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職場の人間関係が良ければ労働環境もさほど気にならないことだろう。私は多少の残業も休日出勤すらも気にならないほど今の会社に満足していた。けれど営業部のとある男性に対して苦手意識を持っている。その人とだけはろくにコミュニケーションを取れる気がしない。同じ部署だとしてもできる限り会うことを避けたいと思っていた。その人物が私を必要以上に憂鬱な気分にさせるのだ。

私が就職したイベント企画会社が入るビルのエレベーターホールに行くと、エレベーターの前には数名の社員が待っていた。その1人1人に「おはようございます」と声をかける。
挨拶を返してくれる社員の中で武藤直矢という社員だけは私の顔を見るとすぐに目を逸らし、やっと聞こえるかと言う声量で「おはようございます」と言った。私はこの人のこの態度が毎日不快だった。
営業部の期待のエースである武藤さんはいつも私の顔を直接見ることはなく、目が合ったとしてもすぐに逸らされる。今だって武藤さんは他の社員と笑顔で話していたのに、私が来た途端に無表情になってしまったのだ。整った顔が余計に怖さを演出する。私はいつも嫌な思いをしていた。

エレベーターが3階に到着して降りると営業2課の武藤さんはガラスの扉からフロアに入って左のデスクに座った。反対に私は右のデスクに行く。営業1課の私はコンビを組んでいる同じく営業1課の山本さんの隣のデスクに荷物を置いた。
山本さんは朝から次の案件の現場に行っている。営業事務である私は山本さんの代理で今日の会議に出なければいけない。

「戸田さん、資料よろしく」

「かしこまりました」

部長に返事をすると事前に作成していた会議用の資料を全員のデスクに配布する。パソコンを起動する武藤さんのデスクに近づいた。

「今日の資料です」

「……ありがとうございます」

横目で資料を見ると私の顔を見ずに受け取る。自然と私の態度も固くなる。「よろしくお願いします」とそっけなく言って武藤さんから離れる。
私が武藤さんに特別何かをした記憶がない。冷たい反応をされる理由に心当たりがないのに、気になって仕方がない。きっと武藤さんは私のことが嫌いなのだろう。人間だから好き嫌いがあるのは仕方がない。私だって武藤さんが苦手だ。自分を嫌っている人にわざわざ自分から近づくことはないのだ。ずっとそう思ってこちらからも避けてきた。

始業開始まではまだ少し時間があった。スマートフォンでLINEを開くと恋人である正広にメッセージを送る。

『今夜家に行ってもいい?』

正広も外回りの多い仕事だけれどすぐに既読になり返信があった。

『俺は今夜遅くなるけどいいよ』

その絵文字も何もないシンプルな文章に寂しさを感じるけれど、来てもいいと言ってくれたことが嬉しかった。

『それでもいいから行くね』

少しの時間でも正広に会えると思うと心が弾む。単純な私は仕事にやる気が出てパソコンを起動した。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



朝6時に設定したスマートフォンのアラームが部屋中に鳴り響く。

「んー」と小さく唸りながら手を伸ばしスマートフォンを取るとアラームを止めた。私の横には恋人である正広が寝息をたてて熟睡している。昨夜はこの正広のベッドで一緒に眠ったのだ。
一方的に押しかけたのだから仕方がないけれど、昨夜の正広は遅く帰ってきてあまり話もできなかったから、せめて朝食は一緒に食べたいと先に起きた。たまには正広の好きなオムレツを作ってあげようと思った。
正広の無防備な寝顔を見て思わず口元が緩んだ。何年たっても何度見ても、恋人のこの寝顔は愛しくて癒される。完全に目が覚めた私はベッドから下りて寝室を出た。

正広とは付き合って5年になる。同じ大学で偶然地元も近かったことから距離が近づいた。穏やかに関係を続けてきて別々の会社に就職してもお互いの時間を大事にしてきた。今のところ大きなケンカもなく別れようと思ったこともない。
このまま正広と結婚するかもしれない。何となくそう思っていた。きっと正広となら穏やかで明るい家庭が作れるはずだ。お互い26歳になるし、長年付き合っているのなら結婚してもおかしくない。正広も私に対して同じことを思っていてくれればいいと願っていた。私はいつだって正広からのプロポーズを受ける準備は整っていた。

「美優……?」

リビングに入ってきた正広は起き抜けの掠れた声で確かめるように私の名を呼んだ。

「おはよう。ご飯できてるよ」

「……ありがとう」

目を擦り髪を掻きむしった正広はテーブルに用意された朝食の前に座った。私の朝食はコーヒーにイチゴジャムを塗ったトースト。正広にはオムレツと納豆とご飯にお味噌汁、そしてコーヒーを用意した。言われなくたって作ってあげる正広の1番好きなメニューの組み合わせだ。

「美味しい?」

聞かなくても答えはわかっているけれど聞かずにはいられない。

「うん……うまいよ……」

まだ半分眠そうな正広の一言だけの感想も私は素直に嬉しいと思える。愛しい恋人に喜んでもらえたらそれだけで満足だ。

「あのさ……昨日俺、何か言ってた?」

「え? 何かって?」

「寝言とか……」

昨夜の正広は飲み会の後に酔っ払って帰ってきた。やたらと機嫌がよかったのは覚えている。

「何も言ってはいないけど、私に抱きついてはきたかな」

からかうように笑うと正広は無表情で「そう」とだけ呟いた。
酔った正広はいつも以上に上機嫌で、シャワーを浴びても酔いが覚めないようだった。珍しくベッドに入るなり私を抱き締めたかと思うとすぐに寝てしまった。抱き締められて嬉しいような、先に寝られて寂しいような複雑な感情を持て余しながら私も眠った。

「寝言を言いそうな夢をみたの?」

「いや……そうじゃないんだけど……」

正広は面倒くさそうにコーヒーカップを口に近づける。その先を言おうとしないから私も無理には聞かなかった。正広が寝言を言ったかどうかを気にするなんて珍しい。そんな恥じらいは2人の間になくなったと思っていた。
正広の部屋の合鍵は持っている。泊まることはあっても同棲しているわけじゃない。5年も付き合っていれば身体を繋げることも減っていた。だから昨夜は久しぶりに恋人らしい行為を、と正広の帰りを待っていたのだ。酔っていたとしてもベッドで抱き締められて期待した。だから期待を裏切られて寂しいけれど先に寝られてしまっては仕方がなかった。

「美優、今夜は仕事?」

「うん。これからまた忙しくなりそうだから」

私の仕事は正広の仕事と繁忙期がずれる。正広の予定があいていても私の仕事が忙しくなることもあった。

「そっか……」

「どうして?」

「いや、久しぶりにどこかでゆっくり外食しようと思ったんだけど」

「いいねそれ!」

2人で外食なんて久しぶりで浮かれてしまう。自然と声が弾む。

「でも今夜は難しいな。来週……ううん、落ち着くのは来月になっちゃうかも」

生憎今夜は仕事の予定がある。けれど乗り気になってくれた正広の気持ちを繋ぎ止めたくて「ごめんね」と付け加えた。

「わかった」

正広は食器をキッチンに置くと出勤する準備を始めた。私も片付けをして正広の家に置きっぱなしの服から今日着ていくものを選び化粧をした。



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