1話
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|天秤座《ラ・バロンス》地区、王国劇場。どの座席に着いても同じ音が聞こえるよう計算され尽くした四階席まである豪華絢爛たる舞台に、ひとりの|魔女《ソルシェラ》が立っていた。
大きな|棺《ひつぎ》を携えて、地味な黒色毛皮のコートで着膨れている。王国最高峰の舞台に立つには分不相応だと誰もが認める、野暮ったくみすぼらしい姿。喩えるならばそれは墓守だ。野放図に伸びた黒髪が、悲愴感と陰鬱さをさらに高めている。だが、立ちこめた陰鬱な淀みでも、瞳の奥に潜んだ緊張感までは隠すことができなかった。
「では、これより審査を始めましょう。腕前をご披露願えますかな。|大弦楽器《コントルバッソ》の音魔女、アンリエット・デュノワ」
観客席に座す三名の審査員のうちのひとり、柔和な顔をした老紳士が、舞台に立つ魔女――アンリの名を呼ぶ。
「はい」カラカラに渇いた口で、アンリは背負っていた商売道具を棺じみたケースから取り出した。
|大弦楽器《コントルバッソ》。成人女性であるアンリの平均身長より一回りは大きい木製の胴の上には、四本の弦がたわみなく張られている。いや、張りつめられていると表現した方が正しいだろう。絶対に外せない好機だからこそ、普段より強く弦を締めていたからだ。
楽器というものはいつも、それを奏でる者の心境を反映してしまう。
「|弦の調律《アコダージュ》は済んでいて?」
大弦楽器を背後から抱くように構えたアンリに、先の審査員とは別の声が投げかけられた。その主は、うら若き乙女。天秤座地区総督の娘にして|王国交響楽団《オルケストレ》の一員、そしてアンリと同じ大弦楽器の音魔女である才気煥発な才媛、フィーネ・バロンス・ヴィクトールだ。
「調律……」
言われてアンリは息を呑んだ。念入りに音を取りながら調弦したものの、本番前に気合いをいれるために、弦を強く締め直してしまっていたことを思い出したのだ。凡ミスだ。
「……申し訳ありません。少し、お時間を戴いても?」
「貴女はお客様や国王陛下のお時間も戴くつもりなのかしら」
フィーネは眉ひとつ動かさず、極めて冷徹に言い放った。それが音魔女としてのプロ意識や矜持から出たものだとアンリには分かっていたが、これは本番ではなく、本番の舞台に立つ実力があるかをはかる試験の場だ。
だったら別に構わないじゃないか、とアンリは思う。とは言えそれをそのまま口にする訳にはいかない。
「では調律がズレたまま、聴くに耐えない演奏を最後までお聴かせしようと思いますが、そちらでよろしいので?」
皮肉には皮肉で対応する。それがアンリの悪い癖だった。
審査員の老紳士は悪戯な少年のように笑っていたが、挑発されたフィーネはそうはいかない。無表情だった眉間に皺が寄り、あからさまに怒っている。
「そうね、騒音は聴きたくないわ。下手な調律は、下手な演奏よりも醜悪なものだから」
観客席を立ったフィーネが、舞台に上がった。|大妖精《エルフ》特有の整った顔でアンリににらみを利かせてから、何を思ったのか大弦楽器の|糸巻《ペグ》を回して調律を始めた。
一番太い、低音弦が数度、劇場に響いた。音のわずかな上下を大妖精特有の長い耳で聞き分けて、第二弦、第三弦、第四弦と手早く調律していく。厳格でいて繊細なフィーネにしかできない調律法だ。同じ音魔女であるアンリも、この早さで正確に行うのは難しい。
「これでずっとマシになった。貴女が時間をかけて調律するよりはね」
「それはどうもご丁寧に」
嫌味ったらしく大弦楽器を押しつけられ、アンリは静かに目を瞑った。フィーネへのいらだちで、初舞台の緊張はどこかへ消え去っている。このまま気持ちを落ち着けて、演奏を行えばいい。
幸いにして、王国最高峰の《《調律師》》に調律を担当してもらったのだ。
「では改めて、ご披露を。曲目は『魔女達の飛翔』、第二楽章から第四楽章を」
アンリは瞼をこじ開けた。|弓《アルク》を構え、臨戦態勢に移る。
|演奏《たたかい》が始まった。
#0-1
レンブラント作曲、『魔女達の飛翔』。社会から迫害された魔女達が逃避し、己の理想を見つけだすことをテーマに作曲された交響楽は、|大弦楽器《コントルバッソ》の|独奏《ソロ》から始まる。
第二楽章の冒頭は、迫害された魔女の怒りを落雷に喩えた|強音《フォルテ》。雷雲の中で喉を鳴らす魔獣や龍を彷彿とさせる|高速重音《ダブルストップ》。獣が牙を噛み合わせ、歯ぎしりをするような|指擦り《グリサンド》に次ぐ|指擦り《グリサンド》に、|弓遣い《アシェット》を誤れば即座に演奏が途切れてしまう|音切《スタッカート》。
「なかなかのものですな、フィーネ嬢」
「ええ、そうね」
観客席の老紳士が呟いた。
アンリが演奏する『魔女達の飛翔』は、音魔女達の――ひいては大弦楽器を演奏する者の技術向上を目的とした練習曲として知られている。冒頭の超絶技巧に次ぐ超絶技巧は、完璧な演奏ができる前に奏者の寿命が尽きると言われるほどだ。長命な|大妖精《エルフ》や魔族ならまだしも、人間が命あるうちにこの曲を完奏したければ、|魔女《ソルシェラ》に身をやつす覚悟がなければ叶わない。
「少なくともアンリエット嬢は、芸術のために魔女になる覚悟がある者のようですが」
「それこそがこの楽曲、『魔女達の飛翔』です。魔女達の悲哀を表現できるものは同じ立場にある魔女だけ。それが、この練習曲に込められた真の意味であり、呪いでしょうね」
「呪いとはまた、上手いことを仰りますな」
小気味のよい冗談だと悟った老紳士は、フィーネの横顔に目をやった。彼女の顔は、一切笑っていなかった。
「私もこの曲の呪いに掛かっていますから」