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8 激震

 トルキル・デ・タウル・ロスルがうっすらと目を開くと、視界は薄暗く、視線を上げると、頭の芯がズキンと痛んで、トルキルは思わず顔をしかめた。
「御館様、気が付かれたようです」
 若い女の声だった。
 トルキルが寝かされているのは、簡素ながらも立派な作りの寝台の、清潔な寝床のようだった。トルキルは起き上がろうとしたが、体がうまく動かせない。痛みはなく、拘束もされていないが、力が入らなかった。
「まだ起き上がるのは無理だ」
 その声には聞き覚えがあった。
 窓を覆う垂れ布が引かれ、部屋の中に明かりが射した。自分同様に歳を取った旧知の顔がそこにあった。
「ロスル、大丈夫か」
「ムリグ、ムリグなのか?」
「他の誰に見える。十周期振りにもなるか。再会を喜ぶには状況が悪いが、会えて嬉しいぞ」
「そうだ、私は憲兵隊に捕らえられそうになって……」
 トルキルは、自分が 丞相(じょうしょう)テムルル・テイグ殺害容疑で捕らえられようとしていた事を思い出した。不安に駆られて胸の辺りを手で探り、首に下げた古びた織り布の小袋を握りしめると、少しだけ安心したように息をついた。
「ムリグ、貴公が助けてくれたのか?」
「貴公を助けたのは私ではない。ダムセル・ダオルが貴公の逃亡を助けたのだろう? 指揮を取ったジグドル・ダザルが、責任を取らされて憲兵隊隊長から一兵卒に落とされたらしいと聞いている」
 サウサル城主は、ゆっくりとした口調で答えた。
 トルキルは、目を見開き、必死に思い出そうとした。円形闘技場=COROSIAWで憲兵達に見つかり、丞相テムルル・テイグ殺害の容疑を着せられ、捕らえられそうになった時、円形闘技場=COROSIAW全体が地響きと共に揺れ、周囲は悲鳴や怒号で混乱状態となった。しかし、その後の事は何一つ思い出せない。
「起こしてくれるか」
 トルキルは、サウサル城主の助けを借り、漸く寝台の上に体を起こした。
「ロスル、今夜はアウギーラの尾の節の二十八日、明日はもうセブティーラの頭の節の一日だ。貴公はもう三支節もの間、行方不明だったのだ」
 サウサルは静かな表情で語った。
 エラーラの公転周期は六百八十七日。一周期は月の名で呼称される十二の支節に分かれるが、それぞれの支節は更に二つの干節、即ち、三十日または二十九日間の頭の節と、二十八日または二十七日間の尾の節とに分けられる。(第1章「6 エルディナの月」参照)今夜は、トルキルが覚えている最後の日から、実に二百日近くも経過していたのだった。
「もう少し休め。詳しい話は、その後にゆっくり話そう」
「いや、今知りたい。頼む。でなければ落ち着かぬ」
 サウサル城主は、承諾して椅子に腰掛けた。
「ウルクストリアは貴公を捕らえようと血眼になって捜しているようだ。アスタリアに逃亡している可能性が強いとして、サウサル地方にも協力の要請が来ていた。貴公の所領トルキル地方のことは私にもよく分からないが、トルキル派だった者達は勢力を落とし、テムルル派も分裂し、丞相も大連も今は空席で、トルキル派でもテムルル派でもなかったシルニン・イクルが大臣となっているようだ」
「私はどうやって此処に来たのか?」
 サウサル城主は手短に経緯を語って聞かせた。一昨日、月の真昼に近い頃、付近の農夫が不審な平田舟を見つけた。その平田舟は、水小麦の藁を積んでいたが、人が乗っている様子はなく、水耕農園の間の水路を、漂うように流れてきた。その藁の下に隠れるようにして横たわっていたのがトルキルとダムセル・ダオルだった。ダムセルは名を名乗り、サウサル城主に取り次ぐよう農夫に頼んだ。農夫は、自分の見つけた者達がウルクストリアに追われているとは知らないまま領主であるサウサルに知らせた。そして、ダムセル・ダオルは、サウサルにトルキルを託すと、どこへともなく立ち去ったという。
「私は何も覚えていない。ダムセル・ダオルは、なぜ一人で姿を消したのだろう」
 トルキルは混乱していた。
 サウサル城主が、話を続けた。
「ダムセル・ダオルに会ったのは、貴公がアスタリアに遊学していた時以来だったから、最初は名乗られても分からなかったよ。すっかり見違えて。お前の世話係として付いてきていた少年が、立派な武人となったものだと驚いた。おそらくは、命がけで主人を助け、逃亡先が露見するのを避けようと自分は姿を消したのだろう」
 サウサル城主の話に、トルキルは静かに涙を流した。
「ダムセル、無事でいてくれ」

 扉を叩く音がした。
 サウサル城主が返事をすると、扉が開き、盆を手にした女中が立っていた。
「御館様、 醍醐(だいご)と卵の (あつもの)をお持ちしました」
「おお、丁度良かった」
 女中が、盆をトルキルの休んでいる寝台のそばまで運んできて、卓上に置いた。
 サウサル城主が器の蓋を取ると、食欲をそそる湯気が立ち上る。
「ロスル、まだ体を休める必要がある。まずは栄養を取って、ゆっくり休んで、考えるのはそれからでいい」
 サウサル城主が、トルキルの肩を叩いて言う。
「駄目だ。私を (かくま)ったことが知れれば、貴公らまで罪を問われることになる。私は今すぐ出て行かなければ」
 寝台から下りて立ち上がろうとしたトルキルを、サウサル城主が押し止めた。
「テムルル丞相は貴公が殺したのか?」
「誓って言うが、私は殺してなどいない」
「それなら安心して滞在するがいい」
 サウサル城主は、柔和な笑みを浮かべて言った。
「しかし、私は罠に掛けられたに違いないのだ。誰が、どうやってかは分からぬが、テムルルと私と、両方を一度に無き物にする罠だ。無実を主張しても叶うまい」
 トルキルは、取り乱してはいなかった。ただ、このままサウサル城に留まることだけは避けなければならないと、それだけは譲れない思いだった。
「私は臆病者だが、困っている旧友を見捨てるほど薄情ではないつもりだ。それとも、貴公は私を薄情者にしたいのか? 貴公がこの城に居ることは、外部の者には知られていないし、城の者にも固く口止めしてある。そのうちに、もっと良い隠れ家も見つかろう。さあ、今は羹を食え。味も栄養も天下一品、食わないと後悔するぞ」
 サウサルは朗笑し、羹の器をトルキルに差し出した。
「済まない。恩に着る」
 トルキルは、熱い涙を零しながら、匙で羹を啜った。
 安心したように部屋を出ようとするサウサル城主に、トルキルは顔を上げて訊いた。
「貴公は昔と変わらないな。御子息方はどうしておられるのか?」
「長子は私の代理でアスターラの屋敷におるが、教育の仕方を間違えたのか、後の五人はどうにもだ。三番目はとうとう勘当してしまったよ。母方の姓を名乗って、今風の音楽などに夢中になっているらしいが、息災ではあるようだ」
 サウサル城主は笑顔を残して部屋を去り、トルキルはその笑顔を嬉しく思った。
 数日間をトルキルは床の中で過ごした。城の内にも外にも変化はなく、平穏な日常が過ぎた。
 殆ど回復したトルキルは、サウサル城主とともに事態の把握に努め、活路を模索した。
「確かに貴公には不利な状況ばかりだ。貴公とテムルル・テイグは日頃から水と油だった。その上、円形闘技場=COROSIAWは公然の秘密の場所で、そこでの出来事は公になりにくい。日頃は立ち寄らないはずの憲兵隊だが、ロウギ・セトなる人物の恩赦の条件が対戦で勝利することで、貴公らの船も憲兵隊の水上艦に曳航されて上陸したのだからな。見張りの隙を見て立ち去ろうとし、憲兵に発見されるのを避ける為にたまたま身を隠した場所で、テムルル・テイグが殺害されていた。あまりにも出来過ぎた話だが、どこでどう罠にはめられたのか、私にも見当がつかない。貴公を陥れた人物は、余程入念な計画を練ったとみえる」
 静かに語るサウサル城主に、トリキルは重い表情で頷いた。
「私自身は、今更命を惜しむつもりはない。しかし、部下や館の者達がどうしているのか、それだけが気掛かりだ。もし私が捕まれば、その者達にも更なる苦労を強いるに違いないし、貴公らサウサル城の皆も只では済まなくなる。私は、若かりし頃、家も身分も捨てて庶民に身を (やつ)そうと思ったことがある。あの時に、そうしておけば良かったのかもしれない」
 トルキルは、首に下げた古びた織り布の袋を握りしめ、体を震わた。
「その布袋は?」
「これは……」
 トルキルは口ごもった。
「言えないならば無理には聞くまい」
「いや、話そう。貴公も知っているアリダとのことだ」
 トルキルは、目を潤ませ、呻くように低い声で語った。
 十五周期ほど前、トルキルはこの城を訪れたことがあった。当時、サウサルもトルキルも、まだやっと十周期を迎えたばかりの若者で、トルキルは、まだ少年だったダムセル・ダオルを世話係として伴い、遊学の旅に出ていた。その旅の途中で現在のサウサル城主と知り合い、アリダにも出会ったのだった。
 アリダは旅芸人一座の娘で、気弱な為に他人とは話もうまくできず、普段は雑用係をしていたが、姿も歌声も清らかだった。旅芸人一座の看板女優が舞台で歌う時、舞台の陰で代わりに歌っていたのだ。
 それをトルキルが知ったのは、ほんの偶然だった。
 まだ落ち着きのない若者だったトルキルは、一座の仮設舞台の裏に迷い込み、垂れ幕の陰から聞こえる歌声に心を奪われた。歌声を間近で聞きたいと近付いたトルキルは、足を滑らせて垂れ幕を引っ張ってしまい、人目を避けて歌っていたアリダの姿を、観客の面前に晒してしまった。
 慌てる座長、怒り狂う看板女優、唖然とする観客達。
 けれど、若いトルキルの目に映ったのは、戸惑い 狼狽(うろた)える清純なアリダの姿ただそれだけ。
 若いトルキルは、立ち尽くすアリダの手を引き、その場を逃げ去った。座長や看板女優や観客達の怒号渦巻く仮設舞台から、アリダを救おうと。その状況を作ったのは自分であったから。
 若いトルキルと、まだ少女のようなアリダ。互いに目を交わした瞬間に、きっと二人は恋に落ちていた。しかし、トルキルには親の決めた婚約者があった。大公の称号を持つ貴族の嫡男と、旅芸人の娘では、身分が違い過ぎた。
 トルキルがアスタリアに滞在した半支節(=一干節=27~30日)は、人目を偲んで逢う恋人達にとって、あまりにも短かい時間だった。
 やがてアリダの一座は次の興行先に行くことになり、トルキルも故郷に帰らねばならない日が来た。ストーレの雨音に紛れて二人は逢った。トルキルは、必ず迎えに行くと約束をし、その印に、金沙瑠璃の指輪を彼女の白い指にはめた。アリダは、道中の安全を願い、小さな織り布の袋に入れた護符をトルキルの首に掛けた。その日がアリダを見る最後の日になろうとは、その時のトルキルは思ってもいなかった。
 トルキルは、両親を説得するつもりだったが、無理な場合は家も身分も捨てて構わないと思っていた。しかし、トルキルが両親の説得を終えないうちに、評判となったアリダを手に入れようと、先代宗主が金と使者とを一座に送ったらしく、アリダとの連絡は途絶えた。
 トルキルは必死になって探したが手がかりも掴めず、親の決めた許嫁も退け、とうとう妻を娶らなかった。
「それで、それがアリダのくれた護符の袋なのだな」
 サウサル城主の問いに、トルキルは頷く。
「護符だけではない。アリダの指にはめた指輪もここにある。経緯は分からぬが、円形闘技場=COROSIAWへの船出の前に、何者かがこれを私にと託したらしい」
 トルキルは、布袋から指輪を取り出し、じっと見つめた。アリダの名が刻まれた名残の残る細い指輪。アリダの華奢な白い指に良く似合っていた小さな青い金砂瑠璃。
「その指輪は本物なのか?」
「間違えるはずがあろうか。これは私がアリダの指にはめた指輪。アリダは一座を離れ、ソルディナに逃れたらしいと、後になって知った。そして、数周期の後、ソルディナの辺境警備隊に見つかってテムルル・テイグの手の者にウルクストリアへと連れ去られ……ストーレの最中に…… 水原(カレル)に身を投げ……死体は見つからず……墓も無いと……」
 トルキルは、悲しみを押し殺した低い声で語った。
「そんなことが……」
 サウサル城主は、聞くのも忍びないと言うように顔を伏せ、首を振った。
「アリダはソルディナに逃れたのだったか。ロスル、彼女は身籠もっていたらしい。だから、どうしても宗主の元へは行けなかったのだろう」
 トルキルは目を見張ってサウサル城主を見た。
「アリダからも誰からも子供の話は聞かなかった。では、きっと死産だったか、ソルディナで死んだのだろう。アリダ、可愛そうに。あの時無理をしても連れ帰るべきだった。私が愚か者だったばかりに」
 暫し、トルキルは目頭を押さえて黙った。
「実は、私にも、貴公に話しておきたいことがある」
 サウサル城主が、慎重に言葉を探すように口を開いた。
「確証はないし、もう随分と前の話だが、私はアリダかもしれない女に会った。イオラスの裏町近くで、真っ白な髪の美しい女を見かけた。アリダに似ている気がして、金を出して調べさせたのだ。 水原(カレル)に浮かんでいた (むくろ)が引き上げられ、死んでいるものと思われていたが息を吹き返し、正気を失っていたのを花街に売られたらしい。気になって、人目を忍んで会いに行った。彼女は本当に正気を失っていて、アリダだと確信は出来なかった。たぶん人違いだったのだろうが、その後、その女は胸を刺して命を絶ち、花街に売られて間もなく産んだという娘も、行方知れずになったことを知った。彼女が命を絶ったのは、私の軽率な行動のせいだったかもしれぬ。その幼い娘が行方知れずになったのも、私に責任の一端があるのかもしれぬ。今、貴公から話を聞いて、アリダがウルクストリアの 水原(カレル)に身を投げたのなら、如何にしても、エラスタリアさえも越えてアスタリアに流れ着くはずはないし、 水原(カレル)に身投げする女は珍しくないから、やはりアリダとは別人だったのだろうと思うが」
 サウサル城主は、懺悔するかのように語った。
「そうか」
 トルキルは椅子の背もたれに寄り掛かり、じっと目を閉じた。
 サウサル城主はゆっくりと椅子から立ち上がると、窓の傍に寄り、外の景色を見るともなく眺める。
「そうだ、ロウギ・セトはどうしただろうか」
 トルキルが、ふと思い出したように呟いた。
「貴公の屋敷に寄寓していたという男のことか。円形闘技場=COROSIAWでの騒ぎの後、彼もまた行方知れずと聞いている」
 サウサルは窓に顔を向けたままそう言い、ゆっくりとトルキルを振り返った。
「そのロウギ・セトという男、本当に異世界からの来訪者なのか?」
「それは最早どうでも良い。少なくとも、テムルルの側の人間では無さそうだったし、不審な行動もなかったように思う。概して無口で感情も読み取りにくかったが、故郷を遠く離れた者の悲哀のようなものを感じさせた。自分には故郷はないと言っていた。私は、ロウギ・セトという人物を、好ましいとさえ思うようになっていた」
 トルキルは、憲兵隊の水上艦に曳航されて円形闘技場=COROSIAWに向かう船の甲板で、月を見上げながらロウギ・セトと語ったことを思い出していた。今となっては遥か昔のことのように感じられた。

 ふいに、扉が激しく開けられた。
「御館様、ウルクストリアの軍隊が!」
 叫んだ女中を押し退けて部屋に踏み込んで来たのは、大勢の部下を引き連れたジグドル・ダザルだった。憎しみに燃え、残忍な笑いを満面に浮かべて、ジグドルは喜々として叫んだ。
「今度こそ最後だ、トルキル。お前を再び縄にかけ、屈辱を晴らす為に、俺は再び這い上がって来たのだ」
 サウサル城は、憲兵隊の大部隊に包囲されていた。


     **********


 シェリンは、ウルクストリア国立ラダムナ劇場の試演室にいた。小さな窓から眺めると、劇場前には大勢の老若男女が集まっているのが見えた。
 視線を移し、ふと壁の大鏡を見やったシェリンが、顔を押えてうずくまる。
 駆け寄るマリグとドルク。
「大丈夫よ」とシェリンは気丈に答える。
 シェリンの脳裏には、今も、ふとした瞬間に、ギイレス・カダムの最期が生々しくよみがえるのだった。

「…逃げ…アディ……俺の夢……」
 ギイレスは、囁くようにそれだけ言うと、力無く首を折った。
 もしかしたら、こう言いたかったのだろうか。逃げろ、アディティ、君は俺の夢そのものだと。

 アディティとは、シェリンが過去とともに捨てたはずの名前だった。アケリナ・アディティというのが、生まれたときに付けられた名前なのだ。それは、シェリンを産んだ母親に付けられた名前と同じものだった。
 躯のように水原を漂っていたというシェリンの母は、通りかかった商船に引き上げられ、ほどなく息を吹き返したものの記憶は無くしていたという。身元不明のまま花街の 遣手婆(やりてばば)に売られ、アケリナ・アディティと名付けられて、ほどなくシェリンを産んだ。シェリンが幼い頃に周囲の者達に聞かされた話である。
 古い言葉で、アケリナとは『 水原(カレル)の果て』を、アディティは『無垢なるもの』を意味しているのだと教えてくれたのは、出会った頃の、まだ優しかったギイレス・カダムだった。

 血にまみれ、シェリンの目の前に倒れていたギイレス・カダム。自分で胸を刺し、血の海の中に倒れていた彼女の母の姿と重なり、シェリンは苦しくて胸を押える。

 あの時、気を失ったシェリンが医療所の寝台の上で気が付くと、マリグとギリムが心配そうに見下ろしていた。
「君だけでも無事で、本当に良かった」とマリグが言った。
「不審な赤毛の男も捕まって収監されたから、もう心配はないよ」とギリムが言った。
 シェリンは、赤毛の男には会ったことがあった。もう一人のあの人は、一体誰だったのだろう。
「ギイレスは死んだのね?」
 シェリンの言葉に、マリグとギリムは複雑そうな表情で顔を見合わせた。
「ギイレスは、本当に残念だったよ。ドルクがそっちに行っている」とギリムが答えた。
「シェリン、こんな時にだけれど」
 マリグが、言いにくそうに口を開いた。
「次の公演をどうするか決めなきゃならない。予定通りにやるか、それとも、延期か中止にするか。今答えなくてもいいから、考えておいて」
「延期も中止もしないわ」とシェリンは言った。「アスタリアで成功し、ウルクストリアでも歌う。それがギイレスの望みだったわ」
 今まで、ギイレス・カダムに恩義を感じたことなどなかった。ギイレスは名声と金儲けしか考えていないのだと、ずっと思っていた。けれど、身を挺してシェリンを庇おうとした彼の為に、今は何も考えずに歌おうとシェリンは思った。今できることは、それしかないのだと。

 そして、 星界の天使(エトラム・バード)は、アスタリアの首都アスターラでの公演も成功させ、ウルクストリア公演に向けて旅立ち、今日は、その公演初日なのだった。公演の前売り券は、すぐに売り切れたという。ムルルアの公演で世話人のギイレス・カダムが死んだことが、皮肉にも、シェリンとエトラム・バードの知名度を驚異的に広めたようだった。

 シェリンは椅子に腰かけ、溜め息をついて目を閉じた。
「この公演が終わったら、しばらくは活動を休んで、田舎でゆっくりしようよ。だから、あとちょっとだけ頑張ろう」
 シェリンの横で、マリグが励ますように言った。
「そうだな。休みを取るのは良い考えだ。ギイレス・カダムの墓前にも報告にも行こう」
 床に腰を下ろして休憩していたドルクも、少し疲れた様子だった。

 試演室の扉が開き、ギリムが慌てた様子で入ってきた。
「ギリム、お前、休憩長すぎ。どこ行ってたんだよ」
 マリグが半分冗談のように言う。
「それどころじゃない。ゲイグが大変だ」
「ゲイグ? いまさら奴がどうしたんだい」
 ドルクが聞き返す。
「婚約者のミンディから連絡があったんだ。ゲイグを探して欲しいって。ゲイグが“ 四人の英雄(アバル・エランシ)”を抜けてウルクストリアに行くと告げた後、ずっと連絡が無いらしいんだよ。五支節もの間ずっと。普通なら、誰に連絡しなくても、婚約者には連絡するはずじゃないか」
 ギリムは一息に喋った。
「ウルクストリアに来たっていうのに、ゲイグの噂を何も聞かないな」
 ドルグも不審に思ったようだった。
 アバル・エランシで歌っていたというタナウス・ゲイグの話は、シェリンも聞いていた。五支節前、それは、シェリンがイオラスに移る少し前の頃に当たる。
 ―もしや、ギイレス・カダムがタナウス・ゲイグを殺したのでは……。
 シェリンは自分の心に浮かんだ恐ろしい考えに、体が震えた。もしもタナウス・ゲイグがアバル・エランシに残っていたならば、エトラム・バードは結成されなかっただろう。
「シェリン、どうかしたのか?」とマリグが訊いた。
「何でもないわ」
 シェリンは蒼ざめた顔に平静を装ってそう言うと、不安を振り払うように立ち上がった。
 じきに開演の時間だった。

 開演を知らせる鐘が鳴り、場内の照明が落ちて、ざわついていた客達も静かになる。やがて演奏が始まり、幕が上がるると、舞台上には目映い照明に照らされたマリグ、ドルク、ギリム、続いて中央には、七色の光を浴びたシェリン。
 シェリンは大きく息を吸い、今まさに声を発しようとした。
 いきなり客席の全照明が点いた。
 扉という扉が乱暴に押し開けられ、雪崩込むように大勢の男達が押し入って来た。銃器を構え、荒々しい足音をたてて、客席と舞台に突進してくる。
「憲兵隊だ!」
 客席に悲鳴とどよめきが起こった。憲兵隊は観客を突き飛ばし、舞台装置を踏み倒してステージ上の四人に迫ると、神経銃を突き付けて取り囲んだ。それは、大勢の部下を引き連れ、憎しみと残忍な笑いを満面に浮かべたジグドル・ダザルだった。
「シェリンこと本名アケリナ・アディティ以下四名、宗主国ウルクストリアへの反逆罪で逮捕する。すでに、主犯である売国奴トルキル・デ・タウル・ロスルは、逃亡先アスタリアのサウサル城にて、共犯者である城主サウサル・ムリグと共に逮捕し、収監済みである。このジグドル・ダザルは、その任務を終え、すぐさまウルクストリアへと取って返し、今ここにいる。集まりし群衆は直ちに解散すべし。この場に残る者は同罪と見なし逮捕収監する。また、以後同四名に傾倒を示す者も同罪とする」
 ジグドルは喜々として叫んだ。
 呆然とするシェリンと他の三人の前に、憲兵達が立ちはだかる。
「ここに居る者全員、良く聞くがいい。トルキル・デ・タウル・ロスルは、テムルル丞相の権勢を快く思わず、ロウギ・セトなる人物を異世界からの来訪者に仕立てることで注目されようとしたが、目論見は失敗した。業を煮やしたトルキルは、円形闘技場=COROSIAWにテムルル丞相を呼び出して秘密裏に殺害したが、それを目撃され、如何なる方法か分からぬがクリュス島の火山を爆発させ、そのすきに逃亡し、時期をうかがいながら、さらなる陰謀を画策した。アケリナ・アディティ以下四名をウルクストリアに送って群衆を扇動し、権力を奪還する陰謀を企てたのだ。この周囲に集まった群衆の数を見れば、なるほどその陰謀はもう少しで成功するはずだっただろう。しかし、悪事は必ず露見する。このジグドル・ダザルが、決して見逃しはしない」
「そんなの嘘よ」と、シェリンは負けずに叫んだ。
「嘘なものか。いいか、よく聞け民衆どもよ。お前等は利用されようとしていたのだ」
 客席のあちこちから叫び声が上がる。ジグドル・ダザルは、持っていた神経銃を構えると、民衆の頭上に光線を閃かせた。叫び声は。切り裂くような悲鳴へと変わる。
「やめて!」とシェリンは叫んだ。「あたしはウルクストリアのトルキルという人なんて知らないし、会ったことも無いわ」。
「そうかな」と、ジグドル・ダザルはマリグをじろりと見た。「そこにいるのはトルキルの旧友であるサウサル城主の三男坊だ。そうだなサウサル・セリナス・マリグ」
 突然着せられた濡れ衣に、マリグもまた怒りをたぎらせた。
「確かに僕は城主サウサル・ムリグの三男だ。けれど、音楽にのめりこんで勘当された身。誓って言うが、そんな陰謀なんて知らない。サウサル城主も、そんな陰謀に関わる人間ではない」
「そうだ、俺達は何も知らない」
 ドルクとギリムも叫んだ。
「黙れ! さっさと縛り上げて引っ立てろ!」
 ジグドル・ダザルは叫び、それから憲兵達に向かって怒鳴った。
 命令された憲兵達は、抵抗する四人を押さえつけ、殴り、縛り上げた。
「こんな屈辱は初めてよ。絶対に許さない」
 シェリンは、押さえつけられながらも顔を上げ、屈辱に泣き出したい気持ちを抑えながらジグドル・ダザルを睨んだ。
「うるさい!」
 ジグドル・ダザルは、振り上げた神経銃でシェリンの頭を殴りつけた。シェリンは床の上に叩きつけられ、そのまま意識を失った。
 ウルクストリア国立ラダムナ劇場は、阿鼻叫喚の修羅場と化していた。

しおり