第12章:野営地
レドラス軍がノールドの国境を越え攻め込んだのは、火の玉にやや遅れてのことだった。
砦の軍勢は低空をかすめる巨大な火の球の飛来に浮き足だち、レドラス軍の侵攻に組織的な対処ができなかった。たちまち砦は陥落しレドラス軍によって火をかけられた。
レドラス王ミゲルは恐怖で敵の抵抗を挫くため、敵兵や領民の虐殺を命じていた。異民族の数をできるだけ減らし空の火の球と地上の軍の恐ろしさで反抗の芽も摘んでしまう。火の球の直撃によるアルデガンの滅亡とレドラス軍の恐怖に挟み討ちされれば、砦と同様ノールドの王城リガンも陥落するとの狙いだった。
残酷な命令は実行された。砦を次々に落とし村々を略奪しつつ侵攻するレドラス軍の背後には、業火とどす黒い煙と死体の山が残された。女子供も容赦なかった。わずか一日でノールド領内の南部平野の大半が無慈悲な蹂躙に血塗られた。
次の日もレドラス軍は北上したが、日が落ちたのでミゲル王は焼き討ちにしたある村の外れに野営することにした。将軍は惨殺した村人たちの死体の始末を兵士たちに命じた。
村で見つけた荷車に村人の首や体を積み上げ手近な崖下に捨てようとした兵士たちは、茂みの前に一人の華奢な少女がいるのを見つけた。口元を押さえ俯いていたので顔こそ見えなかったが、淡い金髪と白い肌は夜目にも見てとれた。
「まだいたのか、へへっ、上玉じゃねえか」
兵士たちは荷車を放り出して少女を取り囲んだ。散乱した死体の山から子供の首が一つ、少女の足元まで転がった。
「つまらん仕事やらされてんだ。褒美ぐらい当然だよなぁ」
「書状は読んだわ。でも信じたくなかった、こんなこと……」
細くてきれいな声だった。それも涙声だった。だが、その声のなにかが襲いかかろうとした男たちの体を凍らせた。
「みんなはこの人たちを、地上の人間すべてを守るために戦っていた。たくさんの仲間が斃れた。私の父もそうして死んだわ」
頭の後ろで束ねられた金髪がざわり、と揺れた。
「洞窟から魔物たちを出してはいけない、ただその一心で封じていた。力弱い者は死に、心弱い者は狂いまでして。
なのにその洞窟をあなたたちはこじ開けた! アザリア様までそのせいで死んだ。それだけじゃないわ!」
怒気とも妖気ともつかぬものが細い体から目に見えんばかりの濃密さで吹き出した。
「魔物だって人を殺す。食べるため、生きるために。
でもあなたたちは殺したのよ、胸一つ痛めず! 生きるためでさえないのに! 人の身でありながらっ」
少女が顔を上げた。整った華奢な顔だった。しかし涙に濡れた瞳は真紅に燃え、いいつのる口元には細く尖った牙が光った。
「それでも人間なの? 魔物以下よっ!」
「き、吸血鬼だ!」兵士たちの悲鳴と同時に茂みから異形の影がいくつも躍り出た。男たちはたちまちあぎとに捉えらればりばりと噛み砕かれた。その間にも魔獣や亜人たちが闇の中から続々と姿を現わした。
「分散してはだめ。互いに無駄な犠牲が増えるわ。固まって突破して!」
少女の思念に応え、魔物たちは吠えた。
「なんだ? 騒々しい」
天幕で休んでいたミゲル王は将軍たちに尋ねた。そのとき一人の兵士が転がり込んできた。
「ま、魔物の大群です」「なんだと!」
天幕から飛び出した王と将軍たちは、目の前の光景に立ち竦んだ。
広場には魔物たちがあふれていた。人間に似た亜人や巨人から悪夢のような魔獣まで、ありとあらゆる姿形の魔物たちが恐慌に陥った軍勢を蹴散らしていた。手向かう者は容赦なく食い殺されたが、魔物と出会うことなど想像もしていなかったレドラス軍はもろくも総崩れとなり壊走し始めていた。
「者ども! 逃げるな! 王命だぞ!」
ミゲル王は叫んだ。その声に応えがあった。
「あなたなのね。虐殺を命じた邪悪な王は!」
魔物の群からほっそりした少女が歩み出た。子供の面影さえ残したその顔の真紅の瞳と細い牙がかがり火の光に映えた。
「これほどの残虐非道、絶対許せないっ!」
「吸血鬼だ! 斬れ、斬れえっ!」
ミゲル王の声に将軍の一人が大剣を構え、腰だめに突進した。大剣は少女の薄い胸から背中まで貫いた。
だが少女が細い腕を無造作に振り抜くと、将軍の体は宙を舞い仲間たちに激突した。
突き抜けた剣をそのままに少女は王に向かって歩みを進めた。ミゲル王は恐怖のあまり腰を抜かし、それでも後じさりしながらわめいた。
「いやだ、死にたくないっ! 来るなぁ!」
すると少女の顔に動揺が走った。目の赤光が薄れ、一瞬青みをおびた。
歩みが止まり、伸びた牙が折れそうなほど食い縛られた。
だが一瞬の逡巡ののち、彼女は王にむしゃぶりつき、細い牙が吸い込まれるようにその喉を穿った。背中まで突き抜けた剣さえ抜かずに王の首を貪る少女、その姿の恐ろしさに将軍たちも兵も逃げ去った。
とうとう本当に堕ちてしまった……。
渇きの狂気から我に返ったリアをまっさきに捉えたのは、その思いだった。
足元には血を吸い尽くされた男の骸が転がっていた。
邪悪な王。アルデガンの瓦解の元凶であり軍勢を駆って隣国の民を虐殺した憎むべき王。確かにこの男はそうだった。
だから自分は、この男なら殺してもいいと思った。いや、そう思い込もうとしていた。
この男なら殺しても、後ろめたさも胸の痛みもなにも感じずにすむのではないか。心のどこかで、確かに自分はそう期待していた。
だが自分が襲いかかろうとしたあの瞬間、彼の叫びがかつての魔獣の断末魔と同じくこの心に感応した。そこにいたのは吸血鬼を、迫る死を前にただ脅える一人の人間だった。憎むべき邪悪な侵略者との外面が剥げ落ちてみれば、魔物の餌食になるばかりの哀れな男がいただけだった。
それなのに……。
私は堕ちてしまった。ほんの二ヶ月前、魔物の悲鳴に魂を感じ戦うこともできなかった私は、哀れな人間の魂を感じていながらその血を貪る化物になり果ててしまった。
リアは胸を貫いたままだった大剣を引き抜いた。傷はたちまち塞がった。
男の骸を焼くために炎の呪文を唱えた。予想もしなかった激しい炎が爆発し瞬時に骸を焼き尽くした。もともと高かった魔力が転化したため桁違いに強まっていたのだ。リアは慄然とした。
”私は最悪の魔物なのよ。この中で本当に人間しか糧にできないのは、私だけ……”
アラードとの別れ際に自分でいった言葉だ。だがあのとき私はその意味をまだわかっていなかったとの思いに圧倒された。
私は人を殺す。生きるためでさえない。
死ぬことができないのだから……。
ただ狂気をもたらす渇きに耐えられないだけ。
正義をかたる資格なんて、ない……。
リアは魂の軋みにあえいだ。
「アラード。どうなるの、私……」
いつかは心が冷えきって、何も感じなくなるのか。渇きを癒すだけのために冷淡に人を殺せるようになるのか。
それとも魂が軋みに耐えきれず歪んでいくのか。己を、運命を否定するあまり、すべてを呪うしかなくなるのか。あの痛ましいラルダのように。
あるいはこの恐るべき力に内なる邪悪さが引き出されるのか。ラルダやアルマをなぶったあまりにも嗜虐的な吸血鬼がおそらくそうだったように。
厭わしかった、呪わしかった、おぞましかった。
だが、この軋みが、苦しみがいつまでも続くとしたら……。
耐え難い恐ろしさだった。
”苦しみから解放されるには、やはり誰かの手で解呪されるしかない”
ゴルツの末期の言葉がよみがえった。
”せめて、その日がすみやかに来ることを祈らせたまえ……”
アラードはいつ来てくれるの?
解呪の技を修めることができるの? できなかったら?
私のことなど忘れてしまったら?
……死んでしまったら……?
足下にぽっかり虚空が口を開けたのをリアは感じた。深淵から冷たい虚ろな風が吹き上げた。
人間の魂など永遠というものに耐えられはせぬ。深淵からの、虚ろな風がそう告げた。
「アラード! 助けて、早く! 誰か……っ」
天を仰いでリアは叫んだ。だが、その悲痛な叫びは酷薄な風に吹き散らされた。
はるか背後の北の大地は荒野を焼く炎に赤く、魔物たちの群がめざす南の大地はいまだ暗黒に閉ざされている。では炎がいずれ燃え尽きたなら、全てはもはや暗黒に呑まれるだけなのか。
リアはひとり天地の狭間に立ちつくし、ただ深淵と虚ろな風に心おののかせるばかりだった。