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19話 トリトマ

「意外と人いるね」

 久保明日香は図書室の引き戸についている小窓から中を覗き込む。後ろにいる流奈がそうなんだ、と返事をした。まだ中に入ってもいないのにお互いの声はなぜか小さくなってしまう。引き戸にセロハンテープで貼られた『図書室ではお静かに』の張り紙のせいかもしれない。

 明日香はなるべく音が出ないようにと取っ手にかけた手をゆっくり動かす。気を使って戸を開けたのに静まり返った空気の中では少しの音でも案外響く。中に入ると木と紙とインクの匂いが鼻の奥を擽った。その匂いが心地よくて思わず入り口近くで立ち止まる。後に続いて入ってきた流奈が明日香の背中にぽすっとぶつかった。

「なんで急に止まるの」
「あ、ごめんね」

 貸し出しカウンターで本を読んでいる図書委員がちらりとこちらを見た。明日香は一瞬ドキッとして座れそうな席を探すために室内を見渡してみる。

 入り口から右に広がっている図書室。その壁に沿うように並べられたたくさんの本棚。右奥のスペースには背中合わせになった本棚が通路を作るように立っていた。そのどれもが、天井に届くほど背が高い。その本棚の群れと貸し出しカウンターの間には読書スペースとして八人掛けの机が四個設置されている。今時期に三者面談を行っているのは一年生も二年生も変わらない。明日香のように遅い時間に面談が始まる人たちが集まっているのだろう。普段はがらがらな机は七割ほどが埋まっていた。勉強をしている人も、本を読んでいる人も、皆静かに過ごしている。

 二人はどこに座ろうかと、小声で相談して奥の通路側のテーブルに向かい合わせに座った。他の生徒の邪魔にならないように流奈にだけ届くくらいの声で話しかける。

「流奈は本読むの?」
「どうしよう。特に考えてなかったんだよね。読み始めて途中までになってもなぁ」
「読み切れなかったら借りて帰ったら?」

 流奈は何とも煮え切らない感じで長い黒髪の毛先をいじっていた。

「じゃあ、勉強教えてよ。数学でわかんないところあったんだよね」
「いいけど、明日香普通に頭いいじゃん。明日香がわからないところをわたしが教えられるかな」
「大丈夫、大丈夫」
「うーん、とりあえず隣に行くね」

 図書館の机は幅が広い。向かいにいる人に勉強を教えるには少し身を乗り出さないといけない。流奈が自分のカバンごと明日香の隣に移動した。明日香はその間に数学の教科書とノートを用意する。

「この図形の証明のあたりなんだけど」

 ここ、と開いた教科書を指さす。明日香の教科書は受験生らしく書き込みがあったり、大事なところにマーカーが引かれたりしている。流奈が教科書を覗き込んだとき、二人の距離近づく。

「うん、多分教えられると思うよ」
「それじゃ先生、よろしくお願いします」

 明日香はふわふわした気持ちを隠そうとわざとおちゃらけた風に言った

 夏に満里奈に教えているときも思ったが流奈の教え方やっぱりわかりやすい。流奈の授業を体験してみて、改めて思った。満里奈が言った通り教職に向いているのではないかとさえ感じたくらいだ。

 話す声が大きくならないようにと気を使っているうちに二人の距離はどんどん近くなる。そのうちに肩が触れるか触れないかくらいの距離になってしまった。それにともなって明日香の集中力も散漫になっていく。

「明日香、聞いてる?」

 シャープペンで教科書を指していた流奈が明日香の方を見る。胸元の紫のスカーフがさらりと揺れた。

「うん、聞いてるよ」


 *


 図書室の中は変わらず静かだった。カチコチという音以外には、生徒が出入りする音やひそひそ声が聞こえる程度だ。窓の外が赤く染まり、一番遠い所がほんのりと薄暗くなってきた。流奈の授業がひと段落して明日香がふと図書室の時計を確認する。時計の短い針は七を指し、長い針は三と四の間を指していた。

「あと少しでお母さん来る頃だ」

 何気ない明日香のその声を聞いて流奈は視線を時計に向ける。その瞳が現在時刻を確認した途端、カッと見開かれた。

「え、もうこんな時間? わたし、帰んなきゃ」

 幽霊に取りつかれたのかと思うほど急に青白くなった唇が震える。流奈は自分のカバンをひっつかんでばたばたと図書室を飛び出した。明日香は教科書やカバンをそのままに、玄関に向かう流奈を追いかける。

 玄関につくと流奈は靴箱から乱暴にローファーを取り出していた。形のいい足をすっぽりと覆うその靴は、糸がほつれ、つま先側の靴底は1センチほど剥がれていた。

「じゃあまたね」
「あ、流奈!」

 駆け出そうとした流奈を呼び止める。

「あ、あのさ、お母さんがまた流奈に会いたいって言ってたからさ、また、遊びにおいでよ」
「ありがとう」

 流奈の声は心なしか震えていた。怯えた子供のような背中が小さくなっていく。

「あら、明日香。どうしたの?」

 どれくらいここに立っていたのか明日香にはよくわからなかった。今、容子に声をかけられたということは五分も立っていないはずなのに、流奈の背中がすっかり見えなくなるまでとてつもなく長い時間に感じられたからだ。

「お母さん。仕事、お疲れ様。図書室に教科書とか置きっぱなしだから取ってくるね。ちょっと待ってて」

 容子を玄関に待たせて図書室の前まで戻る。引き戸の『図書室ではお静かに』の張り紙に右上のセロハンテープが剥がれ落ちていた。剥がれたテープを親指でぐっと貼り直しても粘着力がなくなってしまったからか、元には戻らなかった。


 *


 三者面談を終えて学校を出るとすっかり日は落ちていた。等間隔に並んだ街灯と夜空にぶら下がった三日月が不気味な空間を演出している。物陰から何か人ではないものが出てきそうな雰囲気だ。

「国立大の心理学部か。勉強頑張らないとね」

 容子の暖かい声がそんな雰囲気を打ち破る。

「うん。がんばるよ。第二志望の私大はA判定だからもし落ちたら学費、よろしくお願いします」

 明日香は甘えるような眼差しで容子の瞳をじっと見た。わたしとお母さんはやっぱり目元が似ている。目を逸らさない明日香に容子がふふっと零れたように笑う。

「もちろんよ」

 そっくりな目元にくしゃっと何本かの笑い皴が寄った。ありがとう、と明日香が口を開こうとしたときに冷たい風が吹いて半袖から伸びた腕に鳥肌がたった。もう明日から冬服でもいいかもしれない。

「はい、着てなさい」

 容子が自分の着ているスーツのジャケットを明日香に渡す。

「え、いいよ。お母さんが寒くなっちゃうよ」
「ワイシャツの下にインナーも着てるから大丈夫よ。若い女の子が体を冷やしちゃダメなのよ」

 そう言われてしぶしぶ受け取ったジャケットは母のぬくもりが残っていて暖かい。わたしもあと五年くらいしたらこんな風にスーツを着て仕事してるんだ。明日香はそう遠くない未来の自分を想像してみる。その頃に満里奈と希美は何をしているのだろうか。

「流奈ちゃんのこと、もう少し待ってね。頭の固い連中たくさんいて。流奈ちゃんが自分で虐待を受けているって言ってくれたらまた話は変わってくるんだけどね」
「流奈が保護されたらどうなるの?」
「引き取ってくれる人がいないなら保護施設で暮らすことになるかな」
「でも卒業までしかいられないんでしょ?」
「そうね、半年もない中で次に住む場所を決めたりしないといけないわ」

 五年後の明日香はもしかしたら陸上選手かもしれない。そうじゃなくてもきっとスーツを着るような仕事はしていないだろう。希美はすっかり仕事にも慣れて弟妹達の面倒をみているのだろう。絵も続けていて、忙しいながらも充実した日々を送っていそうだ。流奈は、どうしているだろう。明日香はどうしてか、大人になった流奈の姿だけ想像をすることができなかった。

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