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ショパンのソナタからはじまったオーケストラの演奏は、楽団が入れ替わり午後の昼下がりを心地よくさせるスムースジャズに変わっていた。
旺盛な食欲でどんどん、美味い美味いと連発しながら真理の手作りランチを平らげたアレックスは、デザートは後の楽しみにすると宣言して、ゴロリと横たわった。
———真理の膝にである——-
だいたい、ランチの時もほぼぴったりと横にいたのだから、この程度の距離なら真理も叫ばなくなっていたが、膝となれば、また動揺もひとしおで・・・。
だがこのフェスティバルの開放感のせいか、真理は照れ臭さを感じながら、王子の頭を受け入れていた。
心地よい初夏の風に乗って流れてくるジャズの調べ。
天幕の外では思い思いにドルトン国民が音楽祭を楽しんでいる。
心地よさげに眼を閉じている王子の顔を見下ろして、真理はふっと彼の赤毛に指を絡ませた。
アレックスが一瞬ピクリとするが、動かない。
エールで酔ったのか、こんな大胆なことを王子様にするなんて・・・そう思いながらも真理は息を詰めて、そのまま手を滑らせ、そっといつも自分がされているように、王子の頬を撫でた。
不敬である、尊いお方だ、こんな風に触れるなんて恐れ多い・・・いくら自分を戒めても、真理も年頃の女性だ。
気持ちが傾いてしまう相手に触れたいという感情は湧き上がる。
彼が安らいだような顔をするのに励まされるように、真理は頬を撫で、彼の閉じた瞼を撫で、形の良い鼻先を戯れるように摩ると、堪らずといったようにアレックスが彼女のいたずらな手を掴んだ。
「そこまでだ」
と言って、眼を閉じたまま掴んだ指先にねっとりと唇を這わせた。
セクシュアルな行為にゾクッと背を震わせ、ごめんなさいと言って手を引こうとしても、力強く握られて許されない。
彼の唇が辿った後が空気にさらされてひんやりとすると真理はまた身を震わせた。
アレックスは口付けるのをやめると手を握りしめたまま眼を開けて真理を見上げる。
熱っぽさはなく穏やかな琥珀色の瞳に見つめられるといつだって真理の鼓動は跳ねてしまうのだ。
「君とこのフェスティバルを過ごせて良かった、俺の1番好きな音楽会なんだ」
その言葉に真理はホッとして微笑んだ。
「ここで我が国の民の笑顔や楽しそうな雰囲気に触れると、自分が軍人であって良かったと思える」
不意に告げられた第二王子としての言葉に真理は眼を見開いた。
王族であっても自分の存在意義を探すのだろうか・・・そんな風には見えなかった陽気で気さくな第二王子の言葉に、なんとはなしに深い孤独のようなものを感じる。
王子が軍人になる必要などこの国にはなかった。なのに敢えて軍人を選び、あまつさえ配下が止めるのも聞かずに前線に飛び出していくのは何故なのだろう、聞いてみたい気持ちがあったが、それは聞いてはいけないような気もして、真理は話題を変えた。
「私も大好きです。まだ日本にいた時に、わざわざ飛行機に乗って、父と母に連れられてこのフェスティバルに来たんです」
続きを促すようにアレックスが優しく真理を見上げている。
「母が張り切って、ピクニックランチを用意して、はしゃいだ私を父があちこち案内してくれて。
このフェスティバルで私は自分のもう1つの国籍、グレート・ドルトンを意識できたと思います。おそらく両親がそうさせたかったのだと思いますが、家族みんなで楽しく過ごせた数少ない思い出の1つです」
そう、数少ない懐かしい思い出。
父はいつも忙しく世界を渡り歩いていた。
仕事柄、ふつうの家庭のような親子関係は望めなかったが、帰国すればいつも母と自分に愛情深い優しい人だった。
今は亡き両親に想いを馳せながら、つい呟いてしまった。
「だからアレックス殿下と一緒にフェスティバルに来られて嬉しいです」
感傷的になってしまったのか、ハッととんでもないことを言ってしまった気がして、真理は慌てて口を握られてない方の手で押さえた。
アレックスは身体を起こすと握ったままの手を引き寄せ、真理をふわりと抱きしめた。
開いた手で背中を辿られてまた身体が震えてしまう。
耳元で王子が熱っぽく囁いた。
「真理、キスだ」
決定事項のような傲慢な言い方に、真理は自分も王子の背に手を回して、微かに頷いた。