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1 絵莉花《えりか》

  海は貝を抱き
  貝は真珠を眠らせる
  真珠は永い夜を眠り
  その果ての目覚めの朝
  一粒の朝露のように光を放つ
  涙にも似た輝きの……



         1  絵莉花(えりか)

 ハルファ空港の空気は乾燥して埃っぽかった。飛行機の到着と共に慌ただしくトラックが往来し、黄色い砂埃を巻き上げ、口の中で砂埃の味がしてきたくらいだった。けれど、見上げる空は、ニュー・トーキョーとは比べ物にならないくらいに澄んで碧く深い。
  絵莉花(えりか)は遠い空を見上げ、暫くの間黙ったままだった。首の後ろで無造作に束ねられた黒髪が、薄緑のリボンと共に風に踊る。
 ジョシュアは、自分より七歳年上である絵莉花の凛とした美しい横顔を見つめながら、付いてきて良かったのだろうかと一抹の不安を覚えた。
「行きましょうか。レイチェルが迎えに来てくれているはずだわ」
 絵莉花は、何かに踏ん切りを付けるかのように歩きだしたが、ジョシュアの足は動かなかった。
「ジョシュア?」
 絵莉花が振り返る。
「あ、今行くよ」
 ジョシュアは慌てて駆けだした。
 空港の建物の外に出ると、いきなり砂まじりの熱風に襲われた。ジョシュアは、まるで体を切り裂くような風をまともに受け、思わず両手で顔を覆う。砂漠の砂が、顔や手足にびしびしと突き刺さるようにぶつかって、とても目なんか開けていられない。
「早速シムーンの歓迎ね。今の季節にはよくこの風が吹くのよ」
 絵莉花は頭から薄衣のスカーフを被り、片手で押さえながら言った。
「こんな砂漠のど真ん中になんか宇宙センターを作るから」
 ジョシュアは口の中までジャリジャリするような気がした。
「雨が降らないほうが何かと便利なのよ。それに、広い土地が残っているのは砂漠くらいだもの」
 絵莉花は、砂まじりの熱風など、あまり気にしていない様子だった。
「ほんとに何にも無い所だね。見渡す限り黄色い砂と岩ばかりだ」
「そうね。でも私はここが好きよ」
 絵莉花はそう言いながら、砂塵を巻き上げて走り寄ってきたジープに向かって手を振った。
「ご免なさい。少し遅れてしまったわ」
 運転席から快活そうな顔を覗かせたのは、少年のように短い髪の黒人女性だった。
「いいのよ、レイチェル。忙しいのにありがとう」
 運転席から降りてきたレイチェルは、絵莉花よりかなり背が高かった。二人は懐かしそうに再会の抱擁を交わし、そして絵莉花はジョシュアを紹介した。
 レイチェル・グリーンと名乗ったその女性は、二年前に絵莉花がハルファ宇宙センター内の実験農場で八島実教授の助手をしていた時からの友人だということだった。
 そのハルファ宇宙センターに一週間、絵莉花と共に滞在する、そう考えただけでジョシュアの心は浮足立った。それは、ハルファ宇宙センターが二十一世紀半ばに完成した最新の宇宙基地だから、というだけではない。

カイロ市内ならば市街地に通ずる道路沿いには濃い緑のオリーブが美しく植えられ、行き交う人々の目を楽しませてもくれるが、ここにはそんなものは無い。どこまでも真っ直ぐなアスファルトの道の両側は味気ない防砂堤で囲まれ、枯れ草さえない見渡す限りの乾いた砂と岩の大地を、4WDのジープは砂埃を立てながら走った。
エジプトとスーダンの国境沿いにあるここワディ・ハルファは、世界で最も降水量の少ない場所のひとつである。そして、六月の今、太陽はほぼ真上から照りつけ、タイヤも融けそうな程に焼けたアスファルトの道路や地面からは、ゆらゆらと陽炎が立ち昇っていた。

「この暑さ、堪らないね」
 ジョシュアはサンバイザーの下にタオルを被って息をつきながら言った。乾燥した気候の為に汗ばむことはないが、太陽の輻射熱と地面からの照り返しは凄まじいものがある。
「ジョシュアは十五歳だって言ったわね」
 レイチェルが、運転席からバックミラー越しに後部座席のジョシュアを見やった。
「もうすぐ十六です」と、ジョシュアは言い直した。
「そう、私の妹も十六歳よ。ジョシュアはガールフレンドとか居るのかしら?」
「そんなの居ませんよ」
 ジョシュアはぶっきらぼうに答えた。
「あら、でもマイティやミナコや女の子達が何人か見送りに来ていたじゃないの」
 助手席に座った絵莉花が、ジョシュアを振り返って言う。
「クラスメートの女の子達なんて、みんなガキっぽくて」
「あら、じゃあジョシュアは、大人な女性が好きなのね?」
 レイチェルは、からかうように言った。
 ジョシュアは、そうだ、とも、違う、とも言えずに口を噤んだ。本人を前にして恥ずかし気もなく告白できるほど子供ではなかったし、だからと言って、本人の目の前で堂々とそんな事が言えるほど大人でもなかった。
「まあ、赤くなった。怒らせちゃったかしら」
 所詮、絵莉花にとって自分は弟でしかないのだと、ジョシュアは思った。それも仕方無い。ジョシュアは絵莉花より七歳も年下で、二人は遠縁に当たり、絵莉花の両親が亡くなった七年前からジョシュアの家で一緒に暮らしているのだ。ジョシュアはアイリッシュ系とユダヤ系の混ざったアメリカ人だが、八分の一だけ絵莉花と同じ日本人の血が流れている。
「別にどうでもいいさ」
 ジョシュアはなげやりにそう言った。絵莉花は何かを隠している。その思いは、この一ヶ月、ジョシュアの胸の中でだんだんと大きくなる一方なのだった。

 ニュー・トーキョーの環境科学研究所に勤務する傍ら、温室の手入れをするのは絵莉花の日課のようなものだった。しかし、一ヶ月程前から、時間を惜しむかのように、黙ったまま土を換え、芽を摘み、葉を一枚一枚布で拭き、水をやり、霧を吹いている絵莉花の姿を頻繁に見かけるようになったのだった。何時間もただ黙って、まるで温室の花の一つになったように、開け放された温室の窓から、梅雨の晴れ間の青い空をじっと見つめて立っている事もあった。

「絵莉花、また暫く留守にするの?」
 ジョシュアは、絵莉花を手伝って水を入れたバケツを運びながら言った。
「あら、何故?」
「絵莉花が普段より念入りに温室の世話をしているみたいだからさ。暫く留守にする時は、決まってそうだよね」
「暫くハルファに行くつもりなのよ」
「ハルファって、またあの宇宙センター?」
 絵莉花は、環境科学研究所に勤務する以前、恩師に呼ばれてハルファ宇宙センターで研究を手伝ったことがあった。あの時、絵莉花は半年間帰ってこなかった。
「また八島教授に呼ばれたの?」
「そうではないのだけれど」と、絵莉花は答えた。
「ニュー・フロンティア号の事は知っているでしょう? ハルファからなら、出発が間近で見られるわ。八島教授にも御無沙汰しているし、いい機会だしね。私が居ない間、温室の世話を頼めるかしら」
「それなら僕も行きたい」
 ジョシュアは、思わずそう言っていた。いいよ、と答えるべきなのは、その時からちゃんと分かっていたのだけれど。
「あそこの施設はコンピュータもシミュレーションも凄いでしょ。見学も出来るし、テーマ・パークなんかと違って、やっぱり本物には迫力があるよね。丁度学校も試験休みに入るし、絵莉花が一緒なら、たぶん誰も反対しないよ」
 ニュー・フロンティア号の事はマスコミでもよく報道されている。けれど、ジョシュアがハルファに行きたい理由は、本当は別だった。絵莉花には本当は迷惑かも知れないと、ジョシュアは思う。けれど、絵莉花の嫌がる事をして嫌われたくはないと思いながらも、絵莉花が隠しているであろう事も気になるのだった。

 やがて、開けた黄色い砂漠の中に、蜃気楼のように浮かぶ楼閣が見えてきた。
 高度約三・六万キロメートルにある静止型宇宙ステーションSRS-Ⅲと電磁エレベーターで直接連絡され、最新の天文台とアストロノーツ訓練校を備え、史上初の太陽系外移民船ニュー・フロンティア号のメンバー達の訓練も行われた場所だ。
 地球上で一番宇宙に近い場所、ハルファ宇宙センターだった。

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