第3章:洞窟上層その3
入り口から差し込む陽光に浮かび上がった洞窟は天然の状態ではなかった。床や壁のそこかしこに人の手が加えられ、特に床は平らに整えられていて足を取られるような障害物は極力排除されていた。ここが二百年前に魔物たちを追い込み滅する決戦の場として造られたことはアルデガンに住む誰もが知っていた。
尊師アールダは比較を絶する破邪の力を持つ僧侶だった。彼がほとんど独力で大陸各地の魔物の生き残りをこの極北の地に追い込んだときに、当時のノールド王がこの洞窟を整備したと伝えられていた。アールダのそれまでの戦いぶりから、必ずこの洞窟で魔物たちが滅ぶと信じた者は多かったという。
しかし、アールダは幾度かの戦いのあと人々に告げた。洞窟という場所に魔物を追い込んだのは誤りであった。この場所では我が力を以ってしても魔物たちを滅ぼすことはできぬ。しかも私は定命の身にすぎずやがて死ぬ。このままでは私が死んだとたん魔物たちが外へあふれ出す。私の命がある間にこの地に城塞都市を築き、我が力に匹敵する力で魔物たちと対峙できるよう人々を組織しなければならぬと。これがアルデガンの起こりだった。
最初は大陸全土の国々が協力してアルデガンを支えた。しかしアールダがこの世を去って長い年月がたつにつれ、遠方の国々の援助はとだえがちになり、二百年が過ぎた今ではノールドとその勢力下にある北部地域だけが封魔の城塞を支援しているのだ。
奥へ少し進むと、外の光はもう届かなくなった。ゴルツが低く呪文を唱えると、淡くかそけき明かりが行く手を照らした。
アラードとリアは洞窟の中に入るのは初めてだった。今でも洞窟の中で戦う場合がなくなったわけではないが、敵地での不利な戦いにはそれだけの技量が求められた。それでも戦うたびに犠牲者や行方不明者が出た。行方不明者は吸血鬼に攫われたのだとの憶測も根強かった。
神に仕える身であったアールダは吸血鬼の存在を決して許さず見つけるそばから滅ぼしたので、この地に追い込まれた魔物の中には吸血鬼はいなかったと伝えられていた。後の時代に闇を求めて外部から侵入したと考えられていた。魔物が徘徊する洞窟の中では犠牲者の骸はほとんどがよみがえるのを待たずに魔物の餌食となったため、吸血鬼が棲みついたことに人間たちはかなりの間気づかなかったのだ。
いまや尊師アールダの時代よりはるかに恐ろしい場所と化した洞窟の闇に、思わずアラードは身を震わせた。
そのとき、背後のリアが押し殺した声で告げた。
「なにかいるわ、そこの岩のかげに!」
アラードは振り向いた。闇を見つめるリアの目がかすかに赤く光ったような気がした。彼はぞっとして向き直り、闇の奥に目をこらした。
だがなにも見えなかった。数歩前に出たことで、岩のかげから突き出た足がようやく見て取れた。人が倒れている! 反射的に駆け出した瞬間ゴルツが一喝した。
「ばかもの! 近づくなっ!」
だがその声が届いたときは、アラードはうつ伏せに倒れたその者の脇に立っていた。鎧の形とずんぐりした体型でそれが誰かはすぐわかった。
「ガモフ!」「下がれアラード! 下がらぬかっ!」
だがその瞬間、足首が鉄のような力で掴まれた!
身動きできなくなったアラードの目の前で、ガモフがゆっくり身を起こした。半身が起こされたのに続き、顔が振り仰いだ。
アラードは絶叫した!
それはガモフであってガモフでなかった。顔かたちが彼だっただけでそれ以外のものは人格も感情も丸ごと抜け落ちていた。
見開かれた目はアラードに向いていたが何も見ていなかった。魂がからっぽになった空洞だけが目の奥に広がっていた。
あえぐように開いた口は言葉ひとつ紡がず、人のものではありえない鋭い牙がアラードに向けられた。牙に引きずられるようにうつろな顔がせり上がってきた。顎が人間の限界を超えて大きく開いた。
その口にゴルツの手が白木の杭を打ち込んだ!
ガモフだったものの体が膝をついたままのけぞり、アラードを掴んでいた手が離れた。ゴルツはアラードを背後に突き飛ばし、自らもすばやく下がりながら唱えていた呪文を完成させた。
白木の杭が爆発するように燃え上がり、動く死体を丸ごと呑み込んだ! 炎の中で暴れる人影がみるみる嘗め尽くされた。
「他の魔物に感づかれたはずじゃ、この場を離れるぞ!」
ゴルツの言葉が終わりきらぬうちに、洞窟の奥からざわめきが近づいてきた。三人は枝分かれした細い道に身を潜めた。
最初に姿を現わしたのは亜人たちだった。コボルトやオークが炎に目をしばたかせながら興奮して炎の周りを走りまわった。そこへいくつもの首を持った大蛇が現れ、稲妻のように首を振るとたちまち三匹の亜人に食いついた。亜人たちは恐慌に陥り逃げ出した。大部分が洞窟の奥へ逃げ戻ったが何匹かは出口に向かって走り、大蛇も思いがけない速さで巨体を滑らせ後を追った。亜人も大蛇も炎や敵や走りまわる獲物に気をとられて、隠形の魔力を持つマントに身を包んだ三人にはまったく気づかなかった。
「難物が上がりおったか! 犠牲が出ねばよいが……」
ゴルツがつぶやいた。
「いまのうちじゃ、先に進むぞ」
しばらく三人は黙って洞窟の奥に進んだが、身を隠せそうな岩の窪みが見つかったのでゴルツは少し休むことを告げた。そしてリアになにか敵の気配を感じないかとたずねた。
「あれからずっと見られているような気がします」
リアの答えを聞いてゴルツが難しい顔でうなづいた。
「やはりガモフを襲ったものがそなたの仇敵か。アルデガンに侵入した吸血鬼は一人であったようじゃな」
「どういうことですか?」アラードがたずねた。
「わしはアルデガンに複数の吸血鬼が侵入した可能性も案じていた」
ゴルツの言葉に二人は息を呑んだ。
「先に襲われたリアが吸い殺されなんだ理由がわからなかったからじゃ。ガモフを吸い尽くすほど渇いていたなら、助けが入ったわけでもないのにリアを吸い残すわけはなかろう。いまも理由は思いつかぬ」
「だが、ガモフを襲ったものが別の吸血鬼であったなら、ガモフを滅ぼした時点でそやつの目から我らは見えなくなったはず。同じ相手であればこそ、ガモフを失った後もそなたの意識を通じて我らを監視できるのじゃ」
「では、あのときガモフに見られていなければ!」
思わず発せられたアラードの問いにゴルツは首肯した。
「まだ敵に気付かれずにすんでいたやもしれぬ。いまさらいっても栓ないが」
自分が軽はずみだったせいで気づかれたのかっ! アラードが思わず両手を握りしめた瞬間、
「私も……ああなるのですか?」
リアの呻きに二人は振り返った。彼女は膝を屈していた。
「あんなふうに、相手が誰かもわからず襲いかかることになるのですか?」
押さえ込もうとするように我が身をきつく抱き絞めながらも震えを止められぬ少女が、涙をたたえた目が彼らを仰ぎ見た。
「もしも牙が伸びはじめておれば、かなりの傷をおって死んでも甦ることになろう」ゴルツの声は低かった。
「……もう、遅いんですね」
ついに涙がひとすじこぼれ落ちた。そして口が開かれた。細い牙の伸びかけた口が!
「リア!」
思わず叫んだアラードだったが、あとの言葉が続かなかった。それでも華奢な少女は我に返ったようだった。
「すみません。覚悟はしていたつもりだったんです。助かるはずなんてないと……」
リアは立ち上がった。濡れた瞳に悲愴な決意が満ちていた。
「これで覚悟がつきました。私は地上へは戻りません。もう帰ってはいけないんです! この洞窟こそが死に場所です!」
二人を見つめる空色の目に、あの激しい光が宿った。
「決してこの洞窟から出してはいけません。私も私を襲ったものも! どちらも滅びなければならないんです! 最後まで戦って死にます。もう誰もこんな目にあわせないために!」
蒼ざめた顔が真正面からゴルツに向けられた。
「いよいよの時は、私の魂をお守りください」
「もとよりそれがわしの務めじゃ、その高き魂を守ることが」
アルデガンの大司教が少女の前に膝まづき、手を取った。
「その身の滅ぶ時、必ずそなたの魂を神の御元へ還す!」
ゴルツの誓いにリアがうなづいた。
---その高き魂こそ守られなければならない---
アラードの心に、その言葉がこだました。
ガモフのように空っぽのまま甦るリアの姿が、牙を剥いて迫る顔の冒涜的な幻影が彼を脅かした。
失わせてなるものか、魂を。たとえどんなことをしてでも!
アラードは考えもしなかった、己の思いがリアやゴルツと僅かながらもずれ始めているなどとは。