとでは起きない。

「なんだよ〜、まだいーじゃんか」
「良くないの。ほら、起きて。敬一クンと、シノさんのコトちゃんと起こすって、俺は約束してるんだから!」
「ん〜、も〜、ケイちゃん余計なコトを…」

 ぶちくさ言ってるシノさんをベッドから引っ張り出して、キッチンに移動する。
 そこには敬一クンが支度した朝食の下準備が残されていて、シノさんがそれを引き継いで朝食を完成させる。
 敬一クンがシノさんの分の朝食を完成させていないのは、シノさんが朝食は出来立てのを食べたがってるからだ。
 概ね怠け者のシノさんだが、食べ物の事となるとマメに動き、ギアが入ると更に猛烈にこだわる。

「シノさん、そろそろ敬一クンに、ちゃんと部屋を用意してあげた方がイイんじゃないの?」
「ケイちゃんの部屋なら、ちゃんと用意したぜ」
「用意って…、家具が全然置いてないじゃん! ベッド買いなよ」
「なんだよレン。嫉妬かぁ〜?」
「敬一クンがシノさんに懸想するような子だったら、最初から同居に反対してます〜」

 敬一クンは大人っぽい外見とは裏腹な、のほほんとして行儀の良いお坊ちゃんで、シノさんと一緒のベッドに寝ていても、何の心配もいらない。

「ケイちゃんさ〜、せっかくエビちゃんがメゾンに住むよーになったんだから、デートのひとつもすりゃいーのにな〜」

 エビちゃんとは、このメゾン・マエストロに先日入居した敬一クンの友人の、海老坂千里の事で、シノさんは殊更お気に入りの様子なのだ。
 この海老坂千里ことエビセンは、シノさんに勝るとも劣らぬ美形なのだが、美青年というより美少女みたいな顔をした男なので、シノさんとはタイプが全然チガウ。
 そして俺はその美少女みたいなエビセンを、全力で避けている。
 女みたいでキモイ…とかいう理由では、全然ナイ。
 エビセンは敬一クンと同じ球技をやってた生粋の体育会系男子で、顔は美少女だけど、体格はガッチリしてるし、態度もキビキビしてるし、年功序列の礼儀もキチンと保ってる。
 だけどいっそエビセンが、女みたいでキモイ男だったなら、俺はここまでエビセンを避けなかったかもしれない。
 なぜかと言うと、エビセンは態度はちゃんとしてる美貌の男だが、目がコワイのだ。
 それもまた、ひと目見てすぐにもワカル、眼力が強いとか鋭いとかって話ではナイ。
 エビセンの事を例えるなら、一見 ”可愛い子猫” かと思いきや、傍に寄ったら体長10mの大型肉食獣で、ウカツに近寄ったら頭からバリバリ食われて一巻の終わり…みたいな感じなのだ。
 言っても誰にも解ってもらえないかもしれないが、エビセンは絶対、そういう目をしている。

「エビセンとデートさせたいなんて、俺にはシノさんがナニ考えてるのかさっぱりワカンナイよ」
「エビちゃんって、イイ目をしてるじゃん。最高のカレシになると思うぜ! ケイちゃんみたいな天然サンには、ビッタシだよ」

 確かに通常モードの敬一クンはかなりの天然で、場合によってはいろいろアレな感じもするから、気の回るエビセンみたいなヤツがサポートをした方がイイのかもしれないが、それはシノさんが心配するような事ではなく、敬一クン自身が判断すべき事だと思うのだが。

「エビセンとデートさせたいなら、敬一クンの寝室を別部屋にするコトから考えなよ」
「デートならエビちゃんの部屋で出来るじゃん」
「エビセンの部屋は、コグマとシェアしてるんだから、デートに使うのは無理なんじゃないの?」
「コグマぁ? あんなフワフワ遊び歩いてる電書ボタルみたいな惚れっぽいのに、気ィ使う必要ねェじゃろ」
「惚れっぽくて遊び歩いてたとしても、コグマは部屋に誰かを連れ込んだりしてないじゃん。先にエビセンがマナー違反するのって、どうよ?」
「じゃあ、毘沙門とか」
「あんな大柄の男子学生がデートなんてしてたら、悪目立ちしちゃうに決まってんでしょ! 商店街の風紀委員に通報されたら困るじゃん。毘沙門はショーゴさんの管轄じゃないから、融通も利かせてもらえないんだからね! 敬一クンが前科モンになったらどうするんだよ!」

 ショーゴさんと言うのは、最寄りの派出所に詰めている巡査で、俺達とは小学生の頃からの幼馴染だ。

「じゃあ赤城神社?」

 毘沙門と何がチガウのか? と問うたところで、シノさんが俺の期待するような返事をするはずも無いだろうし、そもそもエビセンとデートってだけで、既に敬一クンが頭からバリバリ食われるイメージしか沸かないので、俺はこれ以上この話題を続ける気力が無くなった。

「いやもうエビセンのコトはイイよ。とにかくそろそろ敬一クンにも、自分の部屋にちゃんと家具を入れてあげたらって言いたかっただけだし」
「出物の家具が見っかるまではムリ〜」
「なにそれ?」
「ケイちゃんは実家の援助受けたくないっつってるしー、俺も家具なんて金払って買いたくねェしー、店の利益のほとんど全部、オマエの給料に払っちまってるしー」
「いなきゃ困るクセに…」
「それは知っちる。でなきゃ給料なんか払わねェっての」

 今朝の敬一クンはハムエッグとソーセージとレタスとポテトサラダ、それにチーズトーストで朝食を済ませたらしく、冷蔵庫の中にそれら一式がトレーにまとめられていた。
 シノさんはそのトレーを無視して、八枚切りの食パンとクリームチーズを取り出し、更にそこのかごに置いてあったバナナを調理台に並べると、棚からバウルーを取り出した。

「中身、俺と同じで良い?」
「えっ、中身ってコレ?」

 バナナとクリームチーズを指差すと、シノさんは迷いもなく頷く。

「ABCサンドってゆーんだぜ」
「なんで?」
「アップル・バナナ・クリームチーズでABC」
「りんご、無いよねぇ?」
「昨日、メシマズが鎌倉の有名店で買ったとかゆー、ジャムのセットを送ってきてさぁ。ちぃと味見したら、りんごジャムが結構イケたんだよ」

 皮がかなり黒くなっているバナナは、まだ剥いても無いのに甘い香りを漂わせている。
 いくら上等と言っても市販のりんごジャムが甘くない訳も無いだろうから、俺は首を左右に振った。

「俺はハムとチーズと貝割れ大根がイイんだけど…」
「あ、貝割れ大根なら、ケイちゃんがそこの箱で育ててるぜ」

 シノさんの屋上菜園に啓発でもされたのかと思いながら、シノさんが指さした箱の蓋を開けると、購入して使った後の豆苗の根っこが入っていた。

「シノさん、これ豆苗だし。それにまだ芽が出てないから、食べられないと思う」
「うい? そーだった? んじゃあ、野菜室に買い置きあったかも。先に俺の焼いちゃうから、入れたい具材を並べとけ」

 野菜室を漁ると、使いかけでちょっとしなびた貝割れ大根があったので、俺は敬一クンが残していったトレーからハムとチーズ、それにポテトサラダを取り出して、ポテサラだけ別の小鉢に移してテーブルに置いた。

「買った豆苗の根っこ、箱に入れてあるだけなのに、なんで敬一クンが育ててるなんて言うのさ?」
「俺がやってたんだけど、ケイちゃんが俺の管理が悪いからって、面倒見るようになったんで、今はケイちゃんのなんだよ」
「ああ、そう」

 キッチンにはコーヒーメーカーや電気ケトルなんかも置いてあるので、俺はお茶を煎れるためにケトルでお湯を沸かした。
 シノさんが焼き上がったホットサンドを皿に盛り、俺達はダイニングテーブルに向かい合って座る。

「シノさん、今日の即売会どうするの?」

 即売会とは、アナログレコードの即売会の事だ。
 毎月同じ日に開催されており、個人客も出入り可能だが、基本的には同業者が集まって仕入れをする催しで、場合によっては掘り出し物に遭遇する事もあるが、そんな事は滅多に無い。

「ん〜、今日は行く〜」

 不思議なくらいシノさんは、こういう時に勘が働く。
 シノさんが出掛けたがる時は、意外な掘り出し物に遭遇するし、シノさんがノリ気じゃない日は、面白いぐらい何事も起こらないのだ。
 今日の返事の具合だと、何か買えそうな予感がしてるって感じだな。
 いつも移動の足にしてたスーパーカブを、敬一クンに貸してしまっているシノさんは、面倒くさそうにぶちくさ言いながら、地下鉄の駅に向かった。

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