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 この案件が片付いたら、温泉にでも行きたいな。もう箱根は紅葉が見頃だろうか。
 魂だけで小田急線のロマンスカーに乗車しかけながら、私は取引先へのメールの送信ボタンをクリックした。
 大口顧客である集米社との新規の案件に、ここ一ヶ月、なかなか苦戦している。
 見積もりを送るのも、もう四度目だ。これで納得してくれるといいのだけれど。
 ひとつ息を吐き出して、こちらもまた一筋縄ではいかない新規の案件の提案書に取り掛かった。
 キーボードで指を躍らせつつ凝り固まった首筋をほぐすように頭をまわすと、向かいのデスクの積み重なった書類ファイルの山から町田くんがひょこっと顔を出した。
 自慢じゃないけれど綺麗好きなことだけが取り柄の私のデスクとは大違いの、まるで未開の無人島のような荒れっぷりに「町田くん、あとでまた部長にどやされるだろうな」と呆れてしまう。
 彼はそんな私の老婆心など気付かずに、にへらっと緩い人たらしな笑顔を見せた。

「高坂さん、コーヒー飲みたくないですか?」
「飲みたくないです。そんなことより、ちょっと整理整頓しようか。君のデスク、すごいことになってるよ?」
「あー、そうですよねぇ」

 町田くんは普段からのんびりとした口調で甘えたような声を出す。
 私のようなお局さんと呼ばれるような部類の、女性としてはまあまあ古株の社員からは「町田くんって犬みたいだよね。ペットに飼いたい。ちょっとどんくさいけど、そこも可愛いし。それに比べて、うちの課の男連中ときたら……」と二年前の入社当時から溺愛され、なにかにつけて甘やかされている。
 いつも比較対象にされてしまう古参男性社員の悲壮ぶりたるや。
 けれど、その評価は彼の人懐っこさだけではなくて、くりっとした大きな瞳とか、豪快に口を開けて笑った時に見える美しく揃った歯並びとか、そういった整った外見からくるものだ。
 人は見た目が九割。何かでそんな言葉を聞いたことがあるけれど、まさしくその通りだと思う。
 そして人付き合いにおいては、愛嬌も強い武器になる。
 例えば、同じような顔のイケメンが二人いたとして、そりゃ、つんけんしたイケメンよりは、こういう警戒心をもたずに接することのできるような、人好きのするタイプの方が踏み込みやすく親しみやすい。

「ねぇ、高坂さん、お願いしますよー。スタバ、今日から新作のフラペチーノやってますよ。秋ですよ。芋栗南瓜の季節ですよ。きっと美味しいですって」

 ――これはオフィスを抜け出してサボりたいだけだな。
 柔らかい口調のくせに畳みかけてくる彼に、私はため息をついた。

「コーヒー飲みたくないですか? なんて言ったわりに、なんでフラペチーノの話題になるの? コーヒーだったら給湯室にインスタントがあるよ? 町田君、勇栄社の見積もりできた? 参考資料として見たいのでって、そんなにファイルを持ってきたわりに、全然進んでないよね?」

 負けじと言葉を連ねると、彼はうーんと低く唸った。きっと図星だ。
 恨めしそうな眼でしばらくこっちを見つめてきたけれど、無視して自分のPCに向き直る。
 こっちにだって仕事が立て込んでいて、正直、フラペチーノどころではないのだ。
 毎月、最終週になると、営業部ではどこの課も目標の数字を達成することを上からせっつかれ、どこから顧客を増やそうかとかアポはあるかとか、とにかく社員たちみんなピリピリしている。
 営業活動に時間を割くために社内にいる内は見積もりや報告書をできるだけ早急に作らなければならず、なかなか思ったように休憩も取れない。お昼休みですら社員食堂や外にも行かず、デスクでコンビニのおにぎりやパンをかじりながら仕事を続ける社員も多い。
 数字を追うことに終わりは見えない。目標の数字を達成したからと言って手を休めていいわけではないし、更に上を目指して新しく目標を掲げさせられる。
 企業の一員になってお給料をもらう以上、仕方のないことだけれど、常に目標に追い立てられるのは全然楽しくはなかった。
 新卒で入社した頃は雑誌の一ページに私の携わった広告が掲載されているのを発見しただけで、あんなに嬉しかったのに。いつからか、そんな感動はどこかへ消えてしまい、大人になれば生活していくために仕事をするのは当たり前のことだと気持ちに折り合いをつけて働くようになっていた。
 毎月の目標を必死に追っているうちに、気付けば勤続十五年。そりゃ、お局さんとも呼ばれるようにもなるか。

 外回りや接待などの付き合いも多く、残業、休日出勤当たり前な仕事柄、結婚や出産を経た社員たちは退職するか、総務や人事など事務方の部署に異動していく。
 今やうちの部署でばりばり働いている三十代以上の女性は、私と酒井さんを含む三人だけになっていた。
 酒井さんは最近、四十歳を迎えた宝塚の男役にいそうなキリっとした美人で「私は仕事と趣味と結婚したの。リアルな男なんていらない」と誰かが寿退社する度に、居酒屋でくだをまく。
 彼女ほどの人がご縁に恵まれなかったとは思えないけれど、よくよく話を聞くと物凄く理想が高かった。
 でも酒井さんの趣味を聞いて、ちょっと納得する。十年近く前から熱烈にハマっているというのは男性アイドルだった。
 以前、ユーチューブで彼女の所謂、推しの動画を見せてもらったことがある。
 二十代半ばくらいの男の子が王子様みたいにスパンコールやビジューで飾られた豪奢な衣装を身にまとい、その輝きに負けないほどのキラキラした笑顔を振りまきながら歌い踊っている。
 たまにファンに手を振る度に割れそうなほど黄色い悲鳴があがって、画面ごしでも圧倒された。
 なるほど、これを見慣れてしまっていたら理想はどんどん高くなるはずだ。だってこんな男の子、私たちのまわりにはそういないもの。
 普通の男性がこういう王子様みたいな衣装を着たら、きっと目も当てられない。
 私たち中年女性が女子高生の制服みたいなミニスカートのひらひらした女性アイドルの衣装を着こなせないのと同じだ。

「春ちゃんは手遅れになる前に良い男捕まえなよ。女性の生き方が多様化してるって言ったって、結婚したいなら早めに手を打つに越したことはないんだからね」

 酒井さんはいつも自分のことはすっかり棚に上げて、私に釘を刺す。
 ――結婚かぁ。
 残業を終え、オフィスのあるビルを出ると随分と冷たくなった秋の夜風に頬を打たれた。ぶるりと身体をふるわせてトレンチコートの前をあわせると、駅に向かい、ホームで酔っ払いにぶつかられながら二十二時十三分発の電車に乗り込み家路につく。
 夜闇のせいで鏡みたいになった電車の窓に、疲れきった顔の自分が映っていた。表情のせいか今日は一段と老けて見える。
 私はどうしたいのだろう。結婚したいのか、ばりばり仕事をして生きていきたいのか。
 疲弊している時は余計に、こんなことを考えてしまう。
 どうしても結婚したいとか、親に孫を見せてあげたいとか、そんな望みは別にない。
 私が小学生の頃に離婚した母も、自分が結婚で苦労したせいか「あんたの好きに生きなさい」と、まったく期待していない様子だ。
 だからと言って好きでもない、やりがいすら感じていない仕事をこのまま一生続けていくのも、しんどい気がする。
 女性の社会進出が進み、生き方が多様化したことは意義のあることだと思うけれど、選択肢が多いからこそ、どう生きたらいいのか分からない。
 仕事はあるのに、なんだか路頭に迷っている気分になるのは贅沢なのだろうか。

 自宅マンションのドアを開けると、開け放たれたリビングの引き戸の向こうで、町田くんが昼間みたいにこっちを見て、にへらっと笑った。
 スウェット姿でくつろぎモードだった彼は、寝転んでいたソファーから勢いよく立ち上がると、私にまっすぐ駆け寄ってくる。
 まるでペットの犬が尻尾を振ってご主人様を出迎えるようだ。
 思わず「よーしよしよし」と頭を撫でまわしそうになって、思いとどまった。
「おかえりなさい」
「ただいま」
 夕方から取引先との打ち合わせに出た町田くんは直帰して、私より先に帰宅していた。
会社の人たちが私と町田くんが付き合っている、そしてあまつさえ一緒に暮らしているなんて知ったら、きっと卒倒するだろう。

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