四章の十三 完。みんな幸せになれるかな?
一つの雲を探すことが難しいくらい、スカッと青空が広がっていた。気温もこの季節にしては高かったが、北からの風が異様に冷たく、吹き抜ける度にブルッと寒気を感じた。
十二月に入ったこの日。一華は、インドネシアに赴く文花を見送るために、《中部国際空港セントレア》に来ていた。
出発ロビーの待ち合い席では、左端から次朗、一華、文花、文花の荷物が腰を下ろしている。
「もしかしたら私、このまま、帰ってこれないかもしれない……」
背凭れに、だらりとさせている文花が、悲壮感を漂わせて呟いた。ここ、《セントレア》に来るまでの車の中では、妙にテンションが高かったが、どうやら空元気だったようだ。
「何を言っているのよ。たったの二週間でしょうが」
一華は、笑い飛ばしてやろうとした。実際に、二週後には、インドネシアから戻れる予定になっている。
「今回は、とりあえずの視察で、来年の四月には、改めて異動っていう話があるらしいんだよね……」
本格的に文花は、澱(よど)み始める。異動の噂は、どこからか一華にも届いていた。文花本人の口から聞くと、どうしたって信憑性が増してくる。
「まだ、決まったわけじゃないんだからさ」
一華は、気休めになるとは思わなかったが、なにも言わないよりかはマシと、無理に言葉を絞り出した。
「あっちはさあ。デング熱が普通の病気なんだって。暑い国だから、しょうがないのかもしれないけどさ。私、暑いところよりは、まだ寒いほうがいいんだよねえ……」
もう、愚痴しか聞けそうにない。一華も、気分が澱んでくる。
「そうか、デング熱か。だから、文花はパンツスーツなのか……」
澱みが移って、頭が回らなくなった一華は、気になっていた文花の格好を絡めて、話を繋げた。
そうなのだ。いつもの文花は、自慢の足を見せたいのか、決まってスカートだった。
「別に、デング熱の意味だけじゃないよ。あっちは、イスラム圏だからね……」
さっきまでの文花の澱みが、少しは薄まった。
「どちらにしたって、あっちの国の男どもは、文花のスリリングな
やっと一華は、おどける材料を見つける。対象者の文花は、小さく、ではあるが、笑ってくれた。
「大丈夫だよ、文花だったら。どこに行ったって、やっていけるよ。抜群の見て呉れがあるんだからさ」
一華は立て続けに、今この場で思いつく、ありったけのエールを送る。
「なんか私、頭が空っぽで、馬鹿にされているみたい」
拗ねた仕草をしながらも、引き続き文花は笑ってくれたが、それと同時に、表情の雲行きも怪しくなった。
「ちょっと、お化粧直しに行ってくるから、荷物を見てて」
文花は、さっと立ち上がり、ずっと後方にあるトイレに向かった。
「おい次朗。なんで、さっきから、一言も喋らないんだよ。あんな状況で、独りで慰めるのにも限度があるんだぞ。そもそも、おまえが見送りたいって言ったんだろうがよ」
一華は、上体を近づけ、次朗の耳元で凄んだ。
「姉ちゃん。俺、文花さんに、告白しようと思うんだ……」
ここ《セントレア》に来るまでの車の中を、よくよく振り返ると、次朗は、ほとんど喋っていなかった。
「おまえ、正気か……」
驚いた一華は、そおっと自分の席で小さくなった。
「姉ちゃん、協力してよ」
次朗の懇願から、本気度が伝わってきた。
「勝ち目は全然ないぞ。それでも、やるのか?」
一華は、次朗の目に視線を合わせる。次朗は、ゆっくりと、首を縦に動かした。
「大きいほうじゃなかったからね」
文花はジョークを携えて、トイレから戻ってきた。目許の腫れを隠すためであろうし、そこは触れないで、ただただ笑ってやるべきではあった。
だが一華は、余裕がなかった。次朗の緊張が伝染して、言葉が出てこない。
文花が、元の席に腰を下ろすと、三人とも喋らなくなった。次朗は、告白するタイミングを計っていただろうし、一華は、次朗の動きを注視していた。
「ちょっと早いけど、私、行くね」
きっと文花は、無言の場に耐えられなくなったのだろう。キャリー・ケースを手に取ると、逃げるように、チェックイン・カウンターに向った。
それなのに、次朗には動きがない。
「何しているんだよ」
一華は、気後れしている次朗の腕を掴むと、体ごと引っ立てた。
「文花、ちょっと待って!」
チェックイン・カウンターの手前の文花に、一華は声を掛けた。
「ほら、行きな」
一華は、次朗の背中を押した。次朗は、文花の前に押し出された。
文花は、一華に視線を合わせてきた。一華は黙って頷くと、少し後方へ退き、ひとまず視線を外した。
やはり土曜日の空港だけあって、「それなりに人は多いなあ」と変な感心をする。ただ、文花が通過しようとするカウンターは疎らで、人っ気がない。
再び一華は、視線を戻した。次朗の背中で様子が見えなかったから、少しだけ左手に回る。
一華は、目を疑った。文花が、スマートフォンを取り出していて、画面に夢中になっている。次朗はもじもじして、「あのお、ちょっといいですか」と、声を掛けている。
「今は、ちょっと……」と文花は、その先に踏み込ませない。
「すぐ終わりますから……」と、次朗も頑張ったが、「ちょっと、今は……」と、文花は取り合わない。一華は、一部始終を目にして、項垂れた。
「じゃあ、また今度で……」
次朗は、力尽きた。
文花は、チェックイン・カウンタ―を通過していき、通過する際には、一華へ視線を送ってきた。
「あ・と・は、よ・ろ・し・く」
無声でありながら、大きくて分かりやすい口の動きで、伝えてきた。
「コラあ、文花。また、やりやがったなあ!」
一華は、大声を張り上げた。文花は、左の口角だけを不自然に上げて、嫌な笑みを浮かべると、そのまま背を向けて先へと姿を消していった。
「姉ちゃん。俺、立ち直れそうにないよ……」
次朗は力なく、両膝を床につけ、両手も同じくした。
一華は、以前も同じような場面に遭遇した。ただ今回は、次朗相手に「私がいるでしょうが」だなんて、言えるわけがない。
一華は、財布を取り出した。ざっと中を数える。一万円札が一枚と、千円札が四枚、入っていた。
一華は、
「これで、風俗の足しにしてくれ……」
満身創痍の次朗に、千円札三枚を握らせた。
一華は、その場を少し離れた。それでも、次郎の
「あのバカ女。帰ってきたら、どうしてくれようか」
一華は考えを巡らせて、すぐに適度なお仕置きを思いつく。自身が育て上げた稀代のコミック・シンガーソングライター尾藤公季に書いてもらおう。『インドネシア永住女』って唄を。
『文子のアンサーソング』完