離婚後
翠がいなくなってから早一年が経過しようとしている。
離婚届は引き出しにしまったままにしてある。翠に捨てられた過去を断ち切るために、役所に一刻も早く提出しようと思ったものの、時間を確保するのは難しかった。ひとり親となってからというもの、仕事、家庭と落ち着けない日々を送っている。
もっともらしい理屈を述べているけど、本音の部分は異なるところにある。離婚の事実を認めることにより、己の価値を下げたくなかった。相手から離婚してほしいといわれるのは、自分を全否定されたに等しい。
相手側から告白されたという事実が、さらに追い打ちをかける。直哉の身代わり人形として交際を申し込まれたあげく、結婚が判明した直後に用済みのティッシュペーパーとしてゴミ箱に捨てられてしまった。直接口にしていなくとも、最初から自分に利用価値はなかったといわれたようなものだ。
直哉と纏がきっちりと結婚に至ったことで、とどめを刺される展開は避けられたのはせめてもの救いといえる。初恋の男性にそっぽ向かれるようなことになれば、生きる気力を完全に失っていた。水を与えられていない植物さながらに、干乾びていただろう。
裕は地方に住まいを構えているので、離婚したという噂を流されるのは避けたい。近年の離婚率は上昇傾向にあるものの、こちらの地方ではほとんど見かけない。地方独特の他人の目線を意識し、婚姻関係を無理に続ける家庭は少なくない。
息子の夕食を準備していた。毎日のように料理をしていたからか、昔よりは幾分上達した。継続は力なりとよくいうけど、まさにその通りだと思った。
本日は実母の沙代里も滞在していた。普段は別々に住んでおり、顔を合わせるのは半年ぶりとなる。嫁、姑のバトルを繰り広げないよう、沙代里は実母のところに住居を構えることとなった。
別居することによって嫁、姑によるいざこざは避けられたのは大きな利点となった。愛情の
「あ」の字すらない家庭で、バトルを勃発させるようなことになれば、翠との婚姻生活にとどめを刺していたと思われる。貞夫、祐樹は地上に誕生させる前に姿を消していただろう。沙代里と別々に住まいを構えたことで、二人の息子を育てる機会を得たのは大きなメリットだ。
翠は沙代里のことをプラスに捉えていなかった。一年に一回の応対ですら、どうしてやってきたのという空気を全身から醸し出していた。一緒に生活しているならともかく、稀に訪問しているだけ。365日のうちの1日くらいは我慢して、愛想笑いを浮かべてほしかった。
実父が生きていたら、婚姻届けに判を押すことはなかったと思われる。晩年の父はとにかく荒れていた。酒、煙草に溺れる最低の生活を送っていた。
地方ゆえにパチンコ店や競馬場はなかった。ギャンブル依存症にかからなかったのは、ちょっとばかしの光明といえた。ギャンブルの餌食になっていたら、家計は大きく傾き、家を手放さなければならなかったかもしれない。
父の人生の転機となったのは社内における人員整理。リストラの対象となってからというもの、別人のように変わり果ててしまった。理想の父親像は、幻であったのを痛感させられた。
沙代里は注意をお願いするも、実行に移すことはなかった。父の腐敗した生活を認めたのではなく、暴力を恐れてのことだった。息子、娘に八つ当たりしないよう注意を払っていた。
地獄のような生活は半年もしないうちに終焉を迎えることとなった。父の身体を異変が襲うこととなった。精密検査の結果、末期癌と判明した。病院で延命措置を施すも、入院して三カ月であの世に旅立った。
大黒柱を失ってからは、沙代里は一人で裕と妹を育て上げていくこととなる。一日に四時間だったパートをフルタイムへと変更した。家計を支えようと必死になっていた。
沙代里は二人の孫のことを気にかけていた。祖母としてほっとけないのかなと思われる。
「裕、子供たちとはうまくいっているの」
祐樹の元気のなさはひっかかる。翠とはなればなれになってから、極端に口数は減った。元々多いほうではなかったものの、塞ぎこむようになってしまった。
学校に通っているのはせめてもの救いといえる。登校拒否するようになったら、取り返しのつかない状態になりかねない。最悪の場合、中学校卒業まで休み続ける可能性もある。
貞夫にも変化が見られた。母親と離れたことで刺々しい性格になり、優しさ、温かさといった部分は見られなくなった。
貞夫の一番の変化は祐樹への態度。以前は温かく接していたものの、翠と別居してから人が変わった。暴力こそ振るわないものの、命令口調で話すようになった。弟をパシリのように扱っている。
沙代里は滅多にやってこないにもかかわらず、家庭内の変化を敏感に嗅ぎ取っていた。人生経験豊富なだけに、心情を熟知しているのかもしれない。
「翠さんと別居してから、子供たちも変わったみたいだね。母親に捨てられた事実を受け入れられないのかな」
沙代里に別居した事実は伝えたものの、離婚をつきつけられたことは伏せたままにしてある。息子の結婚を一番喜んでいた当人に、厳しい現実をつきつけるのは躊躇われた。
一年くらいは誤魔化そうかなと思っていると、沙代里の口から思ってもみないことをいわれた。
「裕、離婚届はどうしたの。役所に提出しないと、婚姻関係は解消されないよ」
沙代里は何枚も上手だ。話していないにもかかわらず、翠から離婚要求をされたのをきっちりと見抜いている。
「見栄を張ったとしても、翠さんは戻ってこない。あなたの人生を再出発させるためにも、きっちりと後始末をつけないといけないよ」
的確な事実をつきつけられたためか、言葉に詰まることとなった。
「提出しようとは思っているんだけど・・・・・・」
離婚届を提出しない息子に、呆れているのかもしれない。男なら堂々と事実と向き合いなさいというのが、彼女の口癖だった。
沙代里は数回瞬きをした。いつもよりもスピードが速かったので、特別なことを考えているのかなと思った。
「あなたたちは最初から利用するだけの仮面夫婦だったものね。早かれ遅かれこうなる運命だったと思う」
女性の観察眼は鋭い。油断も隙もあったもんじゃないな。
「翠さんもたいがいに非常識だけど、あんたも負けていないよ。女を利用する目的で交際を開始するなんて通常は考えられない。最低限の愛情はもたないといけないよ」
愛情を持たれない男性というのは、縋り付いて異性をゲットするしかない。最低といわれる手段を使用しなければ、生涯を独身で終えることとなる。
「翠さんの恋愛感情を利用するような最低な男だから、直哉さんが独身で実家に帰ってきたら、こちらも利用するつもりだったんじゃない。まあ、一秒としないうちにあちらにいってしまったでしょうね」
直哉への愛情を考えると、充分にあり得る話だ。自分はどう転がり込んだとしても、捨てられていたことになる。
沙代里は乾燥した下唇をなめていた。湿気を含んだはずの口は、すぐに元の状態へと戻っていった。
「成人なのであれこれと口を挟まなかったけど、最初から結婚に反対だった。手すら握らない男女が長続きするはずないもの」
デートで笑顔を醸し出しているカップルですら、40パーセント程度は離婚する。裕の家庭みたいに最初から愛情の持っていなければ、確率はぐんと上昇する。
沙代里は自分の体験談を語った。
「私は二人の愛情は揺らがないと思っていたけど、大きな間違いであるのに気づくのにそんなに時間はかからなかった。一緒に生活すると価値観の相違などもあって、口論になることも増えていく。最終的な二人は、子供の頃に何度も見た両親の喧嘩となんら変わらなかった。自分たちはそうならないと思っていても、同じ結果に落ち着いていく」
夫婦のいざこざの歴史は、数千年後も変わらないと思われる。直哉、纏みたいに心を寄せ合うのは夢物語に近い。
「愛し合っていてもそうなるのに、最初から愛情すらない家庭は幸せになるはずなんてないでしょう。裕が100億円持っていて、お金をバンバンふるまえるならどうにかなったかもしれないけど」
結婚はお金でするものだとよく耳にする。アンケートによると、女性の90パーセントはお金のない男性は無理だと回答している。
沙代里は年季の入った皴を萎ませた。人生疲れする老女さながらだった。
「幼少期からグダグダな家庭で生活してきたのに、大人になって劇的に変わるなんてありえない。人生の針はどのように動かしても、同じ方向に歩むようにできているのよ」
年季の入った皴には、人生の苦労をたっぷりと詰め込んでいるかのようだった。人間の皴の増加は、これまでに蓄積したストレスなのかもしれない。
「結婚はほどほどの幸せを求めるからこそ、長続きさせられるの。理想ばかりを追求していたら、一日たりとも一緒にいられなくなる」
人生は妥協の賜物といわれるくらい、忍耐、我慢を強いられる。三〇年以上の人生で、理想をかなえられたことは一度もない。
「直哉さん、纏さんみたいな家庭もごくごく一部にはあるでしょう。ただ、ほとんどの家庭は強い愛情で結ばれているわけではない。天文学的な確率に賭けてどうするのよ。自分のありのままで生きるようにしないと、絶望するのがオチだよ」
翠は求めすぎてしまったために、婚姻生活の継続を難しくした。そこそこでいいと思っていたなら、破局することはなかった。
裕は二カ月前、二人と顔合わせした。結婚して十年以上になるにもかわらず、愛情は一層深まっているように見えた。高校時代に見えた赤い糸は、何十倍、何百倍にも増えていた。頭のてっぺんから、つま先まで絡んでいるかのようだった。どうしたらあんなに親しくできるのかな。
子供もできたのか、纏と手をつないで歩いていた。直哉も輪に加わって、一致団結しているように見えた。
絵に描いた餅を想像してもしょうがないか。裕は自分の生活を送っていきたいところ。明日から何をできるのかきっちりと考えていこう。