月光の糸
薄いカーテン越しに朝日が差し、僕は目を覚めした。朝なんて来なければいい、眠ったまま目覚めなくていい、そう思うのに、こんな僕にも容赦なく朝は訪れ、眠りに落ちたと思う間もなく早く起きよと急き立てる。
ベッドに横たわったまま、僕は布団をかぶった。
往来する車の音、近づいて離れていくパトカーの音、近くの踏み切りの遮断機の音、走り去る電車の音。そんな音ばかりで、人の声やドアの閉まる音は聞こえない。アパートの住人はもうみんな出掛けて居ないのだろうか。母さんもとっくに仕事に出掛けただろう。僕も今日は学校に行かなければならない。
壁のハンガーに掛かった学生服の肩は、薄く埃になっている。
僕はようやくベッドの上に起き上がり、着ていたTシャツの上にフリースのシャツを羽織ってジーンズを穿いくと、机の上からデイバッグとスマートフォンを取り、椅子に掛けたダウンジャケットをつかんで部屋を出た。
転学した通信制高校は、五つ先の駅から二十分ほど歩いた丘の上にある。今から行けば三時間目か四時間目の補習には間に合うだろう。
電車は空いていた。朝の混雑は苦手だから、中途半端なこの時間はいい。中途半端な僕には似合っているのだろう。けれど、こんな時間でも、僕以外の皆は時間を気にして急いでいるように見えた。
電車から降り、改札口を出ようとしていた時だった。駆け込みで入ってきた誰かに突き飛ばされ、よろめいた僕のジャケットのポケットから、スマホが滑り落ちた。僕にぶつかった誰かはそのままホームへと駆け去っていく。
「大丈夫ですか?」
駆け寄ってきた駅員が心配そうに訊いた。
「大丈夫です」
僕はゆっくりと、コンクリートの上からスマホを拾い上げる。
「スマホ、壊れませんでした?」
「大丈夫です」
僕はスマホをポケットに入れた。
「でも、電源が入るか、確かめてみなくていいんですか?」
「いいんです。もとから壊れてましたから」
駅員は不思議そうな顔をして僕を見送った。
電源が入らず、通話もメールも出来ないスマートフォンを持ち歩くなんて、我ながら馬鹿げていると思う。保存されていたはずのメールさえ読めないのに、まだ処分どころか買い替えることさえ出来ない僕。
もう必要のない学生服を処分できないのと同じくらい、いや、それ以上に未練たらしくて情けない。区切りをつけ、少しずつでも前進しなければ。頭ではそう思いながら、いたずらに時は過ぎ、僕の心を置き去りにして季節だけがめぐっていく。
学校に続く坂を上りながら、僕は空を見上げた。冬だと言うのに空は晴れ渡り、白い半月が青い空に貼り付いている。あの日と同じに、まるで氷の薄い欠片のように。
僕はなぜ生きているんだろう。こんなにも冷えた心を抱えて。二人助かることができなかったのなら、代わりに僕が死ねば良かったのに。
僕はポケットからスマホを出した。傷付き、いびつに歪んでしまった僕のスマートフォン。先ほど落とした衝撃で角が少しへこんでいたが、それ以外は何も変わらない。電源ボタンを押してもディスプレイは暗いままで、電源は入らない。二年前のあの日から。
数学の補習を受け、午後は教科書を見ながらレポート課題の空欄を埋め、それから家に帰った。
夕飯は、仕事から帰った母さんが用意してくれた。それを食べてから、形だけは机に向かい、今度は英語の教科書とレポート課題を広げたが、勉強する気になんてなれない。
「
ドアの向こうで母さんの声がした。
「明日も早いから、母さん、先に寝るね」
「分かった。僕も少ししたら寝るよ」
早く寝てもどうせ眠れない。だからと言って何もしたいことはないのだが。
明かりを消し、窓際のベッドの上に横になり、それからカーテンを開けて外を見た。街の明かりで空はぼんやりと明るく、星はあまり見えない。蒼白い半月だけが、西よりの高い空にぽつんと浮かんでいる。
「
その時、なじみのある振動音が聞こえてきた。
まさか……。
振り向くと、薄暗い部屋の中で、机の上のそこだけが光っている。スマートフォンが振動しているのだ。いくら充電しても電源さえ入らなかったはずなのに、それは確かにメールの着信を知らせるものだ。
僕は反射的に手を伸ばし、アイコンに触れた。
「愛理からだ!」
僕は慌ててメールを開いた。
(トキトくんにあいたい。トキトくんにあいたい。トキトくんにあいたい。)
誰かのイタズラだとは思いもしなかった。眠って夢を見ているのかもしれなかったが、それでもいい。僕はふるえる指で返信した。
(あいりか? 僕も会いたい)
頼む。ちゃんと届いてくれ。
エラーにはならず、すぐにまた着信があった。
(トキトくん? ほんとうにトキトくん? 返信くるって思ってなかった。うれしい。夢みたい。)
(僕もだよ。今どこにいる?)
(あたしは自分の部屋だよ。去年と同じ月丘町に住んでるよ。今までも何度もメールしたのに、いつもエラーで返ってきた。やっと届いた。トキトくんこそ何処に行ってたの?)
(僕は何処にも行ってないよ。丸山団地のアパートの自分の部屋にいるよ。)
愛理からの返信は、そこで途絶えた。僕からメールを送ってもエラーで返ってきてしまい、何度試みても同じだった。やがて、僕のスマホは電源が切れてしまった。慌てて充電したけれど、もう電源は入らなかった。
夢だったのかもしれない。きっとそうだ。愛理はもういないのだ。受け入れたくないだけで、僕はそのことを知っているのだから。
でも、夢でもいい。たとえメールだけでも、愛理とつながることができるのなら。
翌日の夕暮れ、何の前触れもなしに僕のスマホは再び目覚めた。愛理からのメールの着信。夢ではなかった? それとも、僕はまた夢を見ている? どちらでもいい。
(トキトくん、昨夜はごめんね。またスマホが変になっちゃって。このメール今度こそちゃんと届きますように。)
(大丈夫。愛理のメールちゃんと届いたよ。壊れているのは僕のスマホなんだ。ごめんね)
(よかったぁ! ちゃんと届いたんだね! トキトくん、そこにちゃんと居るんだよね?)
(居るよ。ちゃんと居る)
(あたし今日ね、丸山団地に行ってみたんだ。だけど、トキトくんの家見つけられなかった)
(僕も月丘町に行ったよ。愛理の家は見つけられなかった。でも、今はこうしてメールで話せるから)
(トキトくん、あたし昨日のことのように覚えているよ。朝の通学途中だったよね。自転車で前後に並んで走ってた。蓮ヶ池の橋に差しかかった所で車が突っ込んできて、あたしたち自転車ごと池に落ちた。水がすごく冷たくて、沈んでしまったあたしをトキトくんが助けてくれた。でも、そのあとトキトくん沈んでしまった。ごめんね。あたしのせいだよね)
(僕は生きているよ。愛理は悪くない。僕は愛理を見つけられなかったんだ。助けようとしたのに僕だけが助かってしまった。ずっとそう思っていた。愛理が無事でよかった。)
(トキトくんがあたしを助けてくれたんだよ。)
(そうか。僕はちゃんと愛理を助けられたのか。よかった)
(あのね、あの日、毛布にくるまれて月を見たよ。トキトくんが見つからなくて、泣いて泣き疲れて、ふと見上げた空に白い月が貼りついてた。でも、トキトくんが無事だったなら、あたしあんなに泣かなくてもよかったんだね。)
(薄い氷の欠片のような半月だったね)
(きのうのお昼、あたし同じような月を見たよ。学校に行く途中の坂の上で)
(僕も見た。もしかしたら、同じ時間に同じ月を見ていたのかも)
(だったらうれしい。あたしね、今も窓から月を見ているよ。)
僕は急いで窓辺に寄り、カーテンを開けて空を見上げた。
(僕も見ているよ。綺麗だね。)
僕はふと思った。もしかしたら、愛理とメールができるのは月が関係しているんじゃないだろうか。昨夜スマホが使えなくなったのは、月が沈んだ頃じゃなかったか。もしかしたら、今ならメールだけじゃなくて通話もできるんじゃないだろうか。
(うふふ。月を見ているじゃなくて、今あわててカーテン開けて見たんでしょ?)
(ばれたか。それより、こうやってメールできるのって、もしかしたら月のお陰かも。メールじゃなくて電話してみようか。番号変わってない?)
(昔のままだよ。あたしもトキトくんの声聞きたい。)
僕は急いで電話した。心臓がドキドキと音をたて、指がもつれそうになる。けれど、通話ボタンを押してもコール音は聞こえてこない。いくら待っても、何度やり直しても。
僕は落胆し、再びメールを返した。
(ごめん。通話は無理みたいだ。久しぶりに愛理の声が聞きたかったんだけど)
しばらく間があって、愛理からのメールが届いた。
(あたしもやってみたけど、やっぱりダメみたい。)
(もうすぐ月も沈むね。もう遅い。また明日の夜に話そう。もしかしたら満月の夜なら通話も大丈夫だったりね。)
(そうだったらいいね! あたしたち、月の光の糸でつながっているのかもだね。じゃあ今夜はもう寝るね。)
(うん、おやすみ)
(おやすみなさい)
次の日も、僕と愛理はメールで話した。
僕の記憶や認識の中では、愛理はあの日の事故で死に、愛理の家族は引っ越してしまっていた。けれど愛理によると、あの事故で死んで家族が引っ越したのは僕のほうらしかった。
もしかしたら僕がメールしている相手は僕の知っている愛理ではなくて、別の誰かなのかも知れない。互いの顔を確かめられればと思ったけれど、画像を添付するとなぜかメールは送信できないのだった。
僕たちは色々なことをメールで話した。
高校二年のあの事故以来、愛理はショックで学校を休みがちになり、卒業が難しくなって通信制高校に転学し、週に数日だけファストフード店でアルバイトをしながら勉強も頑張れるようになってきたらしかった。
僕も同じ、通信制高校に通ってて、バイトは今ちょっと休んでいるけど、そんな話もメールで交わした。頑張って卒業しようねと。
愛理は心理学関係の進学を目指しているらしかった。
僕も進学するつもりだよ、まだ学部は分からないけれど、そうメールを返した。
その次の夜は、曇って月が見えず、僕のスマホは眠ったままだった。
そして、満月の前夜。
(いよいよ明日は満月だね。2年ぶりにトキトくんの声、聞けるかもだね。)
(だね。通話が出来たら、せっかくだから明日は歌でも歌ってもらおうかな。合唱部だったよね?)
(え~。歌なんて無理だって。最近ぜんぜん歌ってないんだもん。)
(愛理なら、ちょっと発声練習すればすぐに美声で歌えるよ。)
(今ちょっと風邪気味なんだ。)
(それは大変。のど痛い? 熱ある? 最近夜更かししてたからかな。今夜はもう寝たほうがいいかな。)
(全然大丈夫。もう治りかけてるから。ちょっと鼻声だけど平気。)
(そうか、なら良かった。でも気をつけないとね。やっぱり今夜は早く寝たほうがいいね。)
(だね。きっと明日たくさん話せるから、今夜は寝るね。どうか晴れますように。)
(きっと晴れるよ。暖かくして寝なよ。おやすみ)
(トキトくんもね。おやすみなさい)
僕たちは信じて疑わなかった。満月の夜、メールではなく声を聞いて話が出来ることを。
今夜は満月というその日、僕は久しぶりに学校以外の外出をした。
学校に行く途中、駅前で前の高校の同級生とばったり会い、冬休み中で暇だから久しぶりに遊びに来ないかと誘われたのだ。
他にも数人の元同級生が集まるらしい。順調に高校を卒業し、大学や専門学校に進学したり既に社会人となったりしている彼らに会おうなんて、今までなら考えもしなかった。
行ってみようかという気になったのは、昔と変わらず気さくに話しかけてくれた元同級生の笑顔が嬉しかったからかもしれないし、愛理からのメールで前向きな気持ちになれたからかもしれない。愛理と今夜話す時、新しい報告ができるかもしれないとも思った。
学校を終えた後、月が昇るまでにはまだずいぶんと時間があった。僕は、元同級生の家に向かった。
ランドセルを背負った小学生たちが、立ち止まったり走ったりしながら歩いていた。小学校はもう冬休みも終わり、下校途中らしかった。僕も同じように愛理やほかの友達と一緒に登下校したものだったな。
そこは、蓮ヶ池のそばだった。あの事故以来、立ち寄ることを避けてきた場所だったけれど、考えてみれば、悪い思い出ばかりの場所ではない。夏の蓮の花の季節には、愛理は美しい花をながめて橋の上からなかなか動こうとせずに困ったものだったが、愛理の笑顔は僕には花よりも輝いて見えた。
そんなことを思い出していると、一台の軽トラが、猛スピードで僕の横を通り過ぎた。
あぶない!
そう思った時には、悲鳴を上げる小学生の集団に軽トラが突っ込み、ガードレールを突き破った。小学生たちが蓮ヶ池に落ちる。
僕は考えるより先に蓮ヶ池に飛び込んでいた。まるで自分の身体ではないかのように。
ずぶぬれの僕の腕の中で、小さな女の子が泣いていた。
「もう大丈夫だよ」
僕は、他人の声を聞いているかのように自分の声を聞いた。
「君、お手柄だったな。全員無事だよ」
「さあ、早く池から上がらないと冷え切って死んでしまうぞ」
誰かが僕に向かって手を差し伸べた。
「大丈夫です。ありがとう……」
差し伸べられた手に捕まろうとして、僕の身体は崩れた。薄れる意識の中で、今度こそ僕は死ぬのだと思った。
池に飲み込まれる寸前、誰かの手が僕の身体を掴んで引っ張り上げた。
僕はまたも助かったのだ。大切なものと引き換えに。
意識を取り戻した僕は、慌ててスマホを捜した。二年前のあの日、愛理の姿を捜したように。けれど、ポケットの中にあったはずのスマートフォンは、どんなに捜しても見つからなかった。
この世界には居ないはずの愛理と唯一つながっていた月光の糸は、無念にも絶たれてしまったのだった。
同じ地球の同じ国の同じ町に名前も顔も同じ人間が暮らしていて、ほんのちょっとだけ事実が違っている別の世界があり、普段は接触する手段はないけれど、何かのきっかけで二つの並行した世界にわずかな接点ができることがある、そんな話を聞いたことがある。
僕の生きているこの世界と愛理が生きている別の世界は、太陽の力が薄れ月光が照らす間だけ携帯メールでつながることができる並行世界だったのかもしれない。けれど、もうそれを確かめるすべはない。
月光の彼方に住まう愛理は、今も僕からのメールを待っているだろうか。
月の夜には思い出す。蓮ヶ池の暗い水の底、僕の壊れたスマートフォンは目を覚まし、愛理からのメールを着信して光っているのかもしれないと。