2話 ダイエットどころの話ではない。
そして……今。
再就職して3年が経過した。
もといた県から隣の県で、臨床工学技士として働いている。
ここもなんだかブラックっぽいけれど、人間関係はさっぱりしている。
部署内での飲み会はないし、女性もいない。
派閥もなさそう、というか人も少ない。
業務は心臓カテーテル検査やペースメーカ、人工呼吸器の管理など。
人工透析も含めて、いろんな分野の事をしている。
まあ、臨床工学技士は雑用みたいな仕事だ。
少ない人数でいろんな分野に手を出すから、なかなか休めなかったり残業も多い。
ブラック過ぎて、もうクタクタだけどなんとか働いている。
看護師には向いていなかった。
医療従事者にも向いていないかもしれない。
それでも、目の前にあるのは仕事しかない。
一体、自分は何に向いているのかわからない。
疲労の溜まった頭で一通り過去を振り返った後、俺は昼食後の休憩をとっていた。
身体はだるくて、少しでも休憩したい。
ピロロロロロロロ……ピロロロロロロロロロロロ。
しかし、臨床工学室に備え付けの電話が鳴る。
今日の勤務は自分と室長しかいない。
休みたいのに、面倒くさい……。
しぶしぶ、受話器をとり内容を聞く。
「はい……分かりました。すぐ行きます」
緊急カテーテルの呼び出しだ……。
血管造影室へ、向かう……。
まだまだ……俺の身体は消耗されていく……。
昨日は、色々あって帰りが遅かった。
家に着いたのは、午後9時30分。
心臓カテーテルに、病棟での出張透析に、ペースメーカチェック……。
疲労で頭がおかしくなりそうだ。
死んでいるかのように、眠ったことだろう。
寝た記憶がない。
目が覚めていても、布団から出られない……今日という日。
休みなので……ダラダラ過ごしてやる、という気持ちで一杯な日。
休みになると、何もやる気にならない。
眠気と脱力感と、疲労感と……たくさんのマイナスなものに潰されて動けなくなる。
エアコンがあるから、暑いのはまだいくらかいい。
夏を過ごすのには、これ以上な快適空間はないだろう。
けれど、この部屋には問題があった。
それは虫が多いこと……。
ここは、ちょっと山っぽいところだから、しょうがないのかもしれない。
でも、コバエがうるさい。
なぜか、他の虫はいないのにコバエがいる。
灰黒色のハエは、多分キノコバエ。
黒いハエを、ネットで調べたら出てきたのがそうだった。
ウチには植物もないのに、どこで増えているのか不思議で仕方がない。
この部屋はエアコンの吐き出す涼しい風を、懸命に締め切って閉じ込めている。
入ってくるところなんてあるはずがない。
台所の排水口だって、専用の洗剤で綺麗にしている。
トイレだって黄ばみは無いようにしている。
お風呂の排水口も専用の洗剤で洗浄している。
この部屋の中で、発生しているはずもない。
耳元でブーンと音がした。
「くそ~。一体どこからだよ!」
ついつい、声に出してしまう。
寝られそうにないので、渋々起き上がる。
ハエに起こされたのか……。
もう午後3時。
エアコンが入っていても、やや部屋の温度は上がってきているのかもしれない。
カーテンの隙間から外を覗いてみる。
太陽はすっかり上がり、夏の世界をつくりあげている。
目を焼きそうな光が外に広がっている。
もっと、早く起きればよかったかな……。
頭が重い。
まあ、とりあえずゲームでもしようかな。
唯一やることと言ったら、パソコンゲームくらいしか思い浮かばない。
ご飯を食べるのもめんどくさい。
だけど、食べないと人間は生きていけない。
お腹がぐ~っと鳴る。
お腹が減るって不便だ。
テーブルの上に置いてあったコッペパンを開けてかじる。
とりあえず、牛乳を冷蔵庫から取り出してコップについでテーブルに置く。
パソコンの電源を入れた。
頭がまだ働かないので、ぼーっとしている。
牛乳を一気に飲み干す。
パンもパクっパクッと一気に食べる。
身体に悪い気がするが、空腹なのだからこれでいい。
牛乳をそしてもう一杯。
乳製品は第6群でビタミン以外は全部含まれているんだから、牛乳だけでも大丈夫じゃない?
なんせ、牛はこれだけで生きているんだから。
そして、サプリメントを飲めば完璧。
DHAとマルチビタミンのサプリメントをそのまま牛乳で飲む。
うん、お腹いっぱい。
相変わらず、ブンブン音がする。
引っ越そうかな……と一瞬思うが、引っ越す気にはならない。
この部屋は2DKで3万円とかなりお得な物件だった。
勤務先からもそこそこ近い。
寝に帰るだけの場所だから、そこまでは求めなくてもいいのかもしれない。
すると、さっきまでブンブン飛んでいたコバエはあたりを飛ばなくなった。
俺は、あまりの光景に現実を受け入れられなかった。
コバエが、コバエが……パソコンの画面に集まってきている。
そして、量がちょっと多い。
画面が見えない程だ。
「……」
気持ち悪い。
もう、恐ろしい程……気持ち悪い。
しばらく、動けなくて眺めてしまった。
けれど、、これは何とかしなければ。
立ち上がり、居間の方へ武器をとりに行った。
伝家の宝刀、殺虫スプレー!
怖いので目をつぶり……。
画面に向かって、思いっきり殺虫剤を噴霧した。
どうなってるかはわからない。
殺虫剤を気の済むまでぶちまけた。
見るのが怖くて、後ろを向いて台所の方へ走る。
「くらえ、ばあちゃんが送ってきた美肌用の粗塩!」
きっと、清めるのにいいはずだ。
実家の祖母が肌にいいとか言って送ってきていたものがあった。
何か得体の知れないものには塩が良いに決まってる。
得体の知れない現象への不安を払いのけるために、俺は粗塩を投げた。
一掴み投げかける
更に投げかける。
投げかける。
気の済むまで、投げかけた後、俺はようやく我に返った。
「ハア、ハア……やりすぎたかな」
ちょっと後悔した。
パソコン壊れてないだろうか。
パソコンの上には、塩と虫がごっちゃりしてる。
こんな時は、掃除機だ掃除機。
机の上のものを全部吸い取ってしまおうと思った。
え~と、掃除機は……玄関の収納に入れてたはず。
玄関までダッシュして、掃除機を取りに行った。
ホントに10秒くらいで戻ったはず。
……なんだけど。
パソコンの上に降り積もっていた塩も、虫も、殺虫剤の匂いさえもすっかり消えていた。
俺は夢でも見てたのだろうか。
「ピーーーーーーーー……」
何かパソコンから、アラーム音のようなものが鳴り始めた。
パソコンの画面に変なメッセージが出ている。
『ベルゼブブの手下を退治しました』
なんだこれ?
パソコンが壊れた……。
だけど、次の瞬間には身体が熱くなる。
『未知のエネルギーを得ました』
続いてメッセージが加えられていく。
ひょっとして、超人的な何かを得てしまった可能性がある。
『身体プログラムにエラーが発生しました、パソコンを強制終了します』
え……強制終了?
ゲームがやりたかったんだけどな。
身体プログラムとパソコンは関係ないと思う。
関係ないのに、なんでパソコンを閉じるのか?
パソコンを再起動させると、何もなかったかのようにパソコンは立ち上がった。
よし、ゲームしよう……と思ったけれど身体がだるい。
急に体がだるくなった。
でも、これは何か起こったのかも、と思った。
そうだ……これは、どこかで読んだやつ。
ゲームの世界へ旅立つんじゃないかな。
だけど……待てど暮らせど、何も起こらない。
違うかあ。
ならひょっとして……。
RPG的なステータスオープンとかできるかな。
「ステータスオープン」
声に出してみる。
(ステータスオープン)
念じてみる。
なにも出ない。
「……」
俺は疲れているらしい。
さっきのは、全部幻覚だったのだと思った。
よし……寝よう。
間もなく睡魔が襲ってきた。
今日は体調が悪い日だ。
さっきまでは、そうでもなかったのに……。
◇◇
次の日の朝、いつもより早く目が覚めた。
ずっと寝ていたのに、あまり寝た気がしない。
身体がいつもより重い。まぶたもいつもより重い気がする。
頭の働きは大丈夫だろうか。
身体はだるいけれど、一応動く。
仕事に行かなければ……。
それにしても、のどが渇く。
トイレに行ったあと、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して一気に飲み干した。
特に、未知なエネルギーは何も与えてはくれなかったようだ。
体がだるいのは風邪でもひいたのかもしれない。
働きすぎたのだろうか。
それでも、熱はないみたい。
36.5度か。
また、のどが渇く。
朝から2リットルも水を飲み干した。
水の他に朝ごはんを摂る。
食パン2枚にジャムを塗り、牛乳を1杯とDHAのサプリメント。
いつもより、早く病院へ向かった。
途中でコンビニに寄って、トイレを済ました。
おしっこばっかり行きたくなる。
出勤して、透析室で透析用の血液回路に生理食塩水を流すという業務をした。
通称プライミング業務。
プライムが満たすだから、生理食塩水で血液回路を満たすこと。
なんとか、業務はできなくない。
体がだるいのは、そんなでもないな。
トイレが近いのとノドが渇くのは、ちょっと辛いけれど……。
朝だけでトイレには10回も行った。
……なんだか、おかしいと思った。
おかしいけれど、確証はない。
思い当たる病気はある。
けれども、信じたくはなかった。
うん、とりあえず……様子を見よう。
業務中トイレが近くて仕方がなかった。
隙を見ては、トイレに行った。
懸命に我慢して……。
時には人に仕事を振ってやりくりした。
1時間に1回は行きたくなった。
そんな体調のその日。
その日で終わるかと思った。
明日になれば、いつもの体調になる……。
そう思っていた。
そう思っていたのに、いつまでたっても良くならない。
一生懸命、トイレと口渇と身体のだるさと同居して働いた。
気が付くと1ヶ月経っていた。
なんとか、誤魔化して過ごしていた。
トイレは近いけれど、仕事はこなせている。
ペースメーカチェックだって。
心臓カテーテルの外回り業務だって。
人工透析だって……こなしているはず。
けれども、とても誤魔化せないようなことが起こった。
それは、体重が10kg減ったことだ。
流石にこれはやばい……。
筋肉が落ちて、脂肪も落ちて、多少ふっくらしていた自分の容姿は細く変わっていった。
あっという間の激やせ体験。
ダイエットどころの話ではない。