16話 マツイヨグサ
土曜日の午後11時。久保容子は明日香と共にクローゼットの奥から浴衣を引っ張り出していた。昨日から3日間、近所の神社で夏祭りが開催されている。今回の着付けは少し前に明日香に相談された「流奈は父親から虐待を受けているかもしれない」という疑惑を少しでも確かめるため、明日香と考えたことだ。とはいえ、こうして娘の世話をすることが何よりの喜びに変わりはない。夫とは何年も前に離婚し、平日は仕事三昧。寂しい思いをさせている明日香に頼まれごとをされると年甲斐もなくうれしくなってしまう。それは自分の手をほとんど離れてしまっても変わらない親心だ。
「お母さん。着付け、ありがとうね」
「全然よ。それより、どっちが明日香でどっちが流奈ちゃん着るの?」
容子と明日香の前には柄の違うモノクロの浴衣が二着と帯が二本置いてある。
「えー、絶対花柄は流奈のほうが似合うよ。わたしはシンプルなほうが好きだし」
「そうねぇ。それに明日香より流奈ちゃんのほうがちょっとだけ背低かったものね。花柄のほうが少し小さいし、それがいいかもね。じゃ、流奈ちゃんが来る前に着付けしちゃいましょ」
服を脱いで肌着を着た明日香を見て軽くため息がでる。母親として心配になるほどスタイルがいい明日香はウエストにタオルを詰めて凹凸をなくしてから着付けをしないと不格好になってしまう。
「やっぱり、タオル巻かないとだめね」
「えぇ、絶対暑いじゃん……」
タオルがお腹に巻かれるということはその分暑いし重くもなる。あからさまに嫌そうな顔の明日香にここ抑えて、回って、とどんどん指示していく。女の子らしい恰好をしたがらないことは昔から少し気になっていた。それでも制服のスカートや浴衣を嫌がらないあたり男の子になりたいわけではないのだろう。LGBTだとかには寛容なつもりだが自分の娘のこととなるとどうしても気になってしまう。飾りの帯締めを結んで着付けが完成。そのときちょうどチャイムが鳴った。
「じゃあ、よろしくね。お母さん」
満足気に姿見を見ていた明日香は神妙な顔つきになる。わかったわ、と頷いて2人で玄関に向かった。
「いらっしゃい」
穏やかに微笑んで迎えると、そこには前に来た時と同じ、黒の長袖のワンピースを着た流奈が立っていた。流奈は控えめに微笑んで挨拶を返すと容子の後ろにいる明日香に声をかける。
「浴衣、似合ってるね」
「ありがとう。わたしリビングで待ってるから、流奈も着付けてもらって」
リビングに明日香を残し、娘の部屋で流奈と2人っきりになる。
「それじゃさっそくやりましょうか」
「よろしくお願いします」
「じゃあ、後ろ向いてるから、とりあえずこの肌着を着て、その上から浴衣を羽織ってもらっていい?あ、ブラはつけたままでもいいけど外したほうが苦しくないわよ」
はい、と返事して流奈が肌着と浴衣を受け取る。警戒されないように後ろを向くとぱさっと布が落ちる音がした。気づかれないようにそっと振り返える。赤紫の痣が無数についた白く細い体。ぱしゃりとシャッターを切るようにその痣だらけの体を脳裏に焼き付けた。
*
クリーム色に紫色のダリアの浴衣。淡いグリーンの帯を締め、頭に浴衣と同じダリアの髪飾りをつけた松坂希美は神社の鳥居の下で三人が来るのを待っていた。夜に数発だけ花火があがるお祭りはこの時期のちょっとした名物だ。片手にスマートフォンをもって画面を見てみると満里奈からもう着くと連絡が来ていた。
「おまたせー!」
水色に水面のような模様と赤い金魚が踊る浴衣に黄色の帯を締めた満里奈が下駄をカラコロと鳴らしてやってきた。普段はポニーテールの髪を低めのお団子にまとめている。明るい柄が満里奈によく似合っていた。
「明日香と流奈はまだみたいだね」
「2人分着付けてるから時間がかかってるのかもね」
「あ、あれ。来たんじゃない?」
満里奈が指をさすほうに顔を向けると小走りする明日香と流奈が見えた。
「おまたせ!ごめんね遅くなって!」
息を切らして謝る明日香は黒地に白の麻の葉の浴衣。白の帯に赤の帯締めという粋な出で立ち。流奈は白と黒のストライプに白百合が描かれた浴衣。鮮やかなブルーの帯を締めていた。
「お母さんが髪も結ってくれたんだけど、それが少し時間かかっちゃって」
確かに明日香のボブはハーフアップにまとめられ、毛先は軽く巻かれている。流奈の長い髪は右側に緩い三つ編みにまとめられていた。三つ編みの結び目には白い花の髪飾りちょこんとつけられている。希美の瞳にいつもとは違う三人の姿が新鮮に映る。
「四人そろったし、まわろっか」
満里奈の声で四人で歩き始める。ただでさえ人でごった返しているのに、四人が横並びに歩いては迷惑だ。前に明日香と流奈。そのすぐ後ろに希美と満里奈が歩く。明日香の真後ろを歩く希美にはハーフアップから薄く覗く明日香のうなじが見える。無防備にうなじを晒して隣にいる流奈に笑いかける明日香。
まじまじと見てるのが頭の中がピンク色のおじさんではなく私でよかったな、と心の中で明日香に話しかける。自分はずいぶんと不毛な恋をしている。思いを伝えるとか、そんなことをするつもりはなく、こうして明日香を見ることができれば満足だった。
りんご飴、綿菓子、金魚すくい、射的。たくさんの出店が並ぶ中をゆっくりとおしゃべりしながら歩く。心なしか全員の声は高く、いつもよりも笑顔にあふれている。おのおの食べたいものを買い、どこか端によって食べようかということになった。流奈がいるときにそんな話になることはほぼない。夏祭りに行くと決まった時になんとかやりくりしてお金を貯めると流奈が言っていたからこんな話になったのだ。
「何食べる? あたし綿あめ!」
「えー、何にしようかな。こういうのって結構悩んじゃうよね」
綿あめに即決する満里奈と悩む明日香。確かに食べたいと思ったものを全部買うような金銭的な余裕は高校生にはない。第一そんなに買っても食べきれない。
「私はタコ焼きにしようかな。結構お腹すいたし」
「じゃあわたしはりんご飴にしよっと」
「りんご飴ってなに?」
明日香のりんご飴という言葉に流奈が首をこてんとかしげる。無自覚でこういう仕草をするのだからまともにその攻撃を食らった明日香はかなりのダメージを受けただろう。
「りんごを飴でコーティングしたお菓子、かな? 名前のまんまだよ」
限りなくいつも通り。それでもほんの少しだけ明日香の声が上ずったのを希美は聞き逃さなかった。誰も気づかないような些細な変化にも気が付いてしまう。五年間そばにいたのだ。たった十八年の人生の五年は長い。
りんご飴の出店の前で真っ赤な、歪な球体をまじまじと見る流奈。流奈もそれにしてみたら? と声をかけると幼い子供のように頷く。食べたいものを調達して近くのベンチに腰掛ける。一番右に座る希美の隣に流奈、その隣に明日香、満里奈と並ぶ。
「おいしい。なんか最近始めて食べるものが多い気がする……」
この間のチョコレートケーキも流奈は初めて食べたと言っていた。1年生の時に同じクラスになったときは誰かと話しているところなんてほとんど見なかった。そんな子が今こうして自分たちと仲良くしている状況がたまに不思議に思う。見上げると日は少しずつ西に傾き始めていた。少しずつ、本当に少しずつ夏が終わろうとしている。りんご飴を持つ流奈の右手の袖がするっと下がって痛々しい痣が少しだけ見えた。
明日香、流奈が好きなら自分の思いを伝えるなんてこと、死んでもするなよ。流奈には受け止めきれないから。