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 十月十二日水曜日 午前五時
 猪狩山山頂付近

 吉村哲治は根曲り竹の手製の杖を突いて難渋の末、ようやく山崩れした山頂付近に辿り着いた。
 雨が止んで間もない早朝のまだ暗いうちから危険を顧みず自身の所有する猪狩山に足を踏み入れたのは山崩れの被害状況を確認するためだったが、ここまで来るのは七十過ぎの老体にはきつかった。
 獣も躊躇するような獣道を杖を頼りに上がってきたが、ここまで来られたのはやはり農業で鍛えた体が根本にあるからなのだろうと哲治は自負した。
 ようやく輝き始めた朝日が木々の間から差し込んで、流された剥き出しの山肌を照らす。
 何代も前から吉村家の所有する猪狩山だが、杣山ではないので伐採も植林もせず、荒れ放題に荒れていた。
 昔からそこにただあるだけの山で、哲治が引き継いで以来、誰も遊歩道から上には入ったことがない。
 遊歩道もそう呼ばれてはいるものの特に景観がいいわけでもなく、近隣住人の散歩コースにすらなっていない。
 W高校が設立された時、土砂崩れの危険を回避するため法面を整備し、麓付近のみ道を開削した。いわばW高校のついでにできた道と言ってよく、体育系クラブのランニングに利用されている。車道よりも安全で、そういう意味で重宝されていた。
 哲治はわざわざ自分から山を提供するような奇特な人間ではない。他に何も利がない山なので、学校の要望に応えて使用を許可しているだけだ。だから、もし生徒の身に何事か起こっても責任はない。
 だが、山自体に何事か起これば、それには責任が伴う。
 今回の山崩れが遊歩道や学校、麓に点在する民家等にまで影響がなく胸を撫で下ろしていた哲治だったが、状況は把握しておかなければならなかった。
 しっかり根を張った竹をつかんで拠り所にすると中腹辺りの斜面に溜まった土砂を上から覗き込んだ。流れた竹が絡み合い今のところ第二の山崩れを起こす心配はないように見えたが、また豪雨が降ればわからない。今度は大災害を引き起こすかもしれないと考えると、そのまま放置するわけにはいかなかった。
 山の所有者だと言っても隠居の身だ。息子たちに相談せねばなるまいと溜息をついた。多額の出費にきっといい顔はしないだろう。
 哲治は自分の立っている場所をぐるりと見廻した。現在は竹藪になっているがもともと平坦でかなり広い土地だったのだろう。竹と竹の間には石が点在し、家の土台に使っていたような形跡がある。炭焼きの集落があったのかもしれない。だがそれもうんと昔、哲治の何代も前の話、石を覆う苔がそれを語っていた。
 豪胆な老人はもう一度崩れた場所を覗き込んだ。
 足の下は引き千切れた竹根と抉られた土の傷痕が生々しい斜面になっているが、本来はここも平らな土地の一部だったはずだ。
 崩れた範囲が広ければ確実に麓まで土砂が流れ込んでいたに違いない。
 哲治は改めて不幸中の幸いというものを実感した。
 びょうぅぅと斜面から吹き上げた風が頬に刻まれた硬い深皺を撫でる。ひどく獣臭く感じた。
「なんやろ」
 すべり落ちないよう注意しながら真下を覗き込む。二メートルほど下に黒い穴が見えた。土が抉られ剥き出しになったようで、大柄な哲治がすっぽり入るくらいの幅がある。
 明らかに小動物の巣ではなく、かといってこの山には熊や猪はいない。どちらにしてもこんな深い縦穴は巣などではないだろう。
「なんの穴や」
 かなり抉り取られているにも拘らず、まだ残っている穴の奥は計り知れないほど深く黒い。穴口近くでは土砂に混じり千切れた茶色い紙が何枚もひらひらと風に揺れている。
 穴の中から薄い綿状の霧のような白いものが噴き出て来た。
「あれなんや」
 哲治は危険を顧みず、穴をもっと覗き込もうと深く頭を下げた。
 その瞬間、穴から濃い獣臭が吹き上げ、霧状のものと共に何かが飛び出してきた。が、それがいったい何なのか、哲治は確認することができなかった。それに頭を丸ごと咥え込まれたためだ。
 一瞬、「半分に切ったスイカみたいや」と思ったが、哲治の命はそこで断ち切られた。

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