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私は一年の中で六月が一番嫌いだ。
梅雨の時期だからとか、祝日が一日もないからなんていうわけじゃない。
「六月に結婚する花嫁は幸せになれる」
偶然かもしれないけれど、東アジアの島国、日本の住人であるにも関わらず、そのヨーロッパの言い伝えを崇拝するジューンブライド信者が私の周りに大量発生するからだ。
友人は皆、二十五歳前後での第一次結婚ラッシュ、三十歳前後での第二次結婚ラッシュで嫁いでいき、残りはちらほらと三十五歳くらいまでに結婚していった。
その八割が六月に結婚式を挙げ、そしてようやくラッシュに次ぐラッシュを乗り切ったかと思いきや、今度は職場の後輩たちが六月の花嫁を夢見て巣立っていく。
私に言わせれば、そんなものはブライダル業界の戦略のひとつでしかない。
けれど、どんなに仕事を教えても、人手が足りなくなっても、そんなことはお構いなしで。
なかなかハードな営業職だからか、結婚するイコール退職、続けても妊娠出産をすれば産休あけには総務部などの事務方に異動していってしまう社員が多かった。
「なにが六月の花嫁よ!なにがジューンブライドよ!そんな暦ごときで変わる幸せがあってたまるかっての!」
会社帰りに通っている居酒屋『秘密基地』。
七坪ほどのこぢんまりとした店内はカウンターの他は四人掛けのテーブルが二席あるのみで、歌舞伎町の近くという立地のわりに落ち着いた雰囲気だ。
女性三人でカウンター席を陣取る私たちに、店主の源ちゃんが呆れたように苦笑した。
三十代半ばで男盛りの彼は、いつも肉付きの良い頬やおでこがてかてかしている。
居酒屋よりもラーメン屋の店長の方が似合いそうな風貌だ。
「あー、もしかして、今年もまた出た?」
源ちゃんのその言葉に、私の隣で高坂春子がちょっと肩をすくめて見せた。
彼女とは付き合いが長いので、会社の外では春ちゃんと親しみを込めて呼ばせてもらっている。
「そう。結婚するから退職させてくださいって女の子がね、今日で辞めていったの。……もう、酒井さん、別にいいじゃないですか。人生の門出ですよ。おめでたいねーって笑顔で見送ってあげましょうよ」
「会社ではちゃんと笑顔で見送ったでしょ?あのね、春ちゃん。年度末なら、まだいいわよ。それがなんでこんな年度が始まってたった二ヶ月で?中途半端じゃないの。六月に結婚するからなんて、こっちは知ったこっちゃないって」
「高坂さん、酒井さんっていつもこんなに酒癖悪いんですか?やばいですね」
「こら、沢井ちゃん。いつも率直すぎ」
「なによ!やばいのは私じゃなくてジューンブライド信者でしょう!お花畑になっちゃってさ!」
いつもは春ちゃんと二人だけの飲み会に、今夜は何故か入社二年目の沢井ちゃんがくっついてきた。
まだまだお嬢さんというかんじの彼女にまで呆れられて、私は忌々し気に芋焼酎のロックを一気にあおる。
そりゃあ、こういうお酒はちびちび味わいながら飲むものだってことは、酒飲みになって二十年ともなれば重々承知しているけれど。
今日は酔いたい。とことん飲みたい。酔っ払わないとやってられない。
源ちゃんに冷酒を注文すると、春ちゃんにうかがうように目配せするから「いいから、持ってこーい!」とブーイングする。
「今夜は飲むわよ!誰にも止められやしないわ!だって私、苗字に酒って字が入ってるのよ?酒飲みで何が悪いのよ!」
「酒井さんって本当、見た目は麗香ってかんじなのに、中身がね……酒というか、なんというか……」
今度は春ちゃんが、困ったように笑いながら率直な意見を口にする。
徐々に気を遣わなくなってきているのは、彼女もアルコールがまわってきた証拠だ。
「……ぶっ」と吹き出した声に左を見れば、沢井ちゃんがおしぼりを口元にあて、ひーひー言っている。
私の名前は酒井 麗香。麗しいなんていう字をよくもまぁ、娘の名前にあてがうものだ。
とてもじゃないけれど、どんな風に育つかも分からないのに麗香だなんて名付ける両親の気が知れない。
赤ちゃんの内から麗しくなることを背負わされるなんて、あまりにも荷が重い。
私はなんとか名前負けすることもなく、まわりから「麗香ちゃんって宝塚にいそうだよねぇ」とか「酒井さんってカッコいい!女子高にいたら絶対モテたでしょ」なんて言われるような顔面レベルに成長することができたけれど。
「普通にしてれば、それこそ酒井さんが六月の花嫁になっていた可能性だってあるじゃないですか」
「うるさいうるさいうるさい!私は仕事と趣味と結婚したの。リアルな男なんていらない」
「またそんなこと言って」
「春ちゃんは手遅れになる前に良い男捕まえなよ。女性の生き方が多様化してるって言ったって、結婚したいなら早めに手を打つに越したことはないんだからね」
「……はぁ。まったくいつも自分のことは棚にあげるんだから」
「やっぱり婚期を逃すと大変ですねぇ」
「「沢井ちゃん!!」」
興味なさそうにスマホをいじりながらグラスを傾ける沢井ちゃんがぼそりとそんなことを言うから、私と春ちゃんの声がダブった。
二十三時前に店を出て、三人で新宿駅へと向かった。
まだまだ活気のある街並みを眺めていると、夜遅いのにも関わらず「まだ帰りたくないなぁ」なんてぼやいてしまう。
帰っても一人だもんなぁ。誰もいないし真っ暗だし、おかえりなんて言ってくれる人もいない。
普段はなんてことないのに、こうして深酒をした日には妙な寂しさに絡めとられる。
「ほらほら、帰りますよ」
春ちゃんに腕を引っ張られ、よたよたと歩いていると「わ、なにあれ」と沢井ちゃんが声をあげた。
「あれ、やばくないですか?」
やばくないですか?なんて漠然とした若者言葉じゃ、何にも分からないって!とぼやきながらも彼女の指さす方を見る。
酔っ払いだろうか。路上に座り込んだ女性を、スーツ姿の中年男性が無理に腕を引っ張って立ち上がらせようとしていた。
女性は春ちゃんと同年代くらいか。
一瞬、女性とスーツの男性は知り合いなのかなと思うけれど、男を見る彼女の目が虚ろで。
思わず、私たちは足を止める。
「絡まれてるんですかね?大丈夫かな」
隣で春ちゃんも心配そうに呟いた。
どうしよう、声をかけるべきか……。
女性は腕をぐっと引っ張られ、今度はそれに身を任せるようにしてよろよろと立ち上がった。
どこまでも無気力な表情。ただ酔い過ぎただけのようには見えない。
――これ、本当に知り合いじゃなかったらまずい。
すると私たちが二の足を踏んでいる間に、長身のひょろっとした今風の若い男の子が現れて、さっと彼女の手をとった。
突然のことにスーツの男がたじろいでいるのが遠目にも分かる。
男の子が口を開くと、男は顔を赤くして何かをまくしたてた。
二人の会話の内容までは聞こえてこないけれど、言い争っているのだろうに男の勢いに反して男の子は淡々としている。
その状況に少しずつギャラリーが増え始め、スマホを構えだす人もいた。
男は周囲の目が気になるようで、ちらちらと視線をさまよわせていたけれど、苦々しい表情で踵を返して夜の街に消えていった。
――よかった。どうなることかと思った。
「わぁー……少女漫画みたいですね。彼、私と同い年くらいかな?ものすごいイケメン」
沢井ちゃんが口をぽかんと開けている。春ちゃんも私も同じように呆けていて、二人で顔を見合わせると、ハッとしてぶんぶん首を振った。
「さ、帰りましょうか」
春ちゃんに促され、私たちは三人ともどことなく呆然としながら駅へと歩を進めた。