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聡次郎さんは実の母親に向けているとは思えない表情と低い声で責める。この状況をどうにかしてほしいと慶一郎さんを見たけれど、聡次郎さんと同じく厳しい表情で奥様を見ている。月島さんは聡次郎さんをじっと見守っていた。
「梨香さんはお金を受け取らなかった」
奥様は先程と同じ言葉を繰り返した。
「残念だったな。梨香は金では動かない」
そう言う聡次郎さんは最初私を金で釣ったくせに。あれからだいぶこの人に信用されたなと自分で自分を感心してしまった。
「だからこそ、梨香さんの本当の人柄がわかりました」
私は奥様の顔を見た。そして奥様も私の顔を見た。
「認めましょう。梨香さんを正式に龍峯に迎えます」
その場にいた奥様以外の全員がぽかんと口を開けた。
「あの、今なんて?」
私は恐る恐る奥様に問いかけた。
「聡次郎と梨香さんの結婚を認めると言ったのです」
はっきり奥様の口から言われてもまだ信じられない。
「どうして急に……」
聡次郎さんまでも驚いている。
「急ではありませんよ。少し前から認めようと思っていました」
奥様は微笑んだ。私に向けた初めての笑顔だ。
「梨香さんにお金を渡そうとしたのは、お金で聡次郎を裏切る人なのかどうか見極めるためです。意地悪なことをしてごめんなさいね」
今までの態度からは信じられないほど優しい口調に戸惑う。
「聡次郎が自分で結婚相手を決めるというのなら構わない。でもその人がお金を受けとるような人であれば聡次郎に相応しくありません」
「勝手なことをして……」
聡次郎さんの声は呆れている。
「親心です」
奥様は反省する様子が全くない。あれほど嫌な態度をとっておきながら、あっさりと認めてくれて拍子抜けしてしまう。
「でも私に出ていけとおしゃいました……」
「本店は、という意味です」
「それはどういう……?」
「お茶カフェに梨香さんを抜擢するのでしょう? ならばもう本店に勤務することはできないですから」
奥様の言葉が理解できない。お茶カフェとは一体なんのことだ。
「まだそれは梨香には言ってないんだよ。なのに出ていけなんて言ったら余計話がややこしくなるだろ」
聡次郎さんは更に呆れている。
「結婚すると決めたのならとっくに話していると思うでしょう」
「2人とも、梨香さんが混乱しているよ」
慶一郎さんが困惑する私に微笑んだ。
「来年龍峯がお茶をメインにしたカフェをオープンすることになったんだよ」
「そうなんですか?」
それは初耳だ。そういえば営業部が何やら慌ただしいし、聡次郎さん自身が新店舗を出すと言っていたことを思い出した。
「そのカフェのスタッフの1人として、梨香さんに営業に携わってもらいたい」
「え!?」
「営業部と協力してカフェメニューをお茶に合うようにアレンジしたり、龍峯の商品を使ったメニューを考案してほしい」
思ってもいない事態だった。
「あの……」
困って回りを見渡した。慶一郎さんも麻衣さんも私を見て微笑み、聡次郎さんは態度が変わった奥様をまだ不審な目で見ている。
「あとはあなたたちで話し合いなさい」
奥様は立ち上がった。
「私はこれで失礼します」
応接室を出ようとする奥様に私は「あの!」と引き留めた。
「認めていただきありがとうございます!」
奥様に向かって深く頭を下げた。それを見た聡次郎さんも私の横に並び、同じく奥様に向かって頭を下げたのだ。
「……海外挙式だけはだめですよ。お世話になった方をお招きして盛大にするのですから、国内でおやりなさい」
「考えとくよ」
「梨香さん」
「はい」
「明日私に龍清軒を淹れてくださいね」
その言葉に涙が出そうになった。
「はい! 喜んで!」
奥様は最後にもう1度微笑むと応接室を出ていった。
「おめでとう2人とも!」
麻衣さんが拍手をした。
「奥様を認めさせるなんてすごい!」
「ありがとうございます……」
聡次郎さんと結婚できる。まだ実感が湧かない。横に立つ聡次郎さんを見ると喜んでいるわけでもなく、まだ奥様の態度の変化についていけていないようだ。
「聡次郎」
月島さんが聡次郎さんを呼んだ。
「よかったな」
そう言って月島さんは微笑んだ。ずっと聡次郎さんをそばで見てきた月島さんは聡次郎さんの過去を全て知っているからこそ家族と同じように喜んでくれている。
「……帰る」
そう言った聡次郎さんに私は突然手を引かれた。
「お疲れさま」
手を振る麻衣さんに手を振り返し、「お疲れさまです」と言って聡次郎さんに引っ張られながら応接室を出た。
エレベーターに乗り聡次郎さんの部屋に着くと無言でリビングまで引っ張られた。
「聡次郎さん?」
心配して声をかけた途端、聡次郎さんに抱き締められた。
「あの……」
私の肩にグリグリと頭を押し付ける聡次郎さんが愛しくて、私は聡次郎さんを抱き締め返した。
「お茶カフェの話、言ってくれたらよかったのに」
「そのうち言おうと思ってたんだよ。お茶カフェをやるなら駅前のカフェを辞めなきゃいけない。それは嫌そうだったから言いにくくて」
確かにお茶カフェに携わるのなら、もう駅前カフェとの両立は難しくなる。
「あの、それは正社員ということですか?」
「まあそう言えなくもないな。経営陣の1人になるわけだから」
龍峯のような古い体制の会社では、親族の一員になれば経営に携わるようだ。ならば私も麻衣さんのような立ち位置になるのだろう。
「ねえ、もしかして私にお弁当作らせてたのって……」
「料理の腕を見るため」
やはりそうかと納得した。
「梨香をお茶カフェに配属させようとはだいぶ前から考えてた。カフェでのメニューも考えてただろ? どうせならその案もお茶カフェにいただく」
この人はどこまでもワガママで自分勝手だ。思わず口元が緩む。
「私、まだ龍峯にいていいの?」
「ああ。お茶が好きだというのなら、まだ俺のそばで働け。永久就職な」
「嬉しい……」
龍峯のカフェに勤められるなら文句などあるわけがない。
「よかったですね。奥様に結婚を認めてもらえて」
「金……受け取らなかったの?」
「はい。いりませんから」
お金をもらって生活に余裕ができたって、そばに聡次郎さんがいなければ私の人生にもう意味なんてない。
「不安だったんだ……」
聡次郎さんは更に強く私を抱き締めた。
「俺たちだって契約を始めたきっかけは金だから、いつか母さんが梨香に金を渡すんじゃないかって不安だったんだ……」
過去の恋人にお金と引き換えに別れさせられたという聡次郎さんは、きっと同じような展開に怯えていたのかもしれない。
「もう……また私を信じてくれなかったの?」
「ごめん」
聡次郎さんは本当に反省している声を出し、私の頭を撫でた。
「嬉しかった……初めて私が淹れたお茶を褒めてくれた。今まで1度も褒めてくれなかったのに」
「梨香のお茶がうまいって言ったら、勉強することをやめてしまうんじゃないかって思った。これからのためにまだまだ腕を磨いてもらわなきゃいけないし。それに……」
聡次郎さんは目を伏せた。
「もう俺に淹れてくれなくなるんじゃないかって思ってたから」
「そんなわけないじゃない。ずっと聡次郎さんが好きなお茶を淹れてあげる」
お互いに見つめ合って顔を近づけた。
「梨香と会う度、梨香のお茶を飲む度にどんどん好きになる」
「まるでお茶が惚れ薬みたい」
「俺には効果抜群だよ」
聡次郎さんに喜んでもらいたくて何度も何度も勉強して練習した。
「お爺ちゃんお婆ちゃんになっても一緒にお茶を飲みましょうね」
「ああ」
私の唇に聡次郎さんの唇が優しく触れ、徐々に貪るような深いキスに変わる。
「なあ……梨香」
キスの合間に私の名を呼んだ。
「お茶淹れて」
「はいはい」
甘い雰囲気を壊さないおねだりに私は微笑んだ。
これからいくらだってあなたのために最高のお茶を淹れてあげるから。