(4)一つの区切り
前々から有休を入れていた日曜日の午前中、玲は真吾の故郷に足を運んだ。そしてこれまでに何回も出向いた桐谷家菩提寺の山門で、義理の姉である白瀬優奈にメールを送ると、数分後に自分と同様に黒一色の出で立ちの優奈が寺の中から現れる。
「すみません、優奈さん。そろそろ始まる時間なのに、わざわざここまで出て来て貰いまして」
開口一番深々と頭を下げた玲に、彼女は困惑しながら応じた。
「良いのよ、中にいたんだし。それより、法事が始まる前に二人だけで話しておきたい内容って何かしら? 終わってからでは駄目なの?」
この日は本堂で真吾の7回忌を行ってから、隣接する法要殿で会食をする予定になっており、その前に折り入って二人だけで話したい事があると連絡を貰っていた優奈が首を傾げながら問いかけると、玲はかなり躊躇いながらもショルダーバッグの中から不祝儀袋に入れた香典を差し出した。
「いえ、その……、それはそうなのですが……。今日はここで帰ろうかと思っておりまして、これを受け取って貰いたいのですが……」
まさかそんな話とは夢にも思っていなかった優奈は、動揺しながら玲とその手にある不祝儀袋を交互に見やった。
「玲さん!? ここまで来て、帰るってどうして!?」
「本当にすみません。会食の準備もありますし、事前に連絡しておくべきだと分かっていたのですが。そちらの分も含めて、香典を入れてありますので」
「それは良いのよ! 妻の玲さんを蔑ろにして、毎回色々こちらで勝手に進めてしまっていて気を悪くしたかしら?」
どこか申し訳なさそうにそんな事を言われた玲は、慌てて首を振りながら否定した。
「そんな事はありません! 真吾の位牌はご実家で管理されていますし、お墓もこちらで全て取り計らって貰って、とても感謝しています!」
「それならどうして?」
「その……。最近、これらがお義母さんから郵送されたものですから。迷ったのですが必要事項を記載の上、署名捺印しましたので、不祝儀袋と一緒にお義母さんにお渡しして貰えませんか?」
申し訳なさそうに、玲が続けてバッグから取り出した封筒を見た優奈は、慎重に確認を入れる。
「私が中を見ても構わないかしら?」
「はい、構いません」
そして取り敢えず封筒を受け取った優奈は、中から引っ張り出した用紙を広げて確認した途端、驚きで目を見開いた。
「え!? ちょっと、これって!?」
「…………」
狼狽しながら手にしている用紙と、無言のまま俯いている玲を交互に見てから、優奈は疲れたように溜め息を吐いた。そして用紙を元通り封筒にしまってから、落ち着き払った声で話しかける。
「……分かったわ、玲さん。郵送でも良かったのに、わざわざ足を運んで貰って悪かったわね。それからこれは……、母が勝手に出すとかできないのじゃない?」
「はい。どのみち私自身が提出しなければいけませんが、お義母さんから送られた物なので、一応お見せして確認して貰おうと思いまして。そうしないと、何回も送られて来そうでしたから」
「それなら母には私から、今日の法要を欠席する事に加えて、そう伝えるわ。安心して頂戴」
「はい、優奈さんには何から何までご面倒をおかけして、申し訳ありませんでした」
改めて玲は深々と頭を下げたが、これまでの法要の度に自分の母が目の前の義妹に難癖をつけていびり倒していたのを目の当たりにしていた優奈は、本心から玲に同情しながら優しく声をかけた。
「良いのよ。これまで毎回、母のせいで居心地の悪いを思いをさせて、本当に申し訳なかったわ。義理の姉妹の関係が解消しても、気が向いたら近況くらいは知らせてくれるかしら?ちょっとした知り合いの、お姉さん位の感覚でね。やっぱり玲さんの事が心配だし」
これまで何かと庇ってくれた義姉の好意を嬉しく思いつつ、同様に労ってくれた義父にきちんと挨拶できなかった事を心苦しく思いながら、玲は三度頭を下げた。
「ありがとうございます。何かの折りにはお知らせします。今まで本当に、ありがとうございました」
「お墓には行くのよね? 気を付けて帰ってね」
「はい、失礼します」
片手に仏花を抱えてきた義妹に優奈は頷きながら言葉を返し、玲が表情を和らげつつ寺の敷地内にある墓地に向かうのを見送ってから、本堂に戻って行った。
「お母さん! 幾ら何でも、ちょっと酷すぎるんじゃない!?」
玲を見送ってから優奈はまっすぐ本堂に戻り、先程まで待機していた室内に戻った。そして開口一番母親に向かって抗議の声を上げると、いつの間にか来ていた住職と向かい合って談笑していた朋子が、眉根を寄せながら娘を窘める。
「何、優奈。こんな場所で、そんな大声を出して。ご住職がいらしたから、ご挨拶なさい」
そう促された優奈は、腹立たしい気持ちを何とか抑えながら二人の前で座り、旧知の住職に対して頭を下げた。
「ご無沙汰しております。すみません、法要を始める前に話を済ませますので」
「はい、まだ時間がありますので、遠慮なくご歓談ください」
年を重ねるごとに、益々好々爺然となっている住職の微笑みに優奈は一瞬怒りを忘れかけたが、朋子の不機嫌そうな台詞がその場をぶち壊しにした。
「それにしても、そろそろ開始時間になるっていうのに、玲さんはまだなの? 時間にだらしない人って、本当に嫌ね」
「そういう事を言うものじゃない。玲さんは遠くから出向いて来るんだから、時間が押す事だってあるだろう」
真吾と優奈の父親である剛が妻の物言いに苦言を呈したが、それと同時に優奈は玲から預かった封筒から素早く姻族関係終了届と復氏届の用紙を取り出し、記入済みのそれを広げて畳の上を母親の方に押しやった。
「玲さんはさっき、山門に来ていたわよ! これを彼女から受け取ったんだけど、本当にお母さんが郵送したの!?」
「は? おい、朋子?」
「ちょっと、優奈。それって……」
それを目の当たりにした剛は動揺しながら妻と娘の顔を交互に見やり、近くに控えていた優奈の夫の康宏も、予想外の事態にひたすら困惑していたが、朋子だけはそっけ無く言い放った。
「あら……、書いていたのね。送った後、何も言ってこないから、無視したのかと思っていたわ。それで本人は?」
「『申し訳ありませんが、ここで失礼します』と言われて、これを受け取って山門で別れたの! お母さんが、ここまで無神経な人間だとは思わなかったわ!」
「優奈、何もそこまで言わなくても良いだろう?」
畳に不祝儀袋を投げつけながら優奈が朋子を非難すると、さすがに看過できなかった康宏が控え目に宥めた。しかしそれが、優奈の神経を逆撫でする。
「何よ! だって、これまでの法事の時に同席して、あなただって実際目にしているでしょう? 散々目の敵にして、ネチネチ嫌みを言って!」
「それは、そうかもしれないが……」
康宏は朋子の様子を気にしながら言葉を濁したが、当の本人は全く悪びれず、二枚の用紙を優奈の方に押しやりながら淡々と告げた。
「漸くあれと縁が切れそうで、本当に清々したわ。それはあなたから送り返しておいて。本人が届け出ないと駄目な筈だから」
「あのね!」
優奈が思わず声を荒げながら腰を浮かせ、一触即発の雰囲気になったが、ここでこれまで無言を貫いていた住職が、先程と同様の穏やかな表情でお伺いを立ててくる。
「それでは予定時刻になりましたので、法要を執り行っても宜しいでしょうか?」
「はい、お願いします。優奈、座りなさい。ご住職に対して失礼でしょう」
「……っ!」
機先を制された優奈は顔を強ばらせたが、横から康宏が腕を引きながら囁く。
「優奈。こんな場所で揉めるな。無関係のご住職にまで迷惑をかける」
「……分かったわよ」
そして優奈は憮然としながら用意されていた席に座り、真吾の七回忌法要が桐谷家の近親者だけで予定通り開始された。
本堂で真吾の七回忌法要が執り行われていた頃、敷地内の墓地にある桐谷家の墓にやって来た玲は、水を入れ直した花立てに持参した花を活け、線香を上げながら墓石に向かって語りかけていた。
「久しぶり。もう少ししたら皆さんが来るから、一人で先に来ちゃった」
少々ばつが悪そうにそう告げてから、玲は申し訳なさそうに言葉を継いだ。
「真吾は死ぬ前、特に言ってはいなかったけど……。やっぱり自分の家族とは、仲良くして欲しかったわよね。ごめん。色々至らない嫁で」
そこで溜め息を吐いてから、玲は肩を竦める。
「お義母さんから申請用紙が送り返されてきたら、なるべく早く申請するつもりだけど……、ずっと桐谷姓で勤務してきたから、今更旧姓に戻すのもちょっとね。色々と、周囲に勘ぐられそうだし。職場では、このまま桐谷で通しても良いかな?」
何も答えてくれる筈がないと分かっていながら、玲は弁解するように話し続けた。
「それから、このお墓にも入らない事になるから……。でも真吾は、その方が良かったかもよ? お墓の中で、お義母さんと私の間で真吾が神経をすり減らす事も無いだろうし。でも死んでいるんだから、すり減るも何も無いか」
そう言ってひとしきり笑ってから、玲は改めて墓石を見据えながら口を開いた。
「お義母さんと仲良くできなかった事は心残りだけど、真吾と結婚した事は後悔していないから。これからも時々、会いに来るわね」
そう宣言した玲は、すっきりした表情で立ち上がった。そして寺から借りた桶と柄杓を手にして、ゆっくりと歩き出した。
「どうしようかな……。この事をお母さんが知ったら狂喜乱舞して、山ほど縁談を抱えて上京して来そう……。暫く黙っていよう。うん、それが良いわよね」
そんな事を自分自身に言い聞かせていると、バッグの中から着信を知らせる音と振動が伝わってくる。慌ててスマホを取り出した玲だったが、発信者名を見て思わず溜め息を吐いた。
「噂をすれば影……。だけど無視しても、またかかってくるよね……」
色々観念した玲は、母からの電話に応答した。
「お母さん、玲だけど。何か急用?」
「急用ってわけじゃないけど、そろそろ真吾さんの七回忌の時期でしょう? 向こうがどうするつもりなのか、玲は知っている?」
「それは……」
咄嗟に誤魔化す台詞が浮かんでこなかった玲が口ごもると、何かを察したらしい弘美が微妙に口調を鋭くしながら詰問してくる。
「何、玲。知っている事があるなら、さっさと言いなさい」
「その……、今、法要をしているの……」
玲が恐る恐る正直に告げると、弘美の訝しげな声が返ってくる。
「え? 今? こっちに案内なんか来なかったわよ?」
「出していないと思うわ。お義姉さんに聞いたら、ご両親と兄弟だけで済ませる事にしたそうだし」
「ちょっと待って。『今、法要をしている』って、あんたはどうしてこの電話に出ているの?」
「法要に出ていないから」
「何ですって!? あの女に叩き出されたの!?」
「違うから! 私がそうしたの! お義母さんから復氏届と姻族関係終了届の用紙が送られてきたから、今後は遠慮しようと思って!」
「…………」
本気で怒り出した母を宥める為、玲が慌てて叫ぶと、弘美が急に黙り込んだ。
「ええと……、お母さん?」
「そう……。事情は分かったわ。それならそれで良いのよ。もう金輪際、向こうと関わり合うんじゃないわよ?」
「それはまた、別の話で」
「いいわね!?」
「……分かったから」
うんざりしながら一応母親に調子を合わせた玲は、ちょっとした話を弘美から聞かせられてから通話を終わらせた。
「思ったよりあっさり引き下がってくれて助かったけど、本当に疲れた……。明日は仕事だし、早く帰って休もう」
予想外に精神的な疲労を受けてしまった玲は、ぐったりしながら帰途についた。