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第九十二話 溢れ出す感情

 焔の纏っていた空気が一瞬で変わった。そのことにいち早く気付いたのは当然対戦者の名無しであった。名無しは一度の攻撃でその異様さに気づいたのか、もう一度距離を取り、無表情で焔のことを凝視する。そして、焔もまた深追いすることなく、構え直すと、無表情で名無しの顔を見返す。

 更に、その焔の異変に気付いたのは名無しだけではなかった。近くで今まで戦闘を見てきたのはもう1人いた。

(何だ! 明らかに顔つきが変わった! この凍り付くような冷たい目つき……これは! さっきシンが説明していた……!)

 総督は先ほどまでのシンたちの会話を通信機で聞いていた。だから、焔の変化にはすぐに気づくことが出来た。

「これが……終焔モード……」

 総督が苦笑いを浮かべながら、ポツリとこぼした言葉に、上から見ている猫目の男も当然気付いていた。

「シンさん……」

「ああ、入ったね。流石は俺の弟子、タイミングバッチリじゃないか」

 AIとシンも焔が終焔モードに入ったことは見て、すぐにわかった。

「シン……もしかして」

 ハクはそう言いながら、胸ほどまでの高さの柵まで近づくと、手を置く。

「ああ、あれこそが終焔モードに入った焔だ。いやー、皆ラッキーだね。俺たちなんて2年一緒にいて3度しかお目にかかったことが無いのに、たったの数日でこの状態の焔に会えるなんて」

「なるほどな。確かに、目つきが変わった」

 レオもその変化にはすぐに気づいた。それほどに焔の様子は明らかに変わっていた。そして、茜音たちにもその変化は容易に見て取れた。

「コーネリアちゃん……」

 茜音が神妙な面持ちでコーネリアに話を持ち掛ける。コーネリアは焔から目を離すことなく、頷く。

「ええ、焔の様子が変わった」

「本当か!?」

「焔、どこか変ネ!?」

 試合に熱中していたサイモン、リンリンの2人はその変化に気づかなかったのか、驚いた様子でコーネリアの言葉に食いつく。

「変ではないわ。変わったのは、焔の雰囲気のことね。さっきまで辛い表情をしてたのに、今はあの子と同じように無表情になってる。それに……何かすごみを感じる」

 言葉が詰まるコーネリア。うまく言葉にはできないが、確かに今の焔には形容しがたい何かがあった。

 そんなとき、リンダは思い出したようにマナに話を振る。

「マナー、そういや焔のオーラってなんか変化とかしてないの?」

 今でも焔たちの試合を身を乗り出してみていたマナは首を横に振る。

「変化してないよ。もし、この試合中に成長しているなら変化するけど、焔が元々持っていた力ならオーラに変化はでないよ」

「あー、そっかそっか……てことは、別にあのモードになったところで実力ではあの名無しって子には勝てないってことかー。シン、やっぱダメなんじゃない?」

 そんなリンダの言葉にシンはニヤッとすると、

「うーん……ま、実力云々は一旦置いておいて、おそらくわかると思うよ。青蓮寺焔という男が一体どんなやつなのかって」

 自分が育てた弟子だからと色眼鏡で見ているわけではなく、ただ単純に青蓮寺焔という男のことを知っているからこそ、言える言葉だった。

 その言葉を最後に皆から会話がなくなった。そして、その視線は全て焔へと注がれていた。

(さあ、お披露目の時間だ。見せてやれ。青蓮寺焔の本当の真価を!)

 しばらくの間、沈黙が続く。焔、名無しは互いに表情変えることなく、睨みあう。そして、またその均衡を破ったのは名無しからだった。一気に間合いを詰めると、再びフェイントから入る。焔はそのフェイントにまんまと乗ってしまう。だが、きっちりと次の攻撃も防ぐ。


 キンキンキン!!


 絶え間なく響く金属音、再び激しい攻防戦が繰り広げられた。だが、その光景は先ほどまで見ていたものと何ら変わりはなかった。変わったのは、焔の表情だけだった。終焔モードと言った割には、何にも変化がないことに教官たちは顔をしかめ、少し拍子抜けする。茜音たちも何かを期待していたのか、少し落胆すると、何も変わらなかったことで、更に心配を募らせた。

 だが、シンだけはその姿を見ると、ニヤッと笑い、リンダの手を振りほどくと大きく伸びをし、深く腰を下ろした。


―――キンキン……キン


 未だに試合会場からは金属音が響いている。だが、観客席一帯は先ほどまで向けていた視線とはまた違う、熱い視線を焔に送っていた。

「おいおい」

「これは……」

「わーお」

 レオ、ハク、リンダはたまらず声を出す。他の皆も声は出していないが、苦笑いをしていたり、信じられないと言う面持ちをしていたりするものがほとんどだった。

 サイモン、リンリンももうすでに焔のことは応援していなかった。ただその場に突っ立って、今起こっている初めて見るような現象にただただ見入っていた。もちろん、茜音、コーネリアも戦況を見極めたり、分析したりするようなことは頭からすっぽり抜け出ていた。

 少しのざわつき、沈黙……この両方が観客席では繰り広げられていた。そんな中、1人の女性の声がその場を支配する。

「俺の弟子はそんな大層なものは持っていないが、おそらく誰にも負けない」

 その声は教官たちの後ろから聞こえてきた。急に大きな声が聞こえたものだから、思わずその場にいた者たちは皆振り返る。すると、そこには観客席に腰を据えているシン、そしてその横には総督の姿があった。

「あの時、お前が言った言葉だが……なるほど、そういうことだったか」

 総督はシンが焔との最後の特訓の日に言った言葉を思い起こし、終焔モードになった焔を見てその言葉の意味に納得を示していた。シンはその言葉を聞くと、ニヤッと笑い、おもむろに席を立ち、前へ進む。

「そう、あれが焔が見つけ出した答え。特訓の末にたどり着いた到達点。焔は別にカッコいい必殺技が欲しかったわけではない。一撃で誰でも倒せるほどの力を欲したわけでもない。ただ大切な友達を守る力が欲しかった。レッドアイ戦では果たせなかった屈辱を焔は2年をかけようやく形にすることができた……耐える! ただひたすらに敵の攻撃を一身に引き受け、そのことごとくを防ぎ続ける。その実力や戦闘技術は同い年の彼らに届かないかもしれない。もちろん、マサさんなんかには決して届きはしない。これからも届くことはないだろう。だが……これだけは断言できる! 青蓮寺焔は俺が戦ってきた中で、1番戦厄介な相手だったと!」

 いつもよりも強い口調で放たれた言葉、その言葉に感化されたのか、レオは不気味な笑みを浮かべながら、骨をボキボキ鳴らし始め、ハクは顔には出していなかったが、左腰に帯刀している刀の柄を持つと、小刻みに柄頭を人差し指でトントンと叩き始めた。つまりはうずうずし出したのだ。2人の男はシンの煽るような口調にまんまと乗せられ、奮い立っていた。

「そういやさー、シャーロットって下にいなくていいの? というか、いつからいたの?」

 リンダは思い出したかのように総督に尋ねる。総督は苦笑いを示しながら、

「はあ、もう年だろうな。ずーっと立っていると疲れるんだよ。なんさ、もう戦闘を開始してから3時間は経とうとしているんだ。座りたくもなる」

「あー、それは仕方ないねー」

 そう、焔たちの戦闘はもうすでに2時間を超え、3時間目に突流しようとしているのだ。その間、焔は名無しから繰り広げられる全ての攻撃をさばき続けていた。

 これが終焔モードになった焔の力。決して、身体能力がバカ上がりするわけでもない。会心の一撃を放てるわけでも、必殺技が発動するわけでもない。できることは相手の一切の攻撃を止めるだけ。たとえそれが相手の一番の技だろうが。どんなに強い一撃でも。どんなに速い斬撃でも。そのことごとくを止め、仲間を守る。それが焔が欲しかった力。そして、この力は格上相手ほどその真価を発揮する。


 キン……キン……カーン!!


 今まで焔は名無しにインターバルを置かせなかった。もし、距離を取ったとしてもすぐに追い、再び攻防戦へと持ち込んでいた。名無しも攻撃速度を緩め、体力の温存に回すこともできた。だが、少しでもその手を緩めると、焔の強烈な反撃が待っていた。だから、その攻撃の手を緩めることはできなかった。

 そして、そのことが功を奏したのか、ついに名無しの顔から虚無の仮面が剥がれ落ちた。

「……くッ!!」

 その顔は何とも苦しそうな表情をしていた。まさに見事な形勢逆転だった。だが、そんなことよりもやはり皆が驚いたのは、名無しの顔から初めて感情を覗き見ることが出来たことだった。皆が驚きをあらわにしている中、シンだけは笑っていた。

(やっぱり感情は失ってなかった。名無し、2代目ジャックの元では、こんな感情味わえなかっただろ。自分より実力が劣る相手に全く歯が立たない。どんなに手を尽くそうが、今まで詰め込まれた技術をどんなに駆使しても敵わない。ただただ疲労が募り、神経だけがすり減っていく。そして、俺からの命令を果たせないかもしれないと言う焦りが頭の中で渦を巻き始めてきたはずだ。徐々にメッキが剥がれ落ちてきた! 焔! このチャンスを見逃すなよ!)

 その思いが届いたのか、焔は初めて感情を表に出した名無しを見逃しはしなかった。思わず後退する名無し。焔は間髪入れずに前進する。今度は焔が攻めに転じ、徐々に名無しを追い詰めていく。その間、名無しからは苦しい声が漏れ聞こえる。そして、


 カーン!!


 焔の強烈な一撃が名無しの短剣を弾き飛ばした。動揺する名無しをよそに焔はすぐに剣を振る。名無しもそれに何とか対応し、防御へと回った……だが、


 カーン!!


 まんまと名無しは乗せられた。焔の目的は体に致命傷を負わせることではなく、武器を弾くことだった。強い衝撃を受けた短剣はそのまま遠くへと飛んでいった。これで、名無しは丸腰となった。

 名無しは必死に打開策を頭の中で構築する。もちろん、武器なしでも戦えることはできた。だが……もうそんな余裕は名無しにあるわけもなかった。


『この第三試験、絶対に負けちゃいけないよ』


 そんな時、名無しはシンから言われた言葉を思い出した。


『負ける』


 そう悟った瞬間、シンの言葉とともに今まで命令を守ることが出来なかった時、2代目ジャックから過去に受けた仕打ちの数々が脳裏に鮮明に浮かび上がってきた。

 何とかしなくちゃいけない。だが、どうあがいたところで現状を打破することはできない。そんな歯がゆい感情に、今まで空っぽだった名無しの頭の中に、急に色んな言葉や記憶が飛び交い、一種の錯乱状態に陥る。

 だが、時は刻一刻と迫っていた。なぜか景色はゆっくりと見えた。だからこそ鮮明にわかった。後退する名無しに焔は強く足を踏み込み、前進する。そして、剣を振りかぶる。

 その瞬間、あまりの恐怖に名無しは目を閉じた。負けると言う現実に少しでも抗いたかったのだろう。

「いっけー!! レンジ―!!」

「これで最後ネ!!」

 皆がその一撃に固唾をのんだ。だが……


 カラン……バサ


 焔は剣を捨てた。そして、あろうことか名無しに抱きついたのだ。皆はその突然の行動に頭が追いついてこなかった。だが、そのことに一番動揺をあらわにしていたのは名無しだった。最初はその行動に固まってしまったが、すぐにもがき、暴れ出す。名無しは必死に抵抗し、何とか拘束を解こうとする。

 それはなぜか……もちろんシンからの命令があったからだ。まだ勝負は終わっていない。勝てる見込みがあるかもしれない。

 だが、早くその拘束を解きたいと思った一番のわけは……怖かったからだ。その強くもとても優しい抱擁がとても怖かった。自身の中で固く閉ざしていた何かが飛び出してきそうな、初めての経験なのに、その温もりが……その優しさが……とても懐かしく感じて仕方がなかった。

 少女はもがく。殴り、蹴り、引っ掻き、とにかくもがいた。だが、少年は決してその手を離しはしなかった。そして、少年は少女の耳元まで顔を近づけると、一言だけ呟いた。

「よく……頑張ったな」

「……ッ!!」

 心から出た言葉だった。ずっと考えていた。この少女に自分は何ができるだろうか、何が言えるだろうか。だが、自分が言える言葉これしか見つからなかったのだ。だが、その言葉を聞いた瞬間、少女の世界には一瞬で色が付いた。



―――「ただいまー!!」

 玄関のドアが開く音とともに元気な笑顔をした少女が家へと帰ってきた。

「ルーシー、おかえりなさい」

 キッチンからお母さんの声が聞こえる。

「お母さん! ただいま! あのね、今日ね」

 そう言いかけ、キッチンへと向かう少女はリビングに誰かがいるのを見つける。その姿を見ると、何とも嬉しそうな笑みを浮かべる。

「お父さん!!」

 お父さんはソファに座りながら、テレビを見ていた。

「おお! ルーシーお帰り」

「何で家にいるの!? お仕事は!?」

「ん? そんなの早くルーシーに会いたかったから、すぐに片づけてきたよ」

 その言葉を聞いた少女はまたまた嬉しそうな笑みを浮かべ、お父さんの元へと走って行く。お父さんもソファから立ち上がり、腰を屈め両手を広げる。

「お父さん!!」

「ドワッ!! ハハハ、良いタックルだぞ、ルーシー」

 そう言うと、お父さんはその大きな体で少女を優しく包み込んだ。

「あのね、お父さん! 今日ね、テスト返してもらったんだけど、ルーシー100点だったんだよ!」

「お! えらいぞルーシー! ()()()()()()()

「うん!」


―――焔が一言呟いた瞬間、さっきまで暴れていたことが嘘のように少女はおとなしくなった。

「……う……うっ……」

 静寂の中、少女から何やら聞き取ることが出来ないほど小さな声が漏れだす。そして、

「うわあああああ!! わぁあああ!!」

 少女は今まで張り詰めていた糸が切れたかのように泣き叫ぶ。今まで押しつぶしてきた不安、悲しみ、怒り、憎しみなどの感情を全て出し切るかのように。その姿に皆は言葉を失う。今まで何の感情も出さなかった少女がこんなに感情をあらわにしている姿に。ただ呆然と立ち尽くしていた。

 ただ、これだけはわかった。この涙は……この叫びは止めてはいけないと。

 少女は次第に焔の体へと手を伸ばし、強く抱き寄せる。そして、その存在を確かめるかのように何度も焔の背中を手で手繰り寄せる。焔は呼応するようにもっと強く抱き寄せる。すると、もっと涙が溢れ、今まで殺してきた感情がとめどなくあふれ出した。

「ヒーロー……か……フッ」

 総督はそう言い、不敵に笑うと席から勢い良く立ち上がる。その隣には今まで強がっていた感情をため息とともに吐き出す頼りない師の姿が見て取れた。

「第三試験! 最終試合! 勝者! 青蓮寺焔!!」

 総督の声が一度だけ少女の泣き声を上回る。その言葉を聞いた瞬間、試合会場でも同じようなため息を漏らす者が1人いた。

 だが、そのことに気づくものは誰一人としていないのだった。



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