(9) アンブレラハラスメント
「降らないだろうと思ったんだ」
それは降らないで欲しいという希望的観測でもあった。せっかく入ったサークルも雨天中止ばかりで、尋深の顔を見れない日が何日も続いていたからだ。
「見通しが甘いなあ。あまいあまい。そんなことじゃ虫歯だらけになっちゃうよ」
笑わせようとしたのかもしれないが、正直詰まらなくて笑えなかった。
「どういう意味だよ?」
ちょっと冷たい反応を返し過ぎたかなと思ったものの、彼女の方は意に介す様子もなく、一人で声を立てて笑っていた。
その笑い声に合わせて揺れる傘の色が赤と白だったのは憶えているけれど、模様までは思い出せない。ただはっきりしているのは、二人が雨を避けるには小さい傘だったということだ。
傘の端から零れ落ちる雨だれが、彼女の肩を濡らしていたので押し戻した。
「俺は濡れて帰るから大丈夫」
せっかく想いを寄せる女の子から話しかけられたのに、素っ気ない態度を取ってしまうのは何故だろう。そうでない女の子が相手ならもっと上手く振る舞えるのに。
コートをあとにして歩き始めても、彼女は傘を差し出したまま着いて来た。
「遠慮しなくていいよお」
おどけたふうにそんなことを言う。
「遠慮なんかしていない。その傘に二人だと狭いだろ」
「あ。わたしがでかいと思って」
今度は口を尖らせる。
「そんなこと言ってないだろ」
「思ってるでしょ。セクハラだから」
高校まで水泳部だったという彼女は、言われてみれば女子にしてはやや肩幅が広くていい体格ではあった。けれど、それも「言われてみれば女子にしてはやや」という程度でしかなかったし、むしろ身長もそこそこあって無駄な肉もなくスタイルがいい。それが周囲の評価だった。
それでも本人にとってはコンプレックスだったらしいから、女心は繊細かつ複雑かつ難解だ。そんなものに巻き込まれたら対処ができない。
「思ってないよ。それにもし思ってたとしても、思うだけじゃセクハラにはならないぞ。妄想するだけでセクハラなら世界はセクハラで溢れ返っている。殺したい、殺してやるっていくら思っても、思うだけじゃ殺人罪にも殺人未遂にもならないんだぞ」
理詰めで反論され、このままでは分が悪いと察したのであろう彼女は、すかさず方向転換してみせた。それもあらぬ方向へ。
「女子が誘った相合傘を断るのはセクハラだよ」
「望まない相合傘を強要される方がハラスメントの被害者かもしれないじゃないか」
「あ。ひどい。確実に傷ついた。これは絶対にセクハラかパワハラだ。……傘ハラかも」
本気ではない。もちろん怒っているわけでもない。自分で言って笑っていた。おまけに泣いてもいないくせに、ぐすんとか言って涙を拭うふりをする。
「相合傘の押し売りの方が傘ハラだろ」
「あ。また。ひどい。でも大丈夫。かよわい女の子のやることはハラスメントの対象外なのだよ」
「かよわい?」
「あー。やっぱりセクハラだ」
こんな他愛もない会話を続けながら、結局二人一緒に正門を出た。
長雨のせいで何日も置きっ放しになっていた自転車は、この日も置いて帰ることにした。
「ねぇ、どうせ暇なんでしょ。どっか行こうよ」
彼女がそんなことを言い出したので、内心どぎまぎしながら、平静を装う。
「どっかってどこだよ?」
だがその問いかけが終わらないうちに彼女は駆け出していた。この時点で傘のことなどどうでもよくなっているところが彼女らしい。
見ると、大学前の電停にちょうど路面電車が滑り込んで来るところだった。電停に渡る横断歩道の信号が点滅を始める。
「早くっ、あれに乗ろう」
駆けながら振り返ってそう言った彼女を慌てて追いかけた。