(1)十年来の友人
「ああ……、夢だったのか……。とんだ修羅場を思い出しちゃった……。この前送られてきた、“あれ”のせいかな?」
目覚める直前に見ていた夢の内容が内容だった為、玲はこの二日間の発熱による怠さの他に精神的疲労を覚えながら、ゆっくりと上半身を起こした。
「それにしても……、結構寝ちゃったわね」
時計で確認すると時刻は既に夕刻であり、玲が半ば呆れながら独り言を口にしたところで、枕元に置いておいたスマホが着信を知らせる。
「あれ? 春日君?」
ディスプレイに浮き上がった名前の人物は、大学在学中に夫と共に所属していたサークルの仲間で、それ以来友人付き合いをしている何人かのうちの一人であり、玲は全く警戒せずに応答した。
「もしもし、どうしたの?」
「佐倉、熱は下がったか?」
第一声でそう問われた玲は、そう言えば偶々電話があった二日前、体調が悪い事を伝えて話を早々に切り上げたのだったと思い返し、申し訳なく思いながら言葉を返した。
「お陰様で。ついさっき目を覚まして、まだ熱は測ってはいないけど、多分大丈夫だと思う。寝過ぎて、身体があちこち痛い位よ」
自分の事を昔からの同性の友人達は名前で呼び、就職後や結婚後の友人は桐谷姓で呼ぶ為、旧姓で呼ばれる事も少なくなったな、などと埒もない事を考えていると、春日が予想外の事を言ってくる。
「それなら良いが。実は、近くまで来てるんだ。起きていたら、食べる物を持っていこうかと思ったんだが」
その台詞に引っ掛かりを覚えた玲は、即座に確認を入れた。
「『近く』って……、今、どこに居るのよ?」
「そのマンションから、一番近いコンビニ前だ」
それを聞いた彼女は、思わず溜め息を吐く。
「目と鼻の先じゃないの……。春日君の事だから、食べ物は購入済よね? ここまでわざわざ来てくれたのに、追い返せないわよ。お茶くらいは入れるから、上がってきて」
「悪いな。それじゃあ、また後で。あ、一応、熱は俺が行くまで測っておけよ?」
「了解」
切り際にさり気無く念を押してきた彼に苦笑いしながら、玲は通話を終わらせてベッドから下りた。
「相変わらず、一々細かいんだから」
かれこれ十年以上の付き合いになっている相手の、面倒見の良い性格に半ば呆れつつ感謝しながら、玲は彼を出迎える準備をするべく動き出した。
玲が玄関のドアを開けると、襟に弁護士記章を付けたスーツ姿であった事から、春日が仕事帰りなのは明白だった。しかし玲が口を開く前に、春日がパジャマの上にカーディガンを着た状態の彼女を見て謝ってくる。
「思ったより元気そうだな。寝ていたところ悪い」
そんな事を言われて、玲は益々申し訳なく思いながら首を振った。
「ちょうど起きたところだったし、それは良いのよ。こっちこそ、こんな格好で悪いわね」
「それこそ今更だ。取り敢えず消化が良さそうな物と、経口補水液を買ってきた」
「ありがとう。まだ外に出るのは面倒くさいし、助かったわ。測ってみたら熱は下がっていたし、明日は出勤するけどね」
独り身の気楽さで、これまでお互いに訪問し合っている仲である春日はビニール袋片手に勧められるまま上がり込んだが、リビングに入りながら懸念を伝る。
「仕事だが……。もう一日位、休んだ方が良はないか?」
相手が心配してくれているのは十分理解できたものの、玲は小さく肩を竦めながら言葉を返した。
「定休日を挟んで三日休んでしまったから、さすがにこれ以上はね。それにしても……、三十過ぎてから、急に色々ガタがきたなぁ。年かしら?」
「俺と同い年なのに、嫌な事を言うな」
「それは失礼。でも春日君は寝込んだりしないの?」
「今のところはな」
そこで互いに苦笑しながらビニール袋を受け取った玲はキッチンへ、春日はオープンカウンターのリビング側に座った。そして玲は、お湯を沸かしながら話しかける。
「体調管理も仕事のうちって事ね……。今回は素直に反省して、今度春日君が寝込んだ時は様子を見に行ってあげるわ。お互いに、実家が都内じゃないんだし」
「それはどうも。ところで実家と言えば、今回の事を実家には連絡したのか?」
「え? たかが風邪で寝込んだ位で、一々言わないわよ。うっかりそんな事を知らせようものなら、『仕事を辞めてさっさと戻ってこい』と言われるのがオチだもの」
「一人娘だから、心配しているんだろうが」
相変わらず真顔で耳が痛い事を言ってくれると思いながら、玲は言い訳がましく言い返した。
「分かってるわよ、それ位……。だけど電話がかかってくる度、縁談だ見合いだと言われる身にもなってよ」
「それはお互い様だ。……いい加減、諦めれば良いのにな」
「あら、ちゃんと話は持ち込まれているんじゃない。どうして結婚しないの?」
予想外に愚痴っぽい呟きを聞かされた玲は、少々興味をそそられながら尋ねた。しかし春日は、相変わらず飄々とした物言いで、あっさりと話を終わらせる。
「タイミングが合わないとか、条件が合わないとか、感性が合わないとか……、まあ、色々だな」
「じゃあ諸々が、ピッタリ合う女性がいれば良いわね」
「そうだな」
内心では(大学時代でも、春日君に言い寄ってる子はいた筈なのに。女性の趣味が、そんなに面倒くさいのかしら?)などと少々失礼な事を考えながら、玲は彼の前に珈琲入りのカップを置いた。
それから数分の間、二人はカウンターに並んで座りながら簡単な近況や世間話などをしていたが、珈琲を飲み終わった春日が立ち上がった。
「ご馳走さま。それじゃあ俺は帰るから……」
そう言いながら床に置いておいた鞄を取ろうと、背中を向けていた壁側を振り返った春日は、座る時には見落としていた物を認めて口を閉ざした。そして遅れて玲も、カウンターの端に広げてあるそれを思い出し、無言で額を押さえる。
(失敗した。そう言えば、カウンターの隅に置きっ放しだったわ)
これから目の前の人物に言われる内容に見当が付いてしまった玲が困り顔になっていると、春日は振り返りながら予想通りの事を言ってきた。
「おい、佐倉。これはどうした?」
何枚かの用紙を指さしながら険しい表情で詰問してきた彼に、下手な言い逃れが通用する筈も無く、玲は端的に事実を告げた。
「見て分からない? 姻族関係終了届と、復氏届の用紙よ」
「だから、どうしてそんな物が、ここにあるのかを聞いている」
苛立たし気に重ねて問われた玲は、これ以上春日相手に下手な事は言えないと判断し、正直に口にした。
「……向こうのお義母さんから、最近送られてきたのよ」
「他に私信は?」
「特に無いわ。封筒にはこの二枚だけ入っていたの」
「どういうつもりだ……」
眉間にしわを寄せながら盛大に舌打ちした春日を宥めるように、玲はなるべく明るく言ってみた。
「どうもこうも……。真吾が死んだ後も私と姻族関係が継続している事が許せないし、自分と同じ桐谷姓を名乗っている事自体、我慢できないという事じゃないの?」
しかしそれは余計に春日の神経を逆撫でしたらしく、眼光鋭く睨み付けられる。
「お前の考えはどうなんだ? どちらも法律上は他人から、この場合故人の親族から強要される物では無い。故人の配偶者の意思によって、提出される物だ」
「うん……、それは分かっているわ」
「まさかこれまで、同じ物を何度も送り付けられていたわけではないだろうな?」
「今回が初めてだから、そんな怖い顔をしないでよ」
本気で向こうに怒鳴り込みかねないと玲が心配し始めると、それが表情で分かったのか、春日は気持ちを落ち着かせるように深い溜め息を吐いてから、いつもの口調で話し出した。
「真吾の母親がお前を毛嫌いしているのは、どう考えても八つ当たりだ。そもそも仕事だって、真吾の病気が回復の見込みが無いと早々に分かってしまったから、『後々生活に困らないように、仕事は続けた方が良い』と向こうのお父さんが言ってくれたんだろう?」
夫婦共通の大学時代からの友人達は、夫の入院中に見舞ってくれたり葬儀にも出席していた為、その辺の事情を周知していた。春日が渋面でその事を持ち出すと、玲が苦笑で返す。
「ええ。それでお母さんが、真吾が入院中はずっと付いてくれていたから。それもあって、私の事を気に入らないのは分かっているのよ」
「文句を言う気は無いのか?」
「言ってどうにかなるものかしら?」
困ったように首を傾げられた春日は、玲の言い分も尤もだと割り切る事にした。
「今更か……。それもそうだな。邪魔したな、今度こそ帰る」
「どうもありがとう。助かったわ」
「朝までちゃんと寝ろよ?」
最後にもう一度念押しして帰った春日に、玲は(相変わらず過保護だわ)と苦笑しながらドアをロックし、リビングに戻った。そして再び重ねてある用紙を眺めてから、その横の壁に掛けてあるカレンダーに目を向ける。
「この時期にこういう物を送ってきたのは、やっぱりそういう事なのかしらね……」
そこに簡潔に記載してあるその予定を確認した玲は、暫く考え込んでから、春日に言われた通り食べて寝るべく再びキッチンに戻って行った。