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忘れられた怪物

幼時より、父王に言いつけられてきた言葉がある。
「いずれお前は怪物の花嫁になり、国家の礎を築くのだ。」
幾つかの四季が巡り、今年も春がやってきた。
窓辺に広い野は雪解けた水を孕み、そこに涌く命は尽く地に満ちる。
風は流れ、野を巡り、草木を掻い抱けばその香をのせたまま窓を敲く。

窓を解き放てば、芳しい風とともに飛び込んでくる春の陽、鳥の鳴き声、巡る雲は今にも流れ入るように近く感ぜられ、萌えいづる春に息をのめば、紅く鮮やか火照る頰

春。
そんな春が大好きだった。
丁度十七度目の春。
十七になったこの日、とうとう王都から使者がやって来た。
朝まだきの明けきらぬ頃、やって来た婆やが静かに項《うなじ》を伏せたまま告げた。
王都地下深く迷宮に棲まう怪物の贄となる日が告げられた。

それから出立の日は近い。
布、絹、香、玉。
本国や属州から取り上げた様々な贈物。
それをうやうやしく掲げた女官が館を忙しなくかけ回る。 

夜になれば湯あみの支度が整う。
衣は優しく剥がされて、私の体は女官によって隈なく洗われる。すきの無い女官の細やかな手つきによって、花嫁の体は余すところなく洗われる。

そのような日を幾たび経てか、とうとう出立の日はやってきた。

けたたましい牛の嗎《いななき》。はりつめた鞭に叩かれた牛後。
蹄は力強く踏まれて重い牛車を牽引する。野花を踏みにじりながら進む車輪の上から見あげた朝日の輝きが、まるで最後に見る日の光であるかのように感ぜられた出立の日。

壮重な王都の公事で久方ぶりに対面した父母の姿。
我が子を怪物に差し出す母は、表向き如才なく母として振る舞いながら、終始父の眼差しを伺っていた。父は荘厳な面差しを娘には向け、集まった民草の前では礼節を気取る。時たま回ってくる重臣の報告には笑顔で応える。そのような父から眼差しを落として、清純なベールの下で組んだ手を見つめていた。そんな娘の姿をずっと遠くから見つめる、母の眼差しには気付いていた。

公事は終わり、車を乗りかえ、王都を出て谷へと向かう。
地表を覆う礫石《れきせき》。それをゆったりと嚥下《えんげ》するように、谷間はゆっくり地下へと沈んでいく。

谷の入り口で従者と婆や降ろし、車を乗り換えた時のことを思い出す。卑しい谷守達が、私の身を案ずるように告げた。
「従者を連れて早くお逃げになるのです。この先にいる怪物は、国父によってすみかを奪われ、深い洞穴に閉じ込められただけのただの化け物です。国父が払い、我らが国土にした《邪悪なる土地》の大魔などというのは国を成立させるための作り話。その化け物を鎮めるために乙女の破瓜《はか》が必要なのは間違いではありませんが、何も他ならぬ貴女である必要は無いのです。一昨日、市井から身寄りのない女奴隷を買ってきました。あなたの代わりです。本当はあなたという王家の生け贄以外に、ほぼ毎日乙女を怪物に与えているのです。ここに用意があります。さあ、早く逃げるのです!王家の権威のために命を投げ出す必要はありません!あとは私たちが上手く収めてます!」

それは重要な事実だったのであろうが、私にはさして重大ではなかった。どうせそんなことだろうと察しはついていた。

だが王女である私が代わりに身寄りのない少女を犠牲にしていいはずがない。王族が貧しいものの犠牲の上に生きるなら、一体民草は何を信じればいい。何を信じて明日の朝布団から起き上がればいい。

国家が民草の信じる希望となれるなら、私は喜んでこの身体を怪物に捧げよう。たとえそれがありもしないおとぎ話にすぎないとしても。

礫石《れきせき》の掃いたように寒々とした眺めの中で立ち尽くす婆やの伏せた項《うなじ》から涙がとめどなくこぼれてるのを打ち捨てて、私は一人牛車に引かれて、谷の暗がりへと向かっていった。

もう太陽も届かぬほどに谷に飲み込まれていた。
あたりは暗闇で何も見えない。ただどこからか子供の声が聞こえてくる。
王都の壮大なセレモニー、最後に私の首に花輪を掛けてくれた子供たち。私が贄《にえ》となる代わりに、あの子供達には国家に託された未来が与えられる。私はその未来を証しするためにこれから怪物の贄《にえ》となるのだ。真っ暗闇ではしゃぎ回る幸せそうな子供達。彼らの楽しそうな声が目の前に露わになる。ずしんと重い泡《あぶく》を吸い込んだ。肺臓《はいぞう》に苦い水あめじみたものが浸透し沈着する。私を丁重に包んでいた衣が甘く溶ける。裸体が暗がりに掬われるとともに熱い筋張った抱擁にしめつけられる。幻薬を飲んだように口元が腑抜けて、垂涎《すいぜん》が長い糸をひく。腰から下のぼやけた肢体が、じんときつく圧迫される。
溢れ出る涙で融解する眦《まなじり》の前に、先の子供達の声が広く散乱する。くつろげた朝日のように繊細に枝分かれして耳朶《じだ》を貫く。もはや声の形すら成していない拡散。それに包まれて、私は彼我の境地を迎えた。

目の前がぱあっと明るくなった。

それから一体どれほどの時が流れただろうか。

ぽちゃんーー

と、何かが腹の踞《うずい》に落ちてくる音で目が覚めた。

もう随分と長い間眠っていた気がする。
一体、どれほどの月日が経っただろう?

闇の底から身を起こすとごおっと闇まで音を立てて起き上がった。暗いほら穴の底にうずくまるわだかまり。それが地底を這いずり回る。どこまでが私の体で、どこからが地底の闇なのかも知れない。

王女であった時の名残はもうかけらもない。ただの闇のかたまりが、ほら穴の闇の中を徘徊する。だがなぜ私は徘徊を続けれるのだろうか?

何かを探さなければならないような気がしていたのだ。
だが一体何をだ?
故郷か?国家か?婆やか?父母か?
こんな姿になった私に、そんな希望が残されていただろうか?だがそうか、私は希望を探してさまよっているのか。
私自身にはもう希望は残されていない。
きっと私が探しているのは他人の希望なのだ。他人の希望に触れることが息絶えた私に残された唯一の手がかりになる。ああ、あの子供達。人であったころ、あのひとでなしの祭典で、私の首に花輪をかけてくれた子供たち。あの子たちは今どうしているだろうか?幸せに暮らしているだろうか?あの子達に早く会いたい、早くこのほら穴を出ないと。
(だが)
私のことをまだ覚えてくれる子供はまだいるだろうか。もしもいなかったとしたらどうしよう。私を覚えてくれているものがいなかったら、こんな姿になってしまった私は、一体どうしたらいいのか。

ちらちらとした明かりが目の前をはしゃぎ回っている。それは実際に見えたわけではない。視覚などもう私の身には残っていない。いくつもの白い光が散乱し、きらきらと光っている。それは初めぱらぱらと粉雪のように舞い上がっていただけだが、いつしか一つの輪郭を結んで、人形となって私に語りかけてきた。幼な子の声を借りて人形は語る。こんな闇へと成り下がった私に、澄んだ声をあげてすがりついてきた。

「お姉さん、お姉さん。」
と、一つ目の声。
「僕たちは孤児です。置き捨てられた子供達です。忘れ去られた子供達です。僕たちは生まれた時から虐げられて、みんな僕たちを忘れたままどこかに消えていってしまいました。」
「私の胸にはもう命はありません。私の命はとうの昔に踏み潰されてしまいました。誰に看取られることもなく、道端の小石のように見捨てられたまま冷たくなりました。誰も私を助けてくれませんでした。覚えてすらもらえませんでした。狭い熱いまっくらな籠のなかに敷き詰められて、一夜を過ごしました。息がとても苦しくて、そこからはもう何も覚えていません。」
「僕も誰からも忘れ去られてしまいました。僕は亡者です。地上を歩いている生ける人々の足元深くの地の底で、亡者はこのように息をしています。彼らの一歩一歩に踏みつけられて、私は息を継ぐのです。けれどももう誰も僕の呼吸に耳をそばだててくれません。踏みつけた時の感触も思い起こしてくれません。」
「ああ、私も!私もそうです、お姉さん!私は生まれた時から身寄りもない棄民でした。路の片隅に根付いた雑草でした。道行く人は誰も私を気に留めてくれません。誰も私を覚えてくれないのです。私は誰からも忘れ去られた存在です!誰の記憶にも残っていない存在です!」
「僕たちはあの人たちに復讐したいのです!僕たちのことを忘れてのうのうと生きるものたち!自分に負い目があることを忘れて、他の命を無視するものたち!生贄《いけにえ》を差し出すことなく、覚えていられると言い張るものたち!僕たちはもう一度肉を取り戻して、あの者たちから僕らのような不幸な子供を救いたい!」
「だからお姉さん!私たちのこの声を、光を、魂を、食らって力に変えてください!お姉さんだけが僕たちに残された唯一の希望です!」
戦乱、貧困、強奪。ありとあらゆる矛盾を抱えていたこの大地。その矛盾を歴史の中で許した国々に私たちは住まい、その恵みを享受しているはずだ。国々が仮託する道理によって、私たちは欠乏、略奪、世の摂理にじかに焼かれるのとなくすむ。私たちが原初に負った傷を私たち自身が忘れてもいいのだろうか?忘れた結果、忘れ去られるのは、この子供らのような未来の光そのものではないのか。私はそれが許せない。私が私の春を捧げてまで守り抜いた国の存在を忘れているものどもが許せない。そのものたちに思い知らなければならないのだ。

私は光る子供達を強く抱擁した。飛び散る光をかき集め、余すことなく飲み干した。

ごおと地鳴りが鳴り響く。何かが地の底から湧き立つ音が聴こえてくる。

そしてーーーーー

「ねえ、聞いた?今ネットそれで持ちきりじゃん」
「うけるー!あの怪物でしょ⁉︎急に地面がひっくり返ったんだったね!」
「田舎は全部ダメみたい」
「この国終了のお知らせ」
「カミジョーはよ。」
「疾走する回線、宇宙まで駆け抜ける。太陽のエナジーを浴びて、世界中に駆動する。」
「このような事態に対し、政府は国民にくれぐれもパニックにならないように呼びかけました。」
「皆さん、我が国は、今まで幾度とない大きな危機を迎えながらも、それに打ち勝ってきました。」
「やべぇ、昨日も街が一つやられたみたいじゃん。なんとかっていう怪物のせいで。」
「だから警備隊は国軍にすべきだったんだよ。こうなってからじゃ遅いって俺は何度もいってきたじゃん。」
「まあ、いざとなったら近所の大国が助けてくれるさ。」
「カミジョーはよ」
「ども!正義系YouTuberのカミジョーです!今回は今、巷を騒がしている例の怪物、早速あれを退治していきたいと思います!」
「でもあの怪物って、隣の国の生物兵器らしいよ。」
「マジウケるんですけどー!ちょーセンスある造形美じゃん!」
「俺の街はあっという間にあの怪物にやられてしまった。父、母、兄弟。全てあの怪物にあっという間に飲み込まれてしまった。同じ板の住人としてこれだけはお前らに言っておく。あの怪物には用心しろ。以上だ。」
「いやー!今ちょうど軍の人と協力して核ミサイルを数発怪物に打ち込んだところなんですけどねー!なかなか手強いですねー!あの怪獣!今回の配信は相当タフな戦いになりそうです!」
「そそり立つ回線、雲を突き抜ける!天を貫いて散らばって、光の雨になって降り注ぐ」
「ぎゃおー」
「ちょー可愛いんですけど!この怪物の鳴き声!」
「政府は今回の怪物を激甚災害として認定する方向で調整を進めており、」
「どうか子供達よ!私の腹を食い破って生まれる子供達よ!どうか私の思惑よりもずっと狡猾であってくれ!この空疎な空気に負けずに、燦々と降り注ぐ未来の太陽に向かって歩いてくれ!」
「お!今回の怪物は流石に強敵だっただけにいい素材が剥ぎ取れますねー!これは装備を格段に強化出来そうです!」
「怪物の腹から子供が出てきたらしいよ。」
「マジ?怪物の子じゃね?」
「隣国の生物兵器から生み出された子供を養育するなど売国行為だ!反対する野党共々斬首してしまえ!」
「怪物さん、ありがとう。僕たちはあなたのお腹の肉を食べて、またからだを手に入れることが出来ました。怪物さん、本当にありがとう。」
「えー、次は天気予報です!アマタツ!」
「怪物の腹から出てきた子供達は、虚ろな目で周りの大人達を見回すと、一番えらい人の方を向いてにこっと笑ったらしいよ。んで施設に送られることが決まると、みんなで手を繋いで陽だまりの中を歩いていったらしい。晴れ晴れした正午の太陽に向かって、にこにこ笑いながら歩いていったらしい。」

しおり