5 玉生ホームで朝食を
夢の中で、玉生は一本道を歩いていた。
ただその道は薄暗く、そして緩やかなカーブを描いている。
時々、視界が切断されて、その間の記憶も飛んでいる様に思う。
しかし夢の中とはいえ自由にならない身体は、もしかしたら玉生本人のものではないのかもしれない。
そう思ったとたんに、目線だけがフワッと上昇し、俯瞰になり――
「あれ?」
目が覚めると赤いクッションに頭を埋めて、誰かが掛けてくれたらしい薄手の毛布に包まっていた。
この家は断熱がしっかりとしているらしく、床のラグと空調は一晩しっかりと玉生を冷気から守ってくれた様だ。
ほかのみんなも玉生に合わせるようにモゾモゾと動き始める。
どうやらあの後、本当にみんなここで雑魚寝したらしい。
ソファーやラグの上で横になっていたのが起き上がって、それぞれ「おはよう」と口にして動き出している。
キッチンへ行く者、洗面所へ行く者、当然の様にいそいそと和室に向かって行く者もいた。
少し考えた玉生が、朝食を作る手伝いをしようとキッチンへ足を向けると、そこには先に来ていた翠星が焜炉の前に立っていた。
「おはよう」と挨拶をした玉生に、きちんと顔を向けて「はよ」と返事を返してから鍋に向き直り、彼はその中身を長いお玉でぐるりと回した。
「さて、何作るか……昨日のカレーは半端に残ってるし」
まずはカレーに火を入れている様で、「油断してるとカレーはすぐ傷むからなぁ」とメニューについて悩んでいる様だ。
そこへ玄関側の水道で洗顔を済ませて来たらしい駆が、廊下側の扉から入って来た。
二人の会話が聞こえていたらしく「朝カレーなら、カレートーストとかが無難じゃないか?」とカレーの鍋を横から覗き込んで「ペーストにするには、ちょっと多いか?」と首をかしげた。
「カレーうどんは? 乾麺があったよ」
玉生が収納でちらっと見た平たい乾物の麺を思い出していると、「お、そりゃいいな。マオマオはサラサラとトロトロのどっちが好きだ?」と駆がその棚に足を向けたので、慌ててその後を付いて行く。
そうして、食糧庫になっている棚を開きながら場所を譲る駆の問いに、玉生の食べた孤児院のカレーうどんは出汁入りの水でのばしてスープ状にしていると聞いた覚えがあるのでそう答える。
適度に区切られた棚の中は[粉]や[乾物]といったラベルの付いた箱類や籠などで種類ごとに分類され仕舞われている様で、乾物の木箱の中からうどんの乾麺を取り出している玉生を横目に、駆は粉の木箱を引っ張り出した。
「片栗粉があれば、とろみがついて食感変わるんだけどな。麺に汁が絡むからそれも――と、片栗粉あるな」
駆は片栗粉の袋を一つ手に取ると、人数分のうどんの袋を持ったまま『後いくつあったら足りるかな?』と悩んでいる玉生の手からうどんをさらった。
「ヨーミンは朝からそんな食わないだろうし、マオマオも一玉完食とか無理だろ? スナさんは朝ガッツリいくけど、多分ほかにもなんか付くだろうから追加は四玉あればいいんじゃないかな」
麺類の詰まった木箱を見て「う~ん」と唸っている玉生に助言して、「なんなら昼に食べたい物とか、ついでに考えるのもいいと思うぞ」と駆は先にキッチンへと戻って行った。
ちょうど洗顔を済ませて来たらしい詠が「朝食はうどん……この匂いはカレー。つまりカレーうどん」と玉生の横に立って呟くのに、「うん、カレーうどんだよ。それでね、お昼に食べたい物、ある?」と訪ねてみると、食糧庫を見渡していくつかの木箱を覗いて回る。
活字中毒の彼は物語に出てくる料理に興味を惹かれそのレシピを探した時、その画像入りの過程に知識欲を刺激されたらしく、それ以来レシピ本も読書対象となっているのだ。
結果、調理などする気はないが、今ではその方面の知識はなかなかのものでメニューについての助言も具体的なものなのである。
「……昨日の果物もあるし、冷蔵庫のハム・チーズとかパンを買って挟むか……む、薄力粉と膨らし粉があるなら、奴らパンケーキが作れるだろう。多分」
「パンケーキ! でも、う~ん……生クリーム冷蔵庫にあったかな?」
昨日冷蔵庫の中を確認した時に、サイドポケットに飲み物のパックが並んで違うデザインの牛乳パックが何本かあったのを見たのだが、玉生のバイト先で使っている生クリームも似た様なパッケージなのでそれが混ざっていた気もする。
今、玉生の頭にはフルーツサンドが浮かんでいるので、フルーツとパンケーキには生クリームをと舌が期待してしまっているせいで、そうであってほしいという希望から記憶が錯覚を起こしているのかもしれないが。
それに冷凍された大量のアイスクリームが衝撃的で、その辺りの記憶をすっかり持っていかれてしまったのもある。
ここで玉生がいっそアイスクリームを生クリームの代わりにしよう、とならないのはあくまで食事として考えているからで「ご飯を食べてからじゃないと、お八つは食べさせません」と教育された結果であろう。
そこに二人の会話が聞こえたらしい翠星が、「全部牛乳パックかと思ってたけど生クリームもあったから、それでデザートも作れるぜ」と冷蔵庫の中を確認してくれたらしくそう教えてくれた。
朝食はカレーうどんに昨日のご飯の残りで焼きお握りを付ける事に決まったが、「ジャージだからいいけど、カレーうどんは跳ねるからな」「やっぱりエプロン必要っすね」という駆と翠星の会話に、「確かに」と玉生も同意して頷いた。
「作業着と一緒に箪笥にあっただろう」
「あ!」
そこで詠が、一度に家ごと大量の物を贈られたせいで頭がふわふわで記憶力も低下している玉生に、夕べ見つけたエプロンの事を思い出させた。
それで玉生が急いで胸当て付きの物を人数分選んで箪笥から引っ張り出して来た姿に、家にある物が自分の所有物になった自覚がまだ薄い彼でも、こうして自分の手で出し入れしているうちに自然とその扱いに慣れていくだろうと詠は密かに頷いたのだった。
そのエプロンを駆が一枚手に取って広げてみると、汚れに強いデニム生地の素材で作られ、バランスを考えて付けられただろういくつかのポケットがアクセントになったデザイン性にも優れた一品だった。
「これならちょっと工作する時とかにもいいな」
「作業着もあったよ。ツナギとかデニムのオーバーオールとか」
「制服着てる時とかに、ちょっと作業するならこっちの方が便利なんじゃね?」
キッチン組は料理の時に使うべしとさっそく着用してみたが、なかなかにお洒落で全員が気に入った様だ。
「ああ。日尾野が出かける前に猫と戯れる時の、猫の毛防ぐのに良さげ」
「詠のながら読みで物を食べながら、服に食べこぼして汚すのもな。今日のカレーうどんなら必須だろ」
相変わらずの微妙な会話にどうしてもハラハラしてしまう玉生をよそに、寿尚の言葉に特に反論する事もなく「うむ」と頷いた詠は、「これで跳ねを気にしないで食べられる」といそいそとエプロンを着た。
幼少時は襟元から紙ナプキンでガードできていたソース類が、大人はナプキンを膝に置くのがマナーとなって不便に思っていたので、前掛け部分がちょうどいいと思った様だ。
自分のジャージを見下ろした寿尚も、「黒で汚れは分からなくても、どこが汚れているか分からないで匂いがするのってかえってイヤだな」と呟いてエプロンを着込む。
そして玉生たちがキッチンで朝食を作っている間、二人で先にテーブルに着いて昨日から家を見て回った感想などを話しながら待つのだった。
朝食の準備は玉生が出汁でカレーをのばしているいるうちに、翠星が乾麺をゆでながら片栗粉を水溶きして「ちょっとずつ垂らすから、ゆっくり混ぜろ」ととろみ付けを手伝い、駆は先に三人がかりで握って準備しておいたお握りに醤油を塗りながら網焼きしている。
そうやって手が空いたら互いの作業を手伝うと、朝食の準備は手早くあっという間に終わった。
その時から醤油の焦げた匂いに誘われていた玉生は、お握りを食べた分うどんは半玉にしてもらったが、片栗粉でとろみがついたカレーうどんは美味しくて傍目にもよほど夢中で食べていたのか、「カレーの時は、またうどんで食べような」と駆に笑われてしまった。
出会い当初のむしろ欠食と言いたくなる様な小食さを知っているだけに、保護者目線で喜ばしい気持ちになったらしい。
それは当然、寿尚も一緒で「ちいたまもチャトからささみの缶フレークちょっとだけ分けて貰ってたし、成長とは感慨深いものだねえ」とこちらは詠に「親目線か」と半ば呆れた目で見られた。
ちなみに「チャト」とは温室で発見された茶虎猫の事で、「チャトラッシュ、愛称はチャト」と名付けたそうだ。
妙に貫禄があるので、チャトでは軽すぎると思ってのこだわりの名付けなのだそうだ。
今はそんな雑談も挟みながら食後のまったりとした時間で、ガラスの皿に載せられているスモモとサクランボを紅茶と一緒にデザートにして摘まみながら、今日の予定を話している。
ちなみに、紅茶はティーポットが無事発見されたので、たまが張り切って淹れた。
「それで、今日は地下見るんすか? 庭とか温室もまだ、ちゃんと見てねえんすけど」
スモモを囓りながら翠星が言うと、「……考えてみたら」とサクランボを手にした詠が気難しそうな顔をした。
「この辺は東京湾の埋め立て地。地下に家屋を延長するより広い庭を利用するものでは?」
「貿易港のビルとかだと土地に余裕がないから、補強して地下に駐車場造っているけどね」
「ワインセラーとか地下に造るから、そういう理由があるかもだな」
「貯蔵庫も冷暗所って地下だったりするっすね」
「院のボイラー室は地下にあるんだって。危ないから入っちゃ駄目で見た事ないんだけど」
みんなの返事に頷きながらも、「そして地下牢もお約束」とサラッと言い放つ詠である。
昨夜のファンタジー映像が脳に与えた影響なのか、物語に見る西洋の城を夢に見た玉生が陰鬱な東洋的監禁の座敷牢ではなく、冒険活劇にありがちな牢破りの方を連想したのは幸いだった。
なんといってもこれから住む自宅の事だ。
ただでさえびくついているのにそんな印象まで持ってしまっては、これからの生活に差し障りが出てしまう。
「ああ、でも海底トンネルっていうのもあるから、そう考えたら案外奇抜なわけでもないよね」
「米利堅なんかだと竜巻から避難するのに、地下室作るのが当たり前だっていうしな」
食べ終わったサクランボの種を利用するという翠星にそれを回収される頃には、階段を下りる位は何の問題もないだろうという結論が出た。
多少汚れてもいいという事で全員ジャージ続行で、探検の残りに出掛ける事にした。
裏の玄関口に面した廊下は正面のホールの様な広さは無いが、それでもそこに設置された蓋の付いた収納棚が通行の邪魔にならない程度には余裕があった。
その廊下を駆が先頭になりその斜め後ろに翠星が、続いて詠その後に玉生で殿に寿尚という並びで進み、さらに先にある階段を下って行く。
廊下がそうであった様にセンサーで頭上の明かりが点灯する階段は、途中の踊り場から横幅が緩い放射状で末広がりに長くなっていき、最後の段には完全な半円に広がる形になっている。
その床の材質も途中までは廊下から続く象牙の白一色だったのが、踊り場からそこに淡い灰色の斜線が少しずつ入りはじめ、階段を下りたその先ではその渦の中心に向かって床の素材の象牙色が徐々に灰色掛かり黒になっていくのに連れて、明るい白・灰・ベージュのランダムなラインが巻き込まれるように流れていき、その全体の色彩が反転していく様は中心の黒に飲み込まれる錯覚を起こしそうだ。
そんな床につい気を取られるが、上に目を向けると階段が長かっただけに辿り着いた先の空間は天井が高く、写真で見る様な美しくステンドグラスで装飾された外国の教会のホールにでも使えそうな広さを目の当たりにするのだった。
ここに来るのに地下という事で懐中電灯やペンライトを持っている者もいたが、この地下の空間は床と同じ質感に見える壁の四面と天井からそれ自体が発光している様で、象牙の柔らかい色調の白一色に照らされ明かりを必要としてはいなかった。
均一の明るさを保ってハッキリとした光源が分からないのに視界に不自由がなく、妙な物が放置されている事もおかしな仕掛けがされている様にも見えず、当初心配していた荒廃の危険も見当たらないむしろ整然とした場所なのである。
この広い空間でこの光源の造りは不可思議ではあるが、自然に発光する石が存在してこの場所に使用されているという可能性や、実は石に見えるデザインの大きなシーリングカバーですぐ裏には照明を仕込んでいるという可能性も皆無ではないだろう。
「ん~、こちらに対する悪意は感じないから、ちょっと謎の物質でできている地下のスペース位に思ってていいと思うぞ。壁も丈夫そうで多少暴れても問題なさそうだし、なんなら雨の日には有効利用できるんじゃないか?」
時々ペタペタと壁に触れながら、駆がグルリと一周してきて首の後ろに手をやりながらそう言った。
中心の黒い部分に足を向けようとすると、どうしても視覚的に沈んでいきそうに見えてしまう玉生が『ひっ』という顔をするので、今回は空気を読んだのだ。
みんな顔を見合わせてしばらく互いを窺う様な間ができたが、「特に悪い気配はしないので、意見は保留」という詠の発言もあり、傍野に尋ねるにしても今は深く追及せずに、とりあえず地下には大きな倉庫があったという見解で納得する事にした。
「ただ、丈夫そうに見えて天井部分の耐久性も不明だし、安全性がハッキリと確認できるまでは万が一を考えて、ここに下りる時はメモ位――いや、いっそ伝言用の白板でも壁に掛けておくべきだね」
「行き違いを防ぐには確かに有効。在宅外出が分かる工夫があれば、なお良し」
「あ、そりゃ自分も賛成す。食事のいるいらないの確認も、できたら事前に分かるといいと思うんすよ」
「残しておけば後から、っと。いや、マオマオが食べないで待つとかありそうだな」
言われてみれば確かに、自分でも不在の同居人より先に食事をするという事に躊躇いを感じそうな気はする玉生である。
実際に彼は「もう帰ってくるかも」「やっぱりもう少し」と延々と待ってしまうタイプである。
それというのも本来の性格以上に玉生の育った孤児院の、班員は揃って食事を取るという規則の様なものが身に付いている影響が大きい。
倫理道徳教育の成功というより、決まった時間を守らない事で後の片付けに響くという物理的な問題が起こると、連帯責任で大量の食器の片付けを手伝わせるという罰則体験による成果である。
つまりその結果、集団ではより効率よく情報を共有するという流れが働いていたのだ。
もとは判断力を育て、ある程度の年齢に達したら班ごとに自主性を持たせ、大人からの独立心を育てるという方針ゆえのものであったらしい。
それが玉生の本来の性格と幼児体験に合わさって苦痛も感じず“待つ”という、ある意味で放置される行為に耐性ができてしまっているのだ。
実際に当日風邪をひいていたせいで集団の予防接種が受けられなかった玉生ともう一人の院生が、孤児院の職員に連れられ近所の診療所で改めてその注射を受けた帰り道で、そのもう一人の具合が悪くなりまだ新人だった職員がパニックを起こした結果「ちょっとそこで待ってて」と言ってしまったばかりに、夜遅くまでそこで待っていたという事がある。
その時はその院生が入院の必要があるという診断を受けたが診療所に入院の施設は無く、大きな医院に行って改めて診察入院の手続きといっぱいいっぱいの職員が、すっかり玉生の事を忘れてしまっていたのだ。
孤児院の方では玉生がいないと同じ班の院生から報告はされていたが、戻っていないという事は彼も一緒に行動しているのだと思い込まれていた。
職員が戻って来てから玉生が一緒ではないと判明して、慌てて診療所への道を辿りようやくぼ~っと待ちぼうけ状態の玉生を連れ帰ったそうだ。
どうやら「“そこ”で待ってて」と言われたので、いつ来るか分からない“そこ”から動くに動けなかったらしい。
後にコミュニケーション能力が高い顔見知りの院生が、よくバイト先に玉生を訪ねるついでに客になる寿尚にこの話をして「院長とかに、そんな待たないでいいとか言われても、イマイチあいつピンときてなかったぞ」と注意を促されたので、仲間内でもその辺は要注意とされているのだ。
「留守に気付かない問題もある。表の玄関ホールに外出の際、裏返す名札を人数分設置し、広い敷地内を無駄に探して回るのを防ぐの推奨」
「ああ、確かに。それでホワイトボードを電話機の近くに置いて……ついでに伝言板が二階の突き当たりにもあれば、部屋に上がってから思い出した時に利用すると重宝するだろうね」
「玄関ホールの壁はフックが名札用のボードに使えそうだし、ホワイトボードはキャスター付きのヤツか手頃なサイズが無いなら適当にイーゼル使えば壁に細工して傷付けなくてもいいか。ま、近いうちにサイズ測ってみてからな」
地下から階段を戻りながら話がどんどん進んでいき、玉生が遠慮する間もなく色々と決まっていく。
彼らにしたら引っ越し祝いも兼ねているので、玉生が家を相続したと聞いた時点で必要な物を贈るスポンサー組と後日のメンテナンス込みの労働組とに役割を分担して――と家のスケールは予想外だったが、話しがついていた通りに進めるだけであった。
しかも自分たちも直接利用する物であれば、余計にこちらが先に手を回すのに躊躇がない。
ちなみに玉生相手に上手く付き合うコツは、必要以上に気を使う間を与えない事だ。
「あー、これで一応は一通り見て回った事になるんすかね?」
靴箱の前で翠星が誰に向かってというわけでもなく言うと、「外階段がある、という事は屋上がある可能性」と詠が返した。
「ここまで完璧にしているのに、屋上に問題があれば引っ越し前に注意されていたんじゃないか?」
そう聞いて外階段を上ってみる気になったらしい駆が裏玄関に足を踏み出すと、「あ、自分も一緒していいすか? 上から庭の感じ確認したいっす」と翠星も同行しようと後に続く。
「言われてみれば、確かに迂闊だったな。俺も確認しておこう」
そう言って玉生の方を見て「たまも行くだろう?」と誘う寿尚に、乗り遅れていた玉生はコクコク頷いて後を追い裏玄関に向かう。
詠は当然の様にもう外へと足を踏み出している。
扉を出ると早くも角を曲がろうとする大柄な後ろ姿があったが、同行する玉生たちに気付いて立ち止まって追い付くのを待っていた。
「このラティスの向こうは、木がまばらだな。何かあるのか?」
「上から見たら分かるんじゃないすか?」
二人に追い付いて角を曲がると、家から少し幅を取った位置に細木の素材を菱形の格子に組んだ柵が壁と水平に延びていた。
駆たちはそのラティスの上から向こう側が覗けるのでそちらに気を取られているが、玉生と詠にとっては頭よりも高さがあり、その上そこいらの蔓が絡んで格子の目を塞いでいるためろくに向こうの様子が見えない。
それで視線を移して、ラティスが延びた先の方に注目すると、格子の木の塀は温室のある端にまで届いている様だった。
家の幅から飛び出した温室部分をよく見ると、そこにはドアノブらしき取っ手があり、おそらく温室へ出入りする扉があると思われる。
その玉生たちの視線の先に気付いた寿尚が「ミミ」と駆を呼んで指差すと、目のいい彼はガラスの壁の一部が扉になっているのをハッキリと目視できた様で「おう、ちょっと見てくるな」と駆け足でそこに駆け寄り、取っ手を握った。
もし扉の鍵が掛からない場合、室内のうちだと思っていた縁側の戸締まりについて認識を改めねばならないと、試しに外から開こうとしたのだ。
「よし、開かないぞ。鍵穴もあったし、ちゃんと鍵が掛かっている。ついでに触ってみた感じ随分と丈夫そうなガラスだったぞ」
跳ねる足取りで戻って来た駆の報告に、「貰った鍵の束あるけど……」とホルダーのフックに掛けた一本の鍵を通したリングと、うるさく音を立てない様に革のケースカバーでキッチリとまとめた鍵束を、玉生はジャージのポケットからそっと出して見せた。
初日に玄関を開けた鍵はあらかじめ一本だけカバーの外に出ていたので探す手間もなく、家の中に入るという事で限界に近かった玉生は色々と頭が回らない状態で複数の鍵が手元にあるという話もしておらず、ホルダーの中にある鍵についてはみんなも気付かないままだったのだ。
「あー、そういや合鍵とか無いと不便だよな。鍵屋で人数分の複製するなら、引っ越しまでに知り合いに頼むか?」
鍵の有無は、在宅時はともかく家の施錠された外出と帰宅のタイミングによっては、閉め出された状態になるおそれがある。
庭に出ているのを気付かれなかったり就寝してしまった場合にも、やはり閉め出したという結果になる事もありそうだ。
ただ複製を頼むのに一時的とはいえ家の鍵を預けるなら、万が一の事を考え情報漏れの心配のない職人に伝手を使って頼もうと考えた駆が提案すると、「待て。鍵束に予備が無いか確認するのが先」と詠からの待ったがかかる。
「まあ、そうだね。たま、その鍵束ちょっと見せてくれる?」
家が大きくて玄関まで鍵を開けるために出迎えるのも一苦労なので、せめて表玄関は人数分の鍵は用意しないと不便すぎると、寿尚は玉生から受け取ったキーケースの中に同じ型の物が無いかと比べようとした。
それで何気なく一つだけ表に出ている鍵を見て、「随分、複雑な形だけど。もしかしたらマスターキー?」と呟いてから、キーケースを開いて中の鍵束と見比べた。
そうしてしばらくチャリチャリと一通り突起部分を確認してから、「ミミ」と駆の前にキーケースごと鍵をぶら下げた。
「二階の部屋と同じ色のリングの付いた鍵と、ほかに何本か鍵が入っていた。色リングに付いている鍵は、表に出ていた鍵とほぼ一緒の形に見えるけどどう思う?」
まずは目の前のそれをじっと見た駆は、鍵束の重なった部分を指でチョイと退けて確認しながら、「うん」と頷いた。
それから「多分な」と自分の推測を話しはじめると、詠と翠星もそれについての見解を述べる。
「この一本は全部の鍵と形が被っているから、マスターキーの可能性が高いな。この辺のはよく見たら小さく崩した漢字で、“玄”とか“裏”とかあるし比較的に単純だから玄は玄関で裏は裏玄関じゃないかな?」
「色リングは全部微妙に形が違う――二階の個室になる部屋だけは、その色でしか開かない?」
「あー、なるほど。そうなら鍵一本で玄関と部屋に使えるだけでも便利すね」
その結論を聞いた玉生は、部屋の扉と同じ色のリングの鍵を、手元に戻ったキーケースのフックから外してそれぞれに渡したのだった。
「後で試してみて問題ないなら、そのまま使うって事でいいと思うんだけど……こっちの鍵はどうしよう」
自分も赤いリングの鍵を外して手にした玉生が、場所ごとに個別の鍵とマスターキーと推定されている鍵と予備なのか黒のリング付きの鍵がフックに収まっているキーケースを、困った様に見ている。
「通常は別に暮らして非常時に訪ねて来る身内か友人知人に預ける。か、郵便受けやその辺の植木鉢の陰など適当な所に隠すものらしい」
詠が後半は自分でも不可解そうに、「防犯的に問題だが」と一般的な知識らしいものを披露している。
どこから得た知識かは不明だが、ほかのみんなも頷いているので玉生としては「そうなんだ」と素直に納得した。
しかしその一般的な手段の問題ない方だと、玉生には預けていい人の判断ができない。
「みんなは同居するし、すぐ来てくれる身内の人――いないし」
「尾見さんに頼めばいいんじゃないのか? あの人は人を動かす人でずっと家にいるし、万が一用事があっても上手くフォローするだろうからお勧めだぞ」
そんな風に悩む玉生に対して、駆があっさりと提案してきた。
「ああ、そうだね。たまがいいなら尾見に頼むといい」
寿尚の家の執事にそんな頼み事をしていいのかと少し躊躇する様子を見て取ったのか、「たまの頼み事なら、尾身も快く引き受けてくれるよ」とニコリと頷いてみせる。
玉生としては傍野に預ける事も考えはしたが、本人の口から「探偵なんて予定変更はしょっちゅうだし、用事があるなら電話してくれたら伝言残せるんでそっちに頼む」と言われている。
ついでに「急ぎの用事で連絡がつかない場合は、悪いが君の友達の日尾野君に相談してくれ。それで以前から君の叔父さんが、色々と煩雑な事を任せている弁護士なりに連絡がいくはずだ」とも断りを入れられた。
なので正直なところ、寿尚と仲良くなってからずっと世話になっていて信用できる尾見に任せられるのは、玉生としては願ってもないのだ。
ただ尾見は日尾野の家の使用人であって、個人的な頼みなどおそらく玉生の方からは言い出せない相手でもある。
「え、と。じゃあ、今度お願いしに、尚君のおうちにお邪魔するね?」
そのやや遠慮気味な姿に、「それにはまず家中の鍵穴に、この鍵がどこまで使えるか試してみないとダメだろ」と緑のリングを指に引っ掛けた翠星が、玉生の頭をぽんぽんと軽く叩いた。
それで鍵の問題に結論が出たとみた詠が、また横道に逸れる前にと階段前にいる駆をそちらの方へとグイっと押した。
「その前に、いい加減さっさと当初目的の階段上るべき」
「外の回廊も余裕があるな。お? こんな所にもベンチがある」
ここも段差を緩やかにするためか二階までに折り返しで踊り場のある階段を上った先、左右に延びるベランダの角にピッタリのベンチがあるのを見た駆が感心した様に言ってから、「でも、なんだこの既視感は?」と首を捻った。
「商業施設ではよく見る」
「それか!」
「君はよく美術展に行ってるのに、その注意力はどうなんだい?」
詠の言葉にポンと手を打って納得する駆に、寿尚が呆れた声で半眼になる。
「こいつの事だ。椅子も展示物として見るか、目に入ってないか」それにフォローのつもりがあるのかないのか詠はしれっと言ったが、言われた方も「それな」と笑って肯定するのだった。
「まあ、なんといっても広いっすから、途中で荷物置いたり休憩したりする場所があるのも悪くないっすよ。で、次は一応ベランダの両端、見に行くんすか?」
ベランダの両側を伸び上がる様に見ていた翠星が、「それともそのまま上に行くんすか?」と目線を階段の先へと向けて尋ねてくる。
家主の玉生は、ここのベランダは自分以外の部屋の住人の物だと思っている様で、完全に寿尚たちの返事待ちで「どうするの?」という目で彼らを見ているばかりだ。
実際に、どうやら各自の部屋にある掃き出し窓はこのベランダに面していて、そこから出入りできる造りになっている様である。
「う~ん、左側ってこの辺は多分オレの青い部屋でこの辺が廊下の突き当りで、あそこに見えるのがヨーミンの黄色い部屋の窓だろ? 多分、もっと先には二階の風呂トイレ前の廊下の窓があるはずだな」
駆にそこが自分の部屋だと言われた詠が、一番近くの人が出入りできる大きな窓に近寄って中を覗き込むと、「確かに奥に天蓋付きの寝台がある」と頷いて戻って来た。
「右側は、ミミ先輩・自分・スナ先輩の部屋の窓ってわけっすね」
「だろうな、多分。ま、気になるなら屋上の帰りにそっちにも寄ればいいし、上に行くって事でいいか?」
返事を聞く前にもう階段の上り口に足を向けた駆に、みんなも特に異論はない様で「いい加減、昼になりそうっすからね」「ちいたまの事もそろそろ気になるし」と言いながらぞろぞろ後に続く。
そして、ようやく辿り着いた屋上である。
まず上ってすぐ目に付く手前に張られた天幕のその下、ウッドパネルで一段高い場所を作り土台にしてベージュ系のソファーセットが置かれ、その周囲にはベンチ型のブランコや鉢植えの観葉植物などが点在していた。
さらにその奥には、壁の半分の面に一枚ガラスの使われた、そこそこ大きい小屋が屋上の向こう半分の三角屋根を背景に設置されている。
彼らの予想になかった屋上の風景だが、ソファーについてはもうこの家のそういう“おもてなし”なんだと、いい加減に慣れてきた。
それに考えてみれば、この広い家屋にそういう“設置されている物”が無い状態を想像すると寒々しくて、その対策として広い場所を埋めるという役目もあるのかもしれない。
とりあえず小屋の方へみんなで進むと、入り口の扉側にはポーチがありロッキングチェアが置かれ、その奥には結構な量の薪が積まれていた。
「僕が写真で見た山小屋って、こんな感じだったよ」
「あー、なんか分かるぞ。爺さんと膝掛けとパイプがロッキングチェアとセットのヤツだろう?」
「そう。顔の下半分が髭で隠れているお爺さんが、こういう椅子でユラユラしてるの」
「ああ、晩秋? みたいな」
「古いウヰスキー広告の世界……」
「言われりゃイメージが琥珀フィルターなのは、記憶がそれに紐付いてるからか。なるほど、これがサブリミナル」
玉生と駆のやり取りを聞いたほかのみんなの頭の中にも、おそらく類似画像が浮かんだと思われる。
「おっと、さすがに屋上に突っ立っていたら体温持っていかれて体を冷やすからな。とりあえず小屋の中に入るってのはどうだ? マオマオ」
「うん。それで、あのね、せっかくだからここの鍵が開くかみんな試してみたらどうかな?」
天気が穏やかで風が凪いでいるおかげで、この時期の割に屋上でジャージでもさほど寒さを感じるわけではないが、施錠の確認のために金属のドアノブに触れた手の冷たさに、吹きさらしに長居はよくなさそうだと思い至った駆は「それは賛成だな」とさっそく青いリングの鍵を試した。
その結果、扉は全員の鍵で開閉が可能な事が分かり、念のためにキーケースのほかの鍵でも試してみたが一本目のマスターキーと黒のリングの鍵以外は、屋上か小屋を略したと思しき“屋”の文字がある専用の鍵以外では開く事はなかった。
そうやってひとしきり鍵の確認を済ませてから扉を開くと、大きなガラス面から外の明かりが入って中の様子が見て取れた。
しかし、よく見ると小屋の中には仕切りがあって今はその蛇腹のパネルが開かれているが、それを閉じると扉側のガラスからの外光はおそらく遮られるだろう。
そして仕切りからこちらの扉側には、壁に沿って設置された部屋幅の三分の一程度を埋めるテーブルが仕切りの位置までを占め、逆側に棚とだるまストーブが置かれていて、扉の横の目立つ位置には何かのパネルがあった。
小屋の電気のスイッチと横に微妙に形が違うコンセントがいくつか、それを見た駆が「外国産の電化製品はプラグがバラバラだからな」と薄暗い中で目を細めて観察した結果を報告した。
「で、このオープン表示のあるレバーは、どこが開くんだと思う?」
そう言って駆が指差したのはパネルの中にある上げ下げするレバーで、丁度真ん中に九十の数字が記されている目盛り付きだ。
「開くに数字ときたら、角度だろう」あっさりと詠が言うのに、「壁か上か……まあ、動かしたら分かるか」とレバーに指を掛けた駆に寿尚が「試しに半分位で止めておけよ」と釘を刺した。
「了解」と駆が下がっていたレバーをグイっと半分の位置まで上げると、彼らの頭上の天井がゆっくりと開いていった。
どうやら仕切りからこちらの屋根だけが開閉式になっていた様で、中央から半分の屋根が直角に上がっている。
それを見た駆が無言で目盛りを上げ切ると、残る半分の屋根も開き天井がすっかり全開状態である。
つまり天井が二分割に持ち上がって割れる仕掛けになっていて、これなら空気の入れ替えなどはすぐに済むだろう。
そして、奥の壁ガラス側の中心にはシンク付きの作業テーブルが置かれ、ガラスとは逆の壁には背もたれの無い丸椅子がズラリと並べられ、その突き当たりには出入りの可能な掃き出し窓があった。
「ここは、あー……秘密基地的な?」
「作業小屋だと仮定するのが普通」
「油絵みたいな臭いがきついのとか、木工工作の木屑とか出る作業には良さ気だよ。ちいたまの環境のためにも、その手の作業はここで済ませてくれるとありがたいね」
「換気が楽そうだからニスとかコーティングの時は、使わせてもらうと助かるな」
「乾燥させる時とかもこういう独立した場所があると放置できるぜ。これはドライフルーツ干すのがはかどるぞ、くらタマ」
「あ、うん。その、構わないから、自由に使って、ね?」
そこで腕時計で時間を確認した寿尚に「そろそろ、下に戻ろう。ほら、もう屋根は閉じちゃいなよ」と声をかけられ、「了解!」と駆がレバーを下げて屋根をもとの様に閉じたのを機に、とりあえずチェックは済んだという事で小屋を出る。
その際、屋根という連想からか詠が眼鏡のフレームに手を掛けて、ふとこちら側より高い位置にある三角の斜面を見上げた。
「向こうで三角屋根が飛び出しているが、吹き抜けで梁も勾配も見えないという事は屋根裏があるはずだ」
「屋根裏か。屋根裏部屋とか浪漫だよな」
「今の状況でも、たまはいっぱいいっぱいなんだから、そういうのはもっと落ち着いてからにしてよ。とりあえず、これで一通りは見て回ったという事で、後は各自で気付いた事を報告連絡相談する、でいい?」
「ああ、もうそろそろ昼飯の準備するのにいい時間っすしね。パンケーキ以外にリクがあったら早目によろしくっす」
「僕も手伝うね。サクランボで砂糖煮とか、どうかな?」
キッチンにレンジがあったので、玉生はバイト先で習った時短ジャムに挑戦しようという気になったのだと言う。
玉生が贈られた物を使ってみたい、というこの心境は彼の関係者たちにとって歓迎すべきものであり、このまま「せっかく“有る物”を使わないのはもったいない」と自然体で思えるまでになるといいと願っているが、彼の性格では遠慮が先に立つのはまず間違いないので図々しいまでに「一緒に使おう」で使用感に慣れてもらおうとみんなで示し合わせているのだ。
一応は寿尚が玉生の保証人である傍野にも、傍目には玉生の物を好き勝手にしている様に見えてもそれは必要な事であって、後で一方的な搾取にならない様にその分を各自でフォローすると断っている。
意地の悪い見方をすれば、我が物顔で友人の遺産にたむろしているという状況に受け取れると、彼らの方でも自覚しているのである。
「あ、でも檸檬も入れた方がいいんだっけ。確かとろみと色が、入れないのとは全然違うって言ってた」
「温室でも見たけど、そのままそのまま噛る物じゃないから昨日は取らなかった……あ、そういや冷蔵庫に一つだけあったぜ」
「あー、紅茶に入れる分だったんじゃないか? という事は、生クリームはクリーム珈琲にどうぞって用意されてたのかもな」
それを機に全員でぞろぞろと階段を下り、家の中に戻った。
「そうだ、タバタん。上から庭のチェックするって言ってなかったか?」
「あ、屋上が想像していなかった感じで、すっかり忘れてた。っす」
「うん、びっくりだったね。でもあの、ソファーとか外に置いたままで大丈夫なのかな?」
「あれは防水の布で作ったやつだろうから、手入れは必要でも濡れるのは大丈夫だと思うぞ」
キッチンへ行く前に食糧庫でパンケーキの材料を物色しながら、コンソメキューブがあったのでスープでも作ってパンケーキに追加しようと話しながら駆と翠星がキッチンへと向かう。
「生地焼いて完全に冷めないうちにラップしたら、一ケ月とか冷凍保存できるんだぞ」
「じゃあ、多目に作って保存しておけば非常食になっていいんじゃないすか? くらタマにはちょうどいいと思うし」
「そうだなフレンチトーストとかラスクにしてもいいし、アイスと一緒に食べるのもいいぞ。マオマオ」
「わ、嬉しいけどいいの? ありがとう」
ジャムを作るために砂糖で煮る前のサクランボの種をちまちま取って除けながら、二人の会話にこくこくと頷く玉生である。
「じゃあ、これから昼まで自由時間にしようか」と言ってさっさと和室へと行った寿尚は、ちいたまのミルク用のお湯を貰いに来てまたすぐに戻って行った。
詠は昨夜の白いパッケージの異なる世界を旅する様な映像のシリーズを発掘すると言って、大量の映像記録の集められたラックを覗き込んで、ついでに分類までしている。
しばらくするとサクランボがジャムになってついでに葡萄も洗うと後は手持ち無沙汰になった玉生が、詠の所へやって来て面白そうな作品を探しながら分類分けする作業に加わった。
一度大きなキャビネットから取り出された録画テープの山には国内の作品は見当たらず、字幕付きという文字が付いたパッケージが多いのに「外国映画はバイヤーの趣味に偏るから、こういう知らない作品は見る機会もないからな」と詠は感心しつつ、「でもやはり、今はこちらがマイブーム」と白いパッケージに文字だけの例のシリーズをいそいそと抜き出して脇にまとめている。
玉生もほかに興味を引かれるデザインのパッケージがあっても、白いパッケージを見つけた時の方が「当たり」の気分になってしまうのだった。
そんな風に玉生宅での昼前の時間が過ぎていく中で、そろそろ食事だと翠星が声をかけに来たので、玉生と詠は作業を中断して立ち上がった。
その翠星が、大体において率直な彼にしては珍しくモヤモヤとした顔をしているのに気付いた玉生が、思わず「どうかしたの?」と尋ねると「あー、一応聞くけど、昨夜水に浸けていたカップとか夜中に洗って片付けたとか――ないよな?」という返事が返ってきた。
「え――? あの、片付けしてなくて、ごめん?」
「夢遊病者がいるのか? これが一人暮らしなら、ストーカーが勝手にやってる案件の恐れ」
「いや、そういう話じゃなくてな?」
むしろ手際のいい彼らは準備と片付けは流れ作業になっているので、手を出す隙を与えないと言っても過言ではないので実際にそういう話ではなく、洗い物を水に浸けたままその場を離れて戻るとキチンと綺麗になって食器棚に片付いていたので、その時は見かけた駆か玉生がやってくれたのかと単純に納得していたそうだ。
ところが先程キッチンで、「昨夜は遅くに片付けまで悪いな」と駆に言われて、彼のやった事ではなかったと判明した。
それによく考えてみると玉生は一番先に眠ってしまい、キッチン側のソファーでそのまま寝た翠星が知る限り朝まで起きなかったはずだ。
翠星は眠っている時でも気配には敏感で、厳密には実際の状況とイメージの不一致がないとは断言できないが、常に脳の一部が就寝前の記憶と物音から無意識に周囲のイメージを知覚している。
それは父親譲りの遺伝的な能力の様なもので、昨夜は夜中に二度ばかり寿尚がキッチンでポットを使ってから和室の方へ行ったのははっきりと認識できていた自信があるので、寝惚けて記憶が怪しいという可能性もほぼないと思われる。
そして皿を洗う位なら使い捨ての紙皿で済ましてしまうタイプなのが寿尚(ただし猫の世話は例外)と詠なので、二人ははなから問題外だ。
そんなわけで、それこそ翠星本人が寝惚けてたというオチでもなければ、何者かが見付からない様にこっそりと家事をやってくれたという事になってしまうのだが……
「西洋のブラウニーとかいう家事妖精みたいだな。絵本で見たけど、さり気なくお礼に食べ物を置くといいけど、服とかやると満足して家からいなくなっちゃうらしいぞ」
会話が聞こえていたらしく、焼き立ての薄焼きのパンケーキを皿に積んでダイニングに運んで来た駆が面白そうに笑った。
キッチンに戻って行く翠星は、「ミミ先輩がその感じじゃ、悪い何かじゃないんすね」ともう特に構わないつもりらしい。
「チャトも警戒している風でもないし。ちいたまがいるのに危険がある場所から移動しようとしないわけないからね」
手を洗って来たらしく洗面台のある風呂場の方からやって来た寿尚は、先にその話を聞いたらしくそんな事を言いながらやって来た。
「モノには付喪神という人格を持つモノもいる。それらは大袈裟な反応をしなければ、害意のない同居人になる」
その、テーブルに着きながら詠が言った“害意のない同居人”という言葉は、玉生の耳には妙にしっくりときた。
自分の住居に得体の知れないモノがいるというのは気味が悪かったり恐怖感があったりするものなのだろうが、無人の広い家という物に怯んでいた玉生にとってはそれとは逆に、見守られている安心感の方が強い様なのだ。
もとより詠が言った付喪神という存在はそれと意識してはいなくても、物には魂が宿ると信じている者が少なくないこの大大和帝国の国民ならばその存在を疑っていないといってもあながち間違いではなく、それは玉生も例外ではない。
「うん、なんだか見守られているのかなって気もするんだ。気のせいかもしれないけど」
「基本的に善も悪も人とは違う次元の存在だ。悪い方に考えなければ悪い方にいかないモノも多いから、そういうのでいいと思う」
自分でレシピを思い出しながら作ったサクランボの形を残したままの砂糖煮を、溢れない様にと加減しながらパンケーキに載せて丁寧に畳むと、桃のトッピングに蜂蜜やホイップさせた生クリームを掛けて緑の葡萄を何粒か添えて完成させた一皿を手に、玉生はキッチンの方へと早足で戻る。
そして表から見えない調理台の上にパンケーキの皿を置くと、少し離れてカウンターの陰から声には出さず『美味しいパンケーキなので、よければどうぞ』と両手を合わせてペコリと一つ頭を下げる。
そうやって新しい皿を手にした玉生が、そちらに注目しない様に意識して『さり気なく、さり気なく』と心の中で唱えながら戻ると、駆が改めてパンケーキを皿に載せてくれた。
そしてみんなにコーヒーを配り終わった翠星が席に着くと、「いただきます」の声を合図に昼食がはじまるのだった。
テーブルにはパンケーキと共にハムとチーズの定番にトマト・レタスにベーコンエッグ、おまけにオニオンスライスなど大皿に数種類の具が用意されていて、みんなそこから好きな物を合わせてパンケーキを食べるのに、玉生はまずそれを半分に切ってからスクランブルエッグを載せる。
それから少し考え、さらに半分にして一枚はハムもう一枚はチーズで巻いてスープと一緒に食べた。
それでようやく一息吐いて、まだ半分残っていたパンケーキの端にサクランボのジャムをちょこんと付けて口に入れる。
苺や桃と比べて甘さも酸っぱさにも固さがあるが、これはこれで美味しいとそのできに満足してもぐもぐと味わう口の端が自然に上がってしまう。
ほかにも甘味的には蜂蜜やバターに生クリーム、房分けされた蜜柑や葡萄に切り分けた桃など目でも楽しく玉生を誘惑するが、そう多くは食べられないのでちびちびと色々な味を少しずつ口にするのが幸せなのだった。
「ところで、みんなはいつからここに引っ越して来るんだ? ちなみにオレは、後で荷物取りに行ってすぐ戻ろうかと思ってるんだけど」
そろそろ食事も終わろうかという頃、コーヒーを手にした駆がそれを切り出した。
「登校するのに直通のバスはあるし、教科書と制服さえ持ち込めばね。ちいたまはともかくチャトがいるから、いっそ単身で荷物取りに戻ってとんぼ返りでそのまま入居しようかな」
寿尚は口に出した時点で即入居はほぼ確定していて、今は持ち込む物やどの交通手段を使うかなどを頭の中で取捨選択している様だ。
「学生街まで自転二輪でも通えそうな距離っすよね。荷物の箱詰めも済んでるし、自分も今日からでも問題ないんすよね」
翠星はもとから多少家に問題があっても引っ越しはすると決めていたので、実はもう現在の下宿先は片付けも挨拶も粗方済んでいる。
荷物はバス停前の郵便局留めで小包として送って、自転二輪車はここまで運転して来るのにもそう無理のない距離なので、今すぐ行ってきてもいいのだがとりあえずほかのみんなの返事を聞いてから動こうと待ちの姿勢である。
「僕はすぐに必要な物だけ電話して持ってこさせて、後は学校帰りに少しづつこっちに移す事にする」
詠はこれから帰るのも面倒くさくなったのか、椅子の背もたれに体重を掛けて胸の前で腕を組んだ。
どうやらみんなこのまま入居という意外な展開に、そろそろ今日は解散かなと少し気落ちしていた玉生は目を丸くする。
それに駆が「マオマオは」と口を開いた時に、ヂリリリリ……と思いのほか響く電話機の受信音が鳴って玉生をびくりとさせた。
まずみんなの顔を見渡した玉生はハッとして、「あ、出なくちゃ」とあたふたスリッパのままで電話機まで駆けて行った。
「は、はい、もしもし、えと、倉持です」
緊張したまま受話器を手にした玉生は、それでもバイト先で電話機での対応も業務のうちというのもあって、割合とスムーズに名乗った後は「はい……はい」と電話の相手に頷いている。
そして最後に「はい。よろしくお願いします」の言葉と共に大きく息を吐きながら、チンという音が鳴るまで慎重な手つきで受話器を下ろした。
「このタイミングだと傍野さんかな? 何か問題でもあったの?」
電話の相手を察したが、その内容が内見の様子を確認しただけではなさそうだと寿尚がそう尋ねてみた。
すると玉生はこくりと頷いてから、ありがたいと申し訳ないが混ざった「いいのかな?」という表情のままそれに答えた。
「え、えとね、傍野さんが引っ越しの荷物運ぶのに車出してくれるって。それでミニバン? だから、ほかのみんなも乗れるからついでにどうかって」