濫觴《らんしょう》
光無く闇無く時間無く言葉無かりき
只一つ“ヌ”のみ在りき
“ヌ”の息吹、そこに“ナム”を生み出しぬ
其は燃ゆる瑠璃の如く清らなりしも
ナーヤとマーラせめぎ合い
え定まらざる存在なり
然して“ヌ”は其をラーイーに納めて鍵し
デュ=アルガンのマナーラの奥深く
ナーサティアに守らせけり
然れどエラム・ミウの訪れし時
光と闇とを分かちて全てを呑み込みぬ……
序 章
深淵なる宇宙。点在する星雲のうちの一つの縁を、鈍い反射光がひっそりと過ぎっていく。
それは一隻の宇宙船だった。広大な宇宙空間からすれば取るに足りない大きさだったが、それを建造した人間にとっては驚異的な体積と言えるだろう。
その宇宙船の形は四角錐に近く、例えるならば、テラと呼ばれた惑星の古代マヤ神殿に似ているかも知れない。遺跡のように眠っているかに見えるその宇宙船は、既に機能を停止して、死の沈黙に支配されているのだろうか。
いや、宇宙船の内部では、人工知能PAMERAが静かに役割を遂行していた。PAMERAのUSLSI=Ultra-Super-Large Scale Integration=超超大規模集積回路室では、林立する超高層ビル群のような回路の塊に、ほのかな光がちろちろと生き物のように点滅していた。
暗く無音に近い船内だったが、淡いオレンジ色の光にぼんやりと照らされた一角があった。棺のような銀色のカプセルが七つ並んでいる。目的の場所に近付くまで人工冬眠をするための、乗員用の
と、No.07カプセルが微かな音をたて始め、ややあって側面の液晶パネルも起動した。「乗員名:リース・イルリヤ」の文字と60秒からのカウントダウン。カウントが0になり、静かにカバーが開く。
No.07の人工冬眠カプセル中から身を起こしたのは、
長い人工冬眠から覚めた直後は、通常であれば、記憶がすぐには戻らず、状況を認識できるまでには少なくとも数分間を要する。手足を自在に操ることも容易ではなく、動けたとしても、しばらくは体が強張ったようにぎこちないはずだった。
しかし、リース・イルリヤは、流れるような動きでカプセルから出ると、ロッカールームに立ち寄って靴を履くことも上着を着ることもせず、滑るように静かに通路に出た。
向かった先は、PAMERAのUSLSI室。堅く閉じられた特殊合金のドアは、カード・キーとブリッジからのロック解除が無くては開かないはずだったが、リース・イルリヤが左手をドアにかざすと、白銀の光が放出され、ドアは音もなく開いた。
リース・イルリヤは滑るように中に入り、ドアは音もなく閉じる。
PAMERAに蓄積されたデータの一部を完全に消去し、この移民船ホープ号の航宙記録と目的地を書き変えて、タウ・ケティへの移民を阻止すること、それがリース・イルリヤに与えられた任務だった。乗員や移民の命を奪うつもりはない。目的地はタウ・ケティから遠く離れた移住可能な惑星に変える。
リース・イルリヤは、こめかみの辺りから2本の細いケーブルを引き出し、林立する超高層ビル群のようなPAMERA本体の端子の一つに繋いだ。
リース・イルリヤの瞳が青白く発光し、中空に、流れる文字列の映像が出現する。
何かが変だ、とリース・イルリヤは思った。彼が消去するはずだったデータが、既に消えていた。それだけではない。目的地も既に書き換わっており、時間の経過もおかしい。
リース・イルリヤが目覚めるのは、移民船ホープ号が地球との交信可能域を出て乗員達が人工冬眠に入った数時間後の予定だった。しかし、船内経過時間は、ホープ号がタウ・ケティの可視領域に達する一万九百五十二日を示していた。航宙記録も消えていて正確には分からないが、ホープ号はタウ・ケティではない何処か別の恒星系に達しようとしているらしい。
ホープ号がタウ・ケティに向かうことは不可能になった。ならば、彼がこの船に留まる意味はもう無いのかもしれない。だが、一体何者の仕業なのか。それが不明なままで船を離れても良いものか。
PAMERA内部に動きがあった。他の6人の乗員の人工冬眠カプセルが覚醒に切り替わったのだ。繋がれたケーブルを通して、リース・イルリヤはそのことを察知した。
どうする! 今すぐ船を離れるか、それとも、人工冬眠カプセルに戻るか。
リース・イルリヤは、PAMERAとの接続記録を消し、船内監視カメラの記録も消し、記録を消した痕跡も消し、ケーブルを収納してUSLSI室を出ると、宙を駆け抜けるように通路を戻り、人工冬眠カプセルのカバーを開けて中に滑り込んだ。
ほぼ同時に、他の六つの人工冬眠カプセルのカバーが開く。次々に身を起こす他の乗員達。リース・イルリヤも、今目覚めたかのように身を起こした。
ゆっくりと、記憶を確かめるようにして体を動かし、互いの顔を見合わせ、やがて乗員達はカプセルから出て床に降り立ち、ロッカールームで身支度を整え、食堂に会して、パック入りコーヒーとユーグレナパンケーキ、それにドライフルーツの宇宙風朝食を済ませた。
食堂の丸窓から見える射干玉《ぬばたま》の夜の中に、黄色っぽい恒星が小さく輝いているのが見える。
乗員の一人が口を開いた。
「あれがタウ・ケティか」
別の乗員が言った。
「太陽系からの距離11.8光年、絶対等級5.72、スペクトル型G8V、鯨座タウ星。アルファ・ケンタウリの次に太陽に似た恒星ね」
「もうすぐ、我々の新しいエデンの園に到着するんだな。青い海、緑の丘、赤いトマト、金色の小麦畑、その上をどこまでも続く青い空、白い雲……」
そのエデンに住まうべき六万人のアダムとイブ達は、人工冬眠室で今もまだ眠っている。乗員以外の移民用人工冬眠室は、限られた空間を最も合理的に利用すべく、その形状と配置が蜜蜂の巣箱そっくりになっている。その蜂の巣で眠る移民達が目覚めるのは、定住に適した惑星にホープ号が着陸してからになるだろう。
七人の乗員達は、それぞれの業務に取り掛かった。
「パメラ、おはよう。蜂の巣に異常はないだろうね?」
[おはようございます。もちろん異常なしです]
「パメラ、ホープ号の運行は順調だろうね?」
[もちろん全て順調です]
「パメラ、現在位置を知りたい。航宙記録、航宙図、星図を出してくれ」
[質問の意味が分かりませんが?]
「航宙記録、航宙図、星図だよ」
「大変です、
「跡形もなくって、修復はできないのか?」
「不可能です。新たに学習させるしかありません」
「船長、我々の目的地は、タウ・ケティ第四惑星のはずでしたよね。ここは違うかもしれません。パメラのデータが無くては確かめようがないですが」
ブリッジ中央の空間に、光る立体映像が出現した。黄色っぽい恒星と、それを取り巻く大小九個の惑星、第三惑星を挟んで巡る二本の
ホープ号に残された選択肢は二つ。辛うじて生活の拠点が作れそうな第三惑星に着陸するか、PAMERAに新たにデータを学習させて再びタウ・ケティを目指すか。しかし、学習させるデータをどう入手するというのか。
「ひとつだけ可能性があります。移民名簿の中から、専門知識を有する者を見つけ出し、半覚醒状態でパメラに繋ぐのです。潜在記憶をパメラにコピーできるでしょう」
移民名簿は失われておらず、役に立ちそうな娘が一人見つかった。名前は
リー・ユエファの眠るカプセルは、蜂の巣から医務室へと運ばれ、PAMERA の端子に繋がれた。半覚醒状態となった娘の潜在記憶が、PAMERAへと流れ始める。
順調かと思われた時、娘の美しく弧を描いた眉が僅かに歪み、突然、警告ブザーが鳴り響いた。脳波、心拍数、血圧に異常が現れていた。赤い警報ランプが点滅し、ゲージに表示された波形が激しく乱れる。カプセルに横たわるリー・ユエファの顔は苦しげに引きつり、胸が大きく上下した。
「駄目だ! 制御装置が利かない!」
その頃、ブリッジには、船長、副長、そしてリース・イルリヤの3人が居た。
「パメラの乗員名簿にリース・イルリヤの名前は無かった。7つの人工冬眠カプセルのうち、No.07は予備だったはずなんです。貴方は一体誰なんですか」
副長の言葉に、リース・イルリヤは驚きをあらわにした。PAMERAの乗員名簿に自分の名前があることは、数時間前に確認したばかりだった。
「誰かって、ホープ号の操縦士以外の誰だと言うんです? パメラは重要なデータが幾つも消えているのですから、僕の名前が無いのもそのせいでしょう」
「他の6名、ムナカタ、ゲイン、ホブス、ラジーブ、ナジュマ、そして私タニアの名前は残っていて、貴方の名前だけが消えたと?」
「僕は人工知能の専門家ではないので、その辺は分かりませんよ」
副長の表情から不信の色は消えていなかったが、船長は困惑しながらも結論を出せずにいると見えた。
リース・イルリヤは心の内で思った。もう潮時だと。
彼が行うはずだった妨害工作、いや、それ以上のことが既に何者かによって実行されている。たとえリー・ユエファの潜在記憶をPAMERAにコピーできたとしても、ホープ号がタウ・ケティに到達することは不可能だ。何者の仕業かは気になるが、もはやリース・イルリヤには何もすることが無い。彼は、乗員になりすました以外には、不本意ながら何も実行していないし、他に出来る事と言えば、一刻も早く脱出し、帰還することのみである。
「第三惑星の調査に行ってきますよ。パメラのデータが修復できなかった場合に備えて、着陸候補地の映像撮影と、大気や岩石のサンプル採取も必要でしょう。パメラが調整中で無人探査機が使えない今は、有人探査艇を使うしかないですから」
リース・イルリヤの言葉に、船長は重い表情で頷いた。
リース・イルリヤは有人探査艇で出発した。
PAMERAに繋がれたリー・ユエファはどうなるだろうか。ふと、リース・イルリヤの脳裏に彼女の姿が浮かんだ。
見知らぬ他人のはずの彼女の横顔が、彼の胸に何かを呼び起こすような気がした。水底から微細な気泡が音もなく浮上するほどの何か。あまりにも微細なそれは、弾けることもなく消えた。彼は、それを追求することはせず、無我となった。
リース・イルリヤの乗る探査艇は、第三惑星に向けて加速した。地上に向かうことなく、第三惑星の重力を振り切り、更に加速した。