第10章:執務室
アルデガンに戻ったゴルツは指導者たちを招集し、アルデガンを襲った吸血鬼が滅んだこと、だが転化を遂げてしまったリアが洞窟の奥へと姿を消したことを報告した。アラードも集会に同席していたが、特に発言を求められることはなかった。
「まだあれの犠牲者はおらぬ。こちらから居場所を探知することもできぬ。いまは捨て置くよりすべはない。
だが、いずれ渇きにかられ戻ってくるはず。そのときはなんとしても水際で滅ぼさねばならぬ。侵入を許せばアルデガンは破滅じゃ!」
ゴルツは吸血鬼の脅威が消えていないことに重点を置いて報告し、アルデガンに侵入した吸血鬼の正体やリアの転化のいきさつについては巧みに説明を避けていた。そのため指導者たちからもそれらに対する質問は出なかった。
アラードは内心ほっとして指導者たちの顔を見渡した。すると一つの視線が自分に向けられているのに気づいた。
ゴルツを補佐する司教グロスだった。彼は話を続けるゴルツにときおり目を向けながらも、アラードに探るような視線を投げかけていた。
グロス! 突然アラードは気づいた。二十年前ラルダが襲われたときに一人逃げかえった魔術士は彼だったのでは?
集会が散会するとアラードの予想どおり、グロスは彼に自分の執務室へくるよう小声で命じた。
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グロスの執務室はゴルツの部屋と同じ階にある、飾りけのないきちんと整頓された部屋だった。頑丈な扉を閉めると部屋の中は仕事に集中するのにふさわしい静寂に包まれた。
グロスは自分の椅子に腰をかけるとアラードにも向いの椅子に座るよう告げた。
アラードはグロスと間近に向き合うのは初めてだった。短躯で小太りのグロスはそろそろ髪に白いものが混じり始めていた。実直な実務家肌の人物との評判で、呪文はかなり身につけているといわれていたが、ゴルツが持つような高位の術者に特有の威圧をアラードはなぜかグロスに感じなかった。
「アラード、洞窟での出来事を閣下は伏せておられるであろう。そなた、口止めされておるのか?」
「口止めされているわけではありませんが……。でも、なぜ私に尋ねるのです? あなたなら閣下に直接尋ねることもできるはずでは?」
グロスは答えなかった。だが、その表情に走った微かな動揺をアラードは見逃さなかった。
「閣下に遠慮なさっているのですか? 心当たりがおありなのでは?」
「尋ねているのは私だ。そなたは答えてくれればよい!」
グロスが声を荒げた。
「アルデガンを襲った吸血鬼は何者だったのだ?」
アラードはグロスの目をまっすぐ見つめた。
「お聞きになる覚悟はおありですか?」
「長身の……髭のある、恐ろしい男か?」
グロスの声がかすれた。
「たしかにそいつも洞窟にいました。顔は焼けただれていて定かではありませんでしたが」
アラードは答えながら、相手の恐れている答えがそれではないことに気づいていた。
「でも、アルデガンに侵入したのはそいつではありません」
「では、まさか……」
あえぐグロスに、アラードは告げた。
「ラルダと名乗る女でした。閣下の娘だといっていました」
「ああ、ラルダ……。では、やはり閣下は愛娘を手にかけられたのか!」
グロスは呻いた。
「だがなぜだ。あれから二十年もたつのに……」
アラードは火口でのできごとをグロスに語り始めた。
「私が……、私が逃げ出したばかりに、あのラルダが……」
話が終わると、グロスは両手で顔を覆った。
「私がラルダを、閣下をも、それほどまでに苦しめてしまったというのか……っ」
「あなたが逃げなかったとしても、あんな吸血鬼が相手では同じだったのではないですか?」
あまりのグロスの悲嘆ぶりに、アラードはそう声をかけた。
「閣下もそうおっしゃった。行く手をふさがれてしまったのでは同じだったろうと。ローラムたちが突破して逃げのびようとしたところで、結果はなに一つ変わらなかっただろうと。
無様に逃げ帰った私に、閣下はそなただけでも戻れてよかったとまでおっしゃってくださった! 内心どれほど無念であられたろうに……」
グロスは涙を流していた。
「あのとき私は、これからただ閣下のために尽くそうと思った。身も心も捧げようと……。だからこそ司教としての長い修行も始めたのだ。
だが間に合わなかった。私が解呪の技さえ身につけておれば、閣下が自らラルダを滅するなどということには……」
「なぜ私はかくも無力なのだ!」
アラードはグロスになんと言えばいいのかわからなかった。
「洞窟から戻られた閣下のご様子は変だった。閣下がただ吸血鬼を滅ぼされただけなら御心がゆらぐようなことはないはず。だが長くお側に仕えた私には、どこかが違って感じられた。まさか、と思った。だが閣下にお訊きすることなどできぬ。だからそなたに尋ねたのだ。だが、ここまで無残なことであったとは……」
グロスは顔を上げてアラードを見た。
「閣下の御心は危うい。おそらく禁呪の呪いも影を落としているはず」
「禁呪の呪い……? どういうことですか?」
「そうか、そなたは戦士だったな。知らぬのも無理はない」
自分をなんとか落ち着かせようとしながらグロスが応えた。
「解呪の技はもともと異教徒の呪殺の邪法をもとに作られたものなのだ」
「異教徒の、呪殺の邪法……」
なんとも禍々しい言い方に、思わずアラードは繰り返した。
そんなアラードに、グロスは解呪の技の由来について語り始めた。
はるかな昔から、破邪の神格ラーダに仕える僧侶たちは魔物を討つ方法を探求してきた。とりわけ吸血鬼を滅する方法の探求は困難を極めた。そしてある時、ついに一つの方法が遠い異郷から持ち帰られた。
だがそれは恐ろしい方法だった。そもそも吸血鬼を滅ぼすため編み出されたものでさえなかった。
相手の存在を否定する意思の力で肉体はおろか魂の水準においてさえ相手がこの世に存在することを禁じるという、あまりにも邪悪な呪殺の技だったのだ。一族を皆殺しにされ自らも目をくりぬかれた一人の男が、仇敵を憎むあまりその後の生涯を費やして魔道を追及した果てに編み出したのが由来だったという。
そもそも自らの教義とまったく相容れぬ邪悪な呪殺の技。しかしそれが肉体よりむしろ魂の水準において相手の存在を禁じるという原理をもつゆえに、いわば不滅の魂に肉体が呪縛された存在たる吸血鬼にこれほど有効な方法は他に見つからなかった。
そこでラーダ教団は、長い年月をかけてこの邪法を自らの教義と目的に即したものに作り変えた。対象を吸血鬼に限定し、教義に反する術式の中には宗教的な禁忌を組み込んで歯止めをかけて禁忌を侵さない場合しか術が先に進めぬようにした上で、浄化と鎮魂の祈りを織り込んだのだ。
こうして完成された解呪の技は、ラーダの教えを修めた高僧にしか扱えず、術を唱える者の心を試しながら先に進む極めて困難な術式となった……。
「思えば元々は相手を痕跡も残さず滅殺する邪法に浄化と鎮魂の祈りを織り込んだのが矛盾というほかない行為だった。そのためこの技は術者に極端に正しい心と意志力を求めるものになったのだ。それゆえ解呪の技は、単に術式を身につけたからといって扱えるとは限らぬものになった。私も術式を修得できてはいても、いまだに発動させることができずにおるのだ」
グロスの口調に苦いものが混じった。
「相手の存在を魂にいたるまで抹消しようというのに浄化と鎮魂を捧げる。これは吸血鬼としてのあり方は禁じるがもともと人間として生まれた魂は救済したいということにほかならぬ。だが、おおもとの術式はその魂を破壊しようというものであり、それが吸血鬼の不滅の肉体の呪縛を破る原理であるのだから無理があるとしかいえぬ。髪一筋でも心が逸れれば発動できず、おおもとの邪法に比べれば大きくその威力を削がれた術式。これが解呪の技の実態なのだ」
アラードの脳裏に、ゴルツが焼け爛れた吸血鬼を滅殺したあの凄まじい光景がよみがえった。
「では、閣下がラルダの仇を滅ぼした、あの技はまさか!」
「そなたの話を聞く限り、正しい解呪の技の発動ではない」
沈痛な面持ちでグロスが応じた。
「閣下はとうていきゃつの魂の救済などというお気持ちにはなれなかったはず。それでは普通なら解呪の技は発動せぬ。だが閣下の憤怒の念があまりにも強かったばかりに、本来の邪法としての形で発動してしまったものと私は見る。さもなくばそなたのいうような状況下で、そのような威力で吸血鬼を滅ぼしうることなどありえぬ!」
「では、さきほどおっしゃった禁呪の呪いというのは……」
アラードの言葉にグロスは首肯した。
「幾重にも術式の中に織り込まれた宗教的な禁忌を、神に仕える身で侵したのだ。術者の心はただではすまぬ。愛娘を我が手で滅ぼした上にそのような痛打を心に受けて、見かけだけでも平静を保っておられること自体が奇跡のようなものだ。このうえ閣下が解呪の技を使われれば、もはや何が起こるかわからぬ!」
「だがいずれリアは戻ってくる。転化した身でいつまでも渇きにかられずにいるはずが……」
いいかけたグロスの言葉がとぎれた。
「……まて。犠牲者がまだいないというなら、リアはなぜ転化を遂げた? アラード!」
グロスは目を見開き、アラードに詰め寄った。
「そなた何か隠しておろう!」
今度はアラードが動揺する番だった。
「……リアは、私を庇って瀕死の傷を負いました」
アラードは言葉を詰まらせながらいった。
「耐えられませんでした、リアが失われるなんて。私のせいなのに……。
それで、私の傷からしたたる血を……」
「そなた、なんという!」
いいつのろうとしたグロスの言葉は、再びとぎれた。
「……今ここでそなたを責めてなんになる。いや、そもそも私に責める資格があろうか。ラルダを見捨てて逃げ、閣下をここまで苦しめた私に……」
グロスは暗澹たる面持ちでつぶやいた。
「閣下にとって、リアはラルダやきゃつのような縁の深き者ではない。ラルダのような凄まじい力も持ってはおるまい。解呪するには組し易い相手のはず。それだけがせめてもの救いか……」
もはや言葉もなく向き合う二人の姿を、深まる宵闇がしだいに閉ざしていった。