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32話 ネリネ

 カーテンの隙間から差し込む光に夢の底から掬い上げられる。まだぼやける視界の先には見慣れた天井の、三つのシミ。あのシミがわたしを笑うことはもうない。黒崎流奈は起き上がって軽く伸びをすると、カーテンを開けた。シャッと小気味いい音と共に目の前には青空が広がる。寝起きの瞳には眩しすぎるくらいで、少しだけ目の奥が痛くなるけれど、嫌な感じはしない。窓を開けると暖かい風が頬を撫でた。

 今日は卒業式だ。微睡んだままの頭に、そのことが染み渡っていく。ベッドから降りてもう一度伸びをすると、さっきよりも頭がすっきりするような感じがした。

 トーストにバターを乗せて目玉焼きを焼く。一人暮らしを始めてから量は少ないが、朝ごはんをきちんと食べるようになった。流奈は最近、自分は意外と料理が好きなのだ、ということに気が付いた。手に入れたスマートフォンで少し凝ったレシピを調べて作り、テレビを見ながらゆっくりと味わう。そんな楽しみ方にハマっている。今度はお菓子も作ってみようかな、なんてことまで考えていた。

 部屋に戻ってハンガーにかけられた、三年間袖を通した制服にそっと触れる。文字通り三年間。夏でも冬でも、ずっと着ていた制服だ。卒業式の日はどうしても綺麗な状態で着たかったので家庭学習期間に入ってすぐにクリーニングに出した。パリッと綺麗に洗い上げられた制服に袖を通す。スカートのファスナーを閉め、胸当てのボタンを留める。紫色のスカーフに手を伸ばした時、少しだけ視界が潤んだ。この制服を着るのもこれで最後。流奈は一度ぎゅっと目を瞑り、開ける。思いを込めるようにするりと掴んだスカーフを強く結んだ。

 まだ新品の色が残るローファーに足を差し込む。この靴は事件後に買ったものだ。それからすぐに冬休みになったり、家庭学習期間になったため、まだほとんど履いていない。外に出ると、先ほど頬を撫でた風が流奈の全身を包み込む。暖かくて心地良い。優しく背中を押してくれるような、そんな春風。

 三年間通った道を一歩一歩、新しい靴で歩く。一歩一歩、近づく学び舎。「卒業式」の看板が建てられた校舎を囲むように満開の桜が咲き誇っている。かわいいと評判の制服に身を包んだ卒業生たちが軽やかな笑い声を上げて、次々と校舎に吸い込まれていく。

 同級生たちに紛れて歩いていた流奈はふと、つま先に桜の花弁が付いていることに気が付いた。邪魔にならないように端に寄って、しゃがみこむ。つまみ上げた花弁はまだきれいなピンク色だった。口を少しすぼめてふぅっと吹くと、風に乗って遠く彼方へ飛んで行った。

「流奈。何してるの?」

 青空に飛んで行った花弁の行く末を見守っていた流奈は、聞きなれた声のする方を振り返る。

「明日香。ううん、なんでもないよ。おはよう」

 立ち上がり、少し下がったハイソックスをくっと両手で上げて明日香と共に教室へ向かう。希美と満里奈はすでに登校してきていた。

「二人ともおはよー」
「おはよ!」

 二人は窓際のいつもよくいるあたりで話をしていた。

「おはよう」

 明日香が先に教室に入り、希美と満里奈のもとへ歩く。自分だけではなく、友達の制服姿を見ることも今日で最後なのだと、秋の夜風のような寂しさが襲ってきた。この教室でこの制服を着て、共に過ごす時間は今日で終わってしまうのだ。

「どうしたの?」

 声をかけられてはっとする。流奈の目の前には心配そうに顔を覗き込んだ希美が立っていた。

「あ、ううん。なんでもないよ」
「なになに、卒業式で返事するの緊張してるの?」

 話しながら満里奈もやってきて、明日香も後ろからついて来る。気が付けば四人で入り口のあたりを占領してしまっていた。

「おーい、ホームルーム始めるから席につけー」

 大丈夫、流奈がそう言おうとしたとき廊下から担任の声が聞こえてきて、それと同時にチャイムが鳴った。いつもは間延びした間抜けな音だと思っていたチャイムも、あと一、二回しか聞けない。そう考えるとなんだかかわいらしい音のような気がした。

 紅白幕がかけられた華やかな体育館にはたくさんの保護者が我が子の入場を心待ちにしている。吹奏楽部の演奏と共に体育館の扉が開いた。大きな拍手に包まれ、揃いのコサージュを付けた卒業生たちが堂々と胸を張って歩いていく。

 全員が着席し、式は淡々と進んでいく。卒業証書授与。その言葉をきっかけに各クラスの担任が一人一人の名前を読み上げ始めた。次々と名前を呼ばれた生徒たちが返事をし、立ち上がっていく。明日香の名前が呼ばれたら次はわたし。嫌だな。名前を呼ばれたら、返事をしてしまったら、やっと始まった高校生活が終わってしまう。燻っている寂しさが流奈の胸を締め付けていく。

「――久保明日香」
「はい」

 流奈の前に座っている明日香が立ち上がる。なんだかふっと心が軽くなった。ぴんと背筋を伸ばした明日香のまっすぐな背中はこれが終わりではなく、始まりを示してくれているような気がしたからだ。

「――黒崎流奈」
「――はい」

 返事と共に席から立ち上がる。明日香の背中の向こう側に、広い景色が見えた。わたしに声をかけてくれて、ありがとう。


「――辰野満里奈」
「はい!」

 満里奈の声が一番響いてるよ。大学でも陸上、がんばってね。また練習見に行かせてね。

「――松坂希美」
「はい」

 液タブ? だっけ、それで書いた絵も見せてね。またわたしのこと書いてくれたら嬉しい。

「――以上を持ちまして閉式とさせていただきます」


 *


「ほらほら撮るよ! 寄って寄って!」

「卒業式」の看板の前で満里奈がスマートフォンを持った手を限界まで伸ばしながら三人に声をかける。

「撮ってあげようか?」

 満里奈の母が声をかけるも大丈夫―、と軽い返事をした。カシャリと音がして、四人の姿が画面の中に収まる。

「卒業おめでとう」
「あ、お母さん!」

 スーツ姿の容子がスマートフォンを片手に穏やかな笑みを浮かべている。

「ほら、お母さんのスマホでも撮らせて。四人並んで」

 再び四人で看板の前に並び、写真の中に収まった。看板の前を他の生徒に譲って桜の木の下に移動すると、少し高めのかわいらしい声が風に乗って聞こえてきた。

「おねえちゃん! そつぎょうおめでとう!」

 ぼふっと音がする勢いで小さな女の子が希美に突進する。妹の|奏美《かなみ》だ。普段の格好よりもおしゃれをして、襟付きのブラウスを着ている。奏美の後ろには双子の弟たちや両親もいた。

「ありがとう奏美」
「お母さんたち先に帰ってるから、お友達とゆっくりしておいで」

 希美の母はそう微笑んで、奏美の小さな手を引いて校門を抜けて行った。希美が家族に手を振って三人の方に向き直ると、満里奈がなにやら深刻な顔で明日香や流奈をちらちらと見ていた。振り返った希美とも目が合うと意を決したように口を開く。

「ねぇ、高校生活も最後だし、聞きたいんだけど、三人ともあたしに何か隠し事してない? 特に明日香と希美!」

 隠し事? 身に覚えのない流奈はそう言うように首を傾げる。明日香と希美がきょとんして同じタイミングでお互いの顔を見た。ふふっと笑って、声を重ねて言う。

「ひみつ!」 
「えっ何それ! 教えてよ!」

 白い歯を見せて曇りなく笑う明日香と希美。そんな二人に満里奈がじゃれつこうとすると子供みたいな追いかけっこが始まった。桜の木の周りをぐるぐる回ってはしゃぐ三人。ほんの少し前の流奈なら見ていただけかもしれない。

「わたしにも教えてよー!」

 流奈は土を蹴ってその輪の中に飛び込んだ。その時一瞬強く吹いた春風が桜の花弁を舞い上がらせる。四人の未来を祝福するかのようにひとしきり舞い踊った花弁はそっと土に降り立ったり、遠く飛んで行ったり、それぞれの道を歩んでいった。

「また遊ぼうね」

 ほろりと希美が零れたように言う。

「もちろん、ていうか三月はまだ暇だし、集まろうと思えば明日でも会えるよ」

 満里奈の言葉は明るく、しんみりとした雰囲気も吹き飛ばしてしまいそうだった。

「そうだね。またいつでも会えるよ」

 ふと流奈の顔を見た明日香がゆっくりと流奈のこめかみのあたりに手を伸ばした。

「花弁、ついてるよ」

 流奈の視界に映る明日香は、太陽を背にして口元に優しい微笑みを浮かべている。寂しさとは違うなにかが流奈の胸を締め付けた。それがどんな感情なのか流奈にはまだわからない。

「ねぇ」

 流奈の大きな瞳はキラキラと太陽の光を反射して輝いている。

「わたし、みんなに出会えて本当によかった。ありがとう」

 下校を促すチャイムが雲一つない青空に吸い込まれて消えていく。終わりと始まりを告げる鐘。少女たちはその鐘を聞いた後もずっと、桜の木の下で笑いあっていた。

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