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スマートフォンのアラームがいつも以上に煩わしい。昨日の合コンの疲れがまだ残っているのか、ベッドから起き上がるのが億劫だった。
昨夜は中田さんや椎名さんとのことを考えてしまい、なかなか寝つけなかった。今まで仕事以外で男性とまともに話したことがない私には難易度が高すぎた。あんなことで一々落ち込んでしまうなんて、私はこの先恋人ができて結婚して……そんなことができるのだろうかと不安になる。
今日は土曜だけど月一回の出勤日だ。けれど他の社員はほとんど有給を使ったり、仕事を調整して休みの人が多いはず。
多分今日は私だって仕事に身が入らないだろうな……。
洗面台の棚を開けるとワンデーのコンタクトレンズがあと4日分しかなかった。買いに行くのを忘れていた。
今日はメガネで行こうかな。
顔を上げて鏡に写る自分の顔を正面から見た。鏡には黒縁メガネでボサボサ頭の女がいる。不細工で、暗い、地味な女が……。
私は再び棚を開けてコンタクトレンズを取った。やっと気持ちに余裕が出てお洒落も楽しめるようになってきたのだ。土曜日だからと油断して地味な私を見せてはいけない。
古明橋にオフィスを構える株式会社早峰フーズに勤めて3年になる。最終学歴が高卒の私が契約社員とはいえ大手に就職できたことは奇跡だ。今のところ大きな問題もなく契約を更新してもらえている。
総務部のフロアに入るとまだ誰も来ていないようで暗かった。只でさえ日当たりの悪いフロアが余計に暗くジメジメとしているようだ。
「おはようございます」
突然入り口から聞こえた声に振り返ると一人の男性が立っていた。
「あっ……」
私は思わぬ人物に驚いて挨拶を返せなかった。入り口に立っていたのは営業推進部の横山さんだ。暗いフロアが一気に明るくなったように感じた。
「今日は丹羽の奥さんいるかな?」
尋ねながら横山さんはゆっくり近づいてきた。私との距離が縮まり緊張してしまう。
「あの……すみません……今日は丹羽さんお休みなんです」
丹羽さんは私と同じ総務部の先輩だ。横山さんと同じ営業推進部にご主人も勤務している。
「そっか……旦那の方の丹羽も今日は休みなんだよね。二人でデートしてるのかもね」
「そうですね」
横山さんが優しく笑って言うから、私も笑顔になった。
「じゃあこの申請書なんだけど、月曜で間に合うかな?」
横山さんは手に持っている数枚の紙を私に見せた。
「大丈夫ですよ。今月の締め切りは火曜ですから。丹羽さんに渡しておきますね」
「ありがとう」
私は横山さんから用紙を受け取った。
「じゃあお疲れ様」
「お疲れ様です」
横山さんは爽やかな笑顔でフロアを出ていった。
私はほっと小さく溜め息をついた。
横山さんと会話しちゃった……!
社内の花形部署である営業推進部のエースと呼ばれる横山さんは、端正な顔立ちと仕事に手を抜かない真面目さから上司や同僚、顧客からの信頼も厚い。そして誰にでも優しかった。横山さんを知らない社員はこの会社にはいない。
でも横山さんは私の名前すらきっと知らないんだろうな。会社内で私は『雑用係』と思われている。同じ営業推進部の丹羽さんの奥さんは知っていても、地味な私のことなど記憶には残らないだろうし。
横山さんに付き合っている彼女がいることは有名だけど、それでも女性社員からの人気は高かった。
彼女さんが羨ましい。あんな素敵な人が恋人なら毎日がきっと楽しいはず。
横山さんの彼女も社内の人だ。丹羽さんも社内恋愛での結婚だし、出会いは近くにたくさんあるのかもしれない。
例えば社長付きのエリート秘書や、レストラン事業部の先輩、新入社員の後輩くんとか。
憧れる相手、憧れのシチュエーションがないわけではないし、総務部の仕事でたくさんの社員に関わるけれど、恋愛は私には無縁な気がしてしまう。
朝起きて会社に来て帰って寝てまた起きて。何の変化もない平凡な毎日が平凡な私には合っている。
それでも変えたいって、頑張ろうって、思ってもいいよね? もう自分のことを考えて生きてもいいよね……?
何の予定もない週末をだらだら過ごし、また月曜がやって来た。早めに家を出ても混雑する電車にうんざりしながら出社した。土曜日は食堂も私の貸切状態にできるほど静かだったのに、今は話し声が途切れず電話が鳴り止まない。
「夏帆ちゃんおはよう」
私より少し遅れて出社した丹羽さんの明るい笑顔には朝から癒される。
「おはようございます」
「これ旅行のお土産」
「わあ! ありがとうございます!」
丹羽さんから個包装のクッキーを受け取った。
「旦那さんと行ってきたんですか?」
「うん。いつ妊娠するか分からないから今のうちにね」
丹羽さんは照れたように笑う。本当に幸せそうな笑顔だった。
プルルルルル
私のデスクの内線が鳴った。
うわっ、来た! 月曜の朝から私にかかってくる内線はどうせ雑用の押し付けに決まっている。
「はい、総務の北川です」
「おはようございます。秘書室の宮野です」
「おはようございます……」
宮野さんの声を聞いた途端に落ちた気分が更に落ちる。
「申し訳ありませんが、役員フロアまで上がってきて頂けますか?」
「何かありましたか?」
「取りあえず上がってきて頂いてからお話しします」
宮野さんの抑揚のない声は受話器を通すとより一層冷たい印象を受けた。
「分かりました……今行きます……」
「よろしくお願い致します」
プツリと内線が切れた。
はぁ……秘書室からの呼び出しって何だろう……。
「ちょっと秘書室に行ってきます」
通話の様子を横で聞いていた丹羽さんに告げた。
「げっ、秘書室か……何だって?」
「取りあえず来てほしいそうです」
「何それ……向こうから来いっての!」
「どうせまたお茶がなくなったとかだと思いますけど、行ってきます」
「お願いね」
同情の目を向ける丹羽さんに見送られて私はエレベーターに乗った。
秘書室に限らず、どの部署も総務部総務課を便利屋扱いしている。
「役員の飲むお茶を買って」だの、「電球が切れた」だの、「パソコンの調子が悪い」等々。
確かに社内の備品の発注は総務部総務課の仕事だけど、書類は処理するから自分達で買ったりつけたりしてほしい。
心の中で文句を言っているとエレベーターは役員フロアに着いた。
フロアに出るとエレベーターのすぐ横にある観葉植物の前に宮野さんが立っていた。
「お待たせしました……」
「わざわざ申し訳ありません」
宮野さんの口調からは申し訳なさは少しも感じない。
副社長の専属秘書である宮野さんは今日も変わらず上品なブランドのスーツを着こなし、薄すぎず濃すぎないナチュラルメイクの完璧な姿だった。同じ女として憧れるけれど、仕事も完璧なだけに冷たい印象を受けて少々苦手だった。
「この植物なんですけど」
宮野さんは植物の葉に触れた。
「根本に近い葉が茶色く枯れてきてしまっているんです。先月も同じようになりましたよね? また業者に連絡して手入れするなり、交換するなりして頂きたいんです」
怒りが籠った言葉に焦り私も葉を見ると、宮野さんの言う通り鮮やかな色の葉の下に茶色く変色した葉があった。
「役員フロアですので見栄えが悪いものは置けません」
「分かりました……業者さんに連絡します」
「役員が見る観葉植物が汚いと困りますと業者にきちんとお伝えください」
「はい……」
確かに見た目の悪い植物を置いておくのは問題だけど、この話は呼び出さないで内線でもよかったんじゃないかな?
そう思ったとき、エレベーターのドアが開いて誰かが役員フロアに出てきた。その男性には見覚えがあった。観葉植物リース会社の担当者だ。