3 いらっしゃいませジャングルへ
つい先日の事。
玉生は後見人になった傍野に案内され、叔父から相続した屋敷を訪れた。
しかし、その自然公園の様な広大な庭先ですでに腰が引けてアプローチを進めず、玄関にさえも近付けなかった。
結局その日、肝心な家は外側から遠目に眺めるだけで終わり、その場で拾った子猫を連れて退散した玉生なのだった。
そして本日、玉生は話を聞いて同居を前提にしてついて来てくれた友人たちと、改めて屋敷へとやって来た。
同行して来たのは、日尾野寿尚・三見塚駆・田畑翠星・富本詠の四人だ。
生まれの環境からの人見知りのせいもあり、共同生活をしている孤児院では当たり障りない対人距離ですごした玉生である。
学校でもその調子で通したのとある種の偏見により、親しいとまで言える相手はなかなかできずにいた。
そんな玉生のボッチ歴を掻い潜って来たツワモノ揃いの一行である。
ただ――全員ある種の変人である。
そして今後この家に関わるのに、それは幸いにも必要な条件でもあった。
先日は傍野の車で来たので「思ってたよりも早く着いた」位の感覚でしかなかったが、普段の生活範囲が狭いせいもあり実はその位置関係が今ひとつピンときていなかった玉生である。
しかし本日、公共の交通機関である路線バスを利用してみると、よく利用している国営図書館前から乗り換えなしの上に思っていたよりもずっと近場だったのは嬉しい驚きだった。
そんな玉生が友人たちと蔵地でバスを降りると、そこは傍野に示され道の向かいから見た停留所で、その向こうはこちら側が高台になって緩やかに広がる地形になっていた。
感覚的にはこの停留所辺りが中心となって、国道を挟んで放射状の半円を成して外に向かって開いている形だ。
傾斜と表現する程に高低差があるわけではないが、都心では高層建築で有名な百貨店が横に広がる形で居を構え、その二階には派手すぎない看板で社名を主張するオフィスなどの貸し店舗がある、低階層ビルがやや遠目に見えた。
さらにその近所には、同じ建築会社が手掛けたのか外郭の似通った巨大な二階建てのマンションや、百貨店と同規模の低階層ビルが何棟かが一定の距離を置いて建っているのだった。
ほかの個人邸宅も含めて、ここから眺めただけでも一定の高さから飛び出して目立つ建築物が見当たらない事から、制限のある用途地域に指定されているのだろうと思われる。
そして、この停留所からそこをつなぐ通りに暖簾分けしたのか有名店舗と同名の飯屋や菓子屋に深夜商店まであり、電話ボックスや街灯も等間隔に設置されていて、傍野が言っていたようにここから駅までのバスが混みあうという話もなるほど納得の玉生である。
実際に人の出入りに関しては、彼らと同じバスに乗車していた者がほぼ全員ここで降り、騒がしく街に向かって行った事もその証明のうちだろう。
バスの中で一同をチラチラ見ながらはしゃいでいた若い少女や妙齢の女性らも、彼らがその場に留まるのにあてが外れた顔をして時々こちらを振り返りながら去っていった。
蔵地行きのバスに乗りそこで下車したので、目的地が同じ街だという理由で声をかけ一緒に行動しようと狙っていたのだろう、集団ごとに牽制しあいながら送られていた秋波にも知らぬ振りを徹底していたので、話しかける切っ掛けもなかった様だ。
目立つ集団ゆえ外出時にはよくある反応なのだが、彼女たちは彼らがまだ全員十八にも満たないとは思ってはいないだろう。
小学校の通常科を終える頃にはもうそこそこ大きかった駆や翠星、幼い頃から雰囲気が大人っぽい寿尚や詠なので、私服でいるとずっと年上の女性は実際の年齢にほぼ気付かない。
女性の方は十も年下の子供に声をかけてしまった事に赤面して謝罪する者はまだしも、逆切れする者や開き直って誘惑する者などもいて、多少は無礼だとしてもまともに対応しない方がいいと学んでそれを実践しているのだった。
そんな彼らだけを残して、乗客たちがそれぞれ今日の予定を口にしながら休日の街へと去ったバス停脇。
郵便局の前にベンチシートと販売機があるのを目敏く見つけた駆が、「ちょうどいいから少し休んで行こうぜ」とそちらの方へ進んでみんなを手招きする。
休日の寝起き早々に待ち合わせ場所に集合した詠は、バスの中でも半分眠っていた様なものでまだハッキリと目が覚めていないらしく、ぼ~っとしたまま帆布のショルダーバッグを膝に置きベンチに腰を下ろした。
寿尚もペットの移動用リュックをベンチにゆっくりと置いて、透明素材の窓からちいたまの様子をそっと覗き込んでいる。
ズラリと並ぶ販売機に惹かれた玉生が駆の横から覗いてみると、スタンダードな飲み物だけではなく雑誌類からホットスナックなど多岐に渡る品揃えで、思わず「わぁ~」と感嘆の声が出る。
その声に道向こうの緑の壁を眺めていた翠星も興味を引かれ、販売機の方へとやって来た。
その中にアイスバーの販売機を見付けた玉生が「あ、3×2=アイス! 夏だったら食べたのに」と残念そうに呟くと、「そこのアイス美味いのか? って、オレンジ色なのにグリーンリーフ?」の言葉と共にチャリンと小銭投入の音がして、ガコンと落ちてきた商品を手にした翠星が冬の空気をものともせずに、勢いよく棒付きシャーベットに齧り付いた。
「ミントが入っているオレンジシャーベットだ。まあまあ、美味い」
温かい飲み物を選びながら「寒いのに……」と半ば感心したように玉生が呟くと、「それは、たまが痩せすぎて脂肪が無いからだよ。翠星なんて見た目スマートなだけで、ひょろマッチョゴリラだから」と寿尚が笑った。
「正確に言えば冷えの対策に必要なのは筋肉。しれっとしてる日尾野もゴリラ」
インバネスコートの前を閉じ、首元に巻いたダークグレーのマフラーをしっかりと押し込んだ詠がしれっとして言うと、駆が「ハハ。確かに、優男に見せて結構アレだな」などと笑って同意した。
それに返した寿尚の「そう言う駆はマウンテンゴリラじゃないか」に「たしかに三見塚はヒガシゴリラで日尾野はニシゴリラ」などと納得しながら真面目にコメントする詠に、うんうん頷きながら翠星が「二人に比べたら自分なんかオランウータンだぜ」とこちらも真顔で言い切った。
「あの、多分ね、翠君と詠君のゴリラって褒め言葉だよ? 前にゴリラは頭良くって平和主義だって話してたもん」
玉生はそう言って、反応に悩み思わず無言になった寿尚と駆にホットココアの缶をそっと差し出した。
寒さに強いとはまた別で、寒い中にこれからあの広い敷地で探検だと思うとせめて温かい飲み物をと考えた結果だ。
みんな売り物のココアに関しては許容範囲が広いので玉生にしては珍しく、迷わず買える品なのだ。
ちいたまがぐっすり眠っていて手持ち無沙汰な寿尚が礼を言って受け取ると、駆も数本手にしていたミネラルウォーターを大きなボストンバッグの脇ポケットに突っ込んでから「ゴチになるな」とさっそくプルトップに指を掛けた。
詠にも渡すと何時もの神経質な表情を緩め「うん」と、頷いたか頭を下げたか判別がつかないほど微かに反応を返してから手に取って、熱いうちにゆっくりと飲みはじめた。
空気を読んでもマイペースな翠星は「どうもな。これ食べてからゆっくり飲む」と、缶を両手にまごついている玉生にズイッと手のひらを向けて、ホッとする彼からココアを受け取ってドラムバッグのポケットに突っ込んだ。
それから歩道に向かって歩き出し道路向こうの緑を興味深そうに眺めるが、彼がエルフ染みた外見に相応しく植物に愛着を見せるのは通常通りの事なので、友人たちもそんな時は放置一択だ。
しばらく休んでそろそろ次のバスの客の気配がする頃、詠がココアを飲み終わったらしく立ち上がって空き缶を缶入れの籠に放り込んだのを合図に、空き缶を指先でクルクル回していた駆が「じゃあ、そろそろ行くか」とピーコートの大柄なチェック模様の裾を翻し、それを籠に投げ入れた。
やや猫舌気味の寿尚は、温くなった残りのココアを飲み干し缶を片付けると、溢れそうなコップの水も零さない柔らかな身のこなしでちいたまのリュックを背負う。
いつもなら無難だからとトレンチコートを着ている寿尚だが、今日のように猫を連れて動く場合は動きやすさやいざという時の保温を重視するので、今日も黒のダウンコートで動きが軽い。
彼としては常にダウンコートでも構わないそうだが「服装規定かと突っ込みたくなる煩型がいてね」という事情があり、その相手が家に出入りする親族なので、家を出てこれから顔を合わせる機会が減るのは大歓迎なのだとか。
そして全員が横断歩道の前で先に歩道に出ていた翠星に追い付くと、バス停のコチラ側に背を向けていた彼が改めて緑の境界線のような向かいの通りを見渡して「正面のアレの先?」と指差したのは[私有地につき立ち入り禁止]との注意書きの付いた進入禁止の標識だった。
「おっ、ここからは石畳か。いい石使ってるな」
探検気分の弾む足取りで一行の先頭を行く駆が、砂利道から石畳に変わった地面を靴先で軽く突いて感嘆の声を上げた。
入口側の道を緩く上り下りとカーブにして、見通し悪く木や草で囲い気味にしているのは外からの目隠しを意識しているのだろうか。
進んでいるうちに空間が開けてきて、拍子抜けなほど早くに柵まで辿り着いた玉生は首を傾げた。
つい先日、傍野の車で同じ道を通った時には石畳までもう少し距離があったような気がしたので、『まさか道を間違っちゃった!?』とそれからは人知れずドキドキしていたのだが、すぐに白い柵が見えてきてホッと胸を撫で下ろす。
そういえば庭も広いのにこの柵の前に広く石畳が敷かれた空間があるのは、ここが車両の駐車する場所として使用されていたという事なのだろうか、と今さら玉生は気が付くのだった。
先日傍野は家の前まで車で進む事なく、上手く木の枝葉が影を落とすこの場所に車を駐車していたと思い出したのだ。
バイトの時にお店の前の芝生部分に乱暴な駐車で車を乗り上げられた店主が、「見栄えが悪くなる」と温和な彼にしては珍しく腹を立てていた事があったのでそういう理由なのかもしれないが、芝生の広がる庭を畑にしても問題にならないだろうか。
なお、それが気に掛かった玉生は「庭を好きに使っていいと翠君に言ったのに、大丈夫かな?」と寿尚にその話をしたら、「芝生って手入れしなかったらどっちみち荒れる物だから、残す場所を選んでキレイに保つくらいがお勧めだよ」との事だった。
そして後に翠星が、畑仕事の片手間に嬉々として芝生部分の手入れをする姿が見られるようになる。
閑話休題。
少し緊張しながら玉生が柵を開いて庭に入るとそこから柵の外の灰がかった白い石畳と切り替わり、藁色の石畳が庭の緑を割って柵で囲まれた左奥にある樹木の塊りに向かって伸びている。
それは家まで導くアプローチを描いていて、そこを進むとみんなの目にも広い敷地の中に樹木で目隠し状態だった家屋の偉容が、堂々とした存在感で姿を現す。
家は大部分が白で、扉や枠を木目の茶系に手すりなどのアクセントを黒にというカラーリングで、構成されていた。
「ああ、たしかにいきなりあそこで一人暮らしなんて、たまも途方に暮れるよね」
どう考えても狭い所の方が安心するタイプの玉生にあの豪邸は、明らかにハードルが高すぎると寿尚は納得した。
「屋根の右半分だけ三角屋根らしい斜面が飛び出している?」
「正面の左側にガラスの壁があるのは、サンルーム――いや、中にも緑があるから温室!?」
物事を難しく考えない質の駆は自分が気になったところに注意がいき、翠星も温室という彼に作用するパワーワードの存在を予想して、珍しくも分かりやすくテンションが上がってるようだ。
「え、と。鍵はあるんだけど、もう中に入っちゃうの?」
特に大きな木の陰にあるベンチシートや傘の付いたテーブルとセットで置かれている椅子などが、野ざらしにされているようなのにも関わらず褪せたり汚れたりしてるようには見えなくて、ちょっと興味を引かれる玉生だった。
「中も気になるがまずは敷地内、特に家の付近に危険がないか確認して回るべきでは?」
「お、ヨーミンは賢いな。たしかに明るいうちは調査して、日が暮れたら本拠地へ帰るのは鉄則だ」
「そりゃ、米利堅の屍人映画じゃ? 第一、自分らやってるのサバイバルじゃねえっすよね?」
「ハッハハ、平和な日常は崩壊してほしくないよなー」
馬鹿な会話に寿尚は「やれやれ」と首を振りながら「ちいたまが大人しく寝てるからいいけど、のんびりしすぎて日が暮れてしまうよ」と、どこから回れば効率がいいか考えているらしい詠と、テーブルセットをそっと触りながら感心している玉生を急かした。
「詠の言う通り、電気が通ってるなら家の中は明かりが付くから暗くなってからで構わないとしても、外はね。ザっと家の周りを確認してみて、何があるかは見てもおいた方がいいだろう」
まず家の左側に目がいくが、そこを占めるガラスの壁は内も外も緑に溢れているため見通しが悪く、まるで木々に埋もれている様で時間を取りそうだと後回しにする事にした。
そのままホールのある博物館など、展示物を頻繁に出し入れする建物を思わせる、大きな両開きの扉が構える玄関も素通りして右手の方へ進んだ。
玄関アプローチから続く石畳は、足元の安定のため家の周りをぐるりと巡っていて、芝生では歩き難い和装の草履や下駄などの時は地味にありがたい存在であるに違いない。
壁に並んだ部屋の窓も大きく取られていて、通りかかった窓の曇り一つ無いガラス越しにソファーの背らしい家具が目に入る。
開いたままのカーテンもソファーの奥に覗く白い壁も綺麗な色で、傍野がすぐにでも住めると言った言葉は大袈裟ではなかった様だ。
食料もすぐそこの街で買い出しが可能なので、「着替えと歯ブラシ持っていたら困らないかも」と思わず玉生は呟いた。
「うん。それに採光のよさそうな家だね。入り込んだ日光だけで、窓の中も薄暗い感じがしない」
「敷地がこれだけ広いと外から覗かれないのもいい。これは、なかなかの好物件」
商人ゆえか何事にも査定の厳しい寿尚も玉生の呟きには同意し、辛口批評の多い詠も高評価なので、家についてはまだ腰は引けるが不安は薄れていく玉生である。
そのまま覗き込んでいた窓から離れ先へ進むと、まず建物裏側のこちらにも白いベンチが設置されているのに気付いた。
そしてそこは奥まった庭の隅などではなく、そのまた向こうにも角度的に隠れていた広い敷地が続いているのが見えてくる。
家屋から奥向こうの方は緩やかな傾斜になっていたせいで、近づくまでそこに気付かなかったのだ。
「あちら側の柵は手入れされていない様だけど、囲んでいるって事は何か育てていた後だったり?」
寿尚が小首をかしげてみんなの意識がそちらに向いているところで、先に裏側に回り込んでいた駆の嬉しげな声が上がった。
「おお! 改めてスゴイぞ。家の周りだけでもランニングコースに不自由しないのに、その上プールがある」
見ると家の裏手には、アプローチから家をぐるりと囲む藁色から切り替わり、淡いレンガ色のタイルが敷き詰められたプールサイドとソーダ色のプールがあって、そのプールは葉っぱ一枚浮かんでいないキレイな水を湛えていた。
その脇にはデッキチェアが二つとベンチシートが置かれ、その上に掛かるサンシェードはおそらく夏の日差し対策のためだろう。
そんな芝生の緑に石畳が映える一角はこれが夏なら楽園さながらの光景だっただろうに、今の季節にはいかんとも寒々しい。
それにもかかわらず引っ越しの話が出て以来「力仕事になったら任せといて」と胸を叩いていた大男は、「脳筋だからな」「非力な僕の分までがんばるべき」と頭脳派の二人にコメントされるだけあって、今日もテンションが高かったのがさらに思いがけないオプションまで付いていつにも増してご機嫌だ。
そうやってこの寒い中でも来る夏に思いを馳せて楽しめるというのが、良くも悪くも駆という男なのであろう。
「それより今はこっちの方を気にしなよ」
寿尚が示した先には表より控え目な標準サイズの裏玄関があり、三段ばかりの階段を上がる造りになっている。
玄関のあるこちら側が飛び出していて、その逆側にある外階段とその上につながるベランダらしき物が、へこんだ部分に収まる形だ。
「こっちの方が出入りしやすそう……」
「家主たる者、堂々と表から入るべき」
「初めて家に入るのに裏口は、……っと?」
……みゅぁあぉ……
こうやって見た限り今すぐ手を入れなければならないような問題もなさそうで、まだ緊張はしつつも玉生がどうにか落ち着いてきたところで、寿尚の背中のちいたまがついに起きてしまった様だ。
ぅみーゅぅ……とさらに小さな声が聞こえれば、鳴き出したちいたまを寿尚が放っておくわけがない。
ちょうど裏玄関の階段横にプールと同じタイル地で腰高の荷物が置ける台があるので、そこにリュックを下ろし横のポケットから取り出したタオルで小さな身体を包んで抱き上げた。
「ちいたまのミルクタイムだからちょっと休憩」
当然の展開に、実は結構歩き疲れていた詠は石畳と芝生の境目に置かれていた白いベンチに腰を下ろした。
「こんな外のベンチまで汚れ一つ無いとは、今日に合わせて敷地中のハウスクリーニングでもしたのか」
膝に乗せた鞄に寄り掛かり「なかなか手際がいい」と感心した様に頷く詠の言葉に、傍野と叔父に対する戸惑いが好感度の側にグッと目盛りを寄せた単純な玉生である。
そうなると少し気持ちに余裕も出てキョロキョロと辺りを見回すと、プールサイドの向こうの緑の陰に明るい暖色がチラチラと覗いているのに気付いた。
玉生はその木の間から見えたのが柑橘系の実だと気付いて、柵の向こうの草むらを感慨深く見ていた翠星に「ね、翠君。あの橙色っぽいの、蜜柑かな?」と弾んだ声をかけた。
「え、どれ?」と駆け出す勢いで振り向いた翠星に指差して教えると、彼はいそいそと近付いて行った。
「自然に生えたにしては虫食いもない、いい蜜柑だぜ。そろそろ食べ頃って感じだが、何個かもいでみてもいいか?」
触って感触を確認しながら尋ねた相手がキョトンとした顔をしているので、「くらタマの庭の蜜柑だから、くらタマの蜜柑だぞ? 放っといても痛んでくだけだろ」と翠星が言うと、はじめてそれに気付いた玉生が反射的に「う、うん、好きに取って。あの、もったいないもんね?」と答えてから狼狽えた。
黙ってそのやり取りを見ていた詠が「自覚が育つまで各自で判断して対応後に報告する方針でいかないと、そのうち焦って狼狽のあまりに混乱すると思う。なんなら賭けてもいい」と断言し、本人も含めてみんなを納得させた。
「そうだね、少なくとも慣れるまで、たまは家の事になんでも『はい』って答えそうだと俺も思うよ」
寿尚に断言されて「うん。だって分からない事は断れないし」と、応える玉生としてはむしろ率先して家に関して行動を起こしてほしいくらいなのだ。
この場所に残されている物はすべてが玉生に譲渡されたもので、彼がきちんと受け取らなければ放置されるも同然で、それは好意を無にするという事で言語道断という言葉が頭に浮かぶ。
それで玉生は試しに、改めてそう意識した上で周囲を見渡してみた。
すると入口側からガラスの壁を隠す形に、覆い被さっていた樹木と同じ森だか林の一部だろう蜜柑の木の辺りは、白い柵を緑が視界から隠してしまっている様で「囲まれた場所は全て私有地だから」というその”柵で囲まれた場所”がまず把握できない。
そんな途方に暮れた気持ちで悩む玉生の頬に、小さな肉球のぷにぷにとした感触。
「――プールの水がこれだけキレイなら、周囲に問題はなさそうだ。そろそろ家の中も、見てみないか?」
その小さな体を乗せた方の親指の先でちいたまを撫でながら、空いた方の手で前足を摘んで玉生の頬をくすぐるという何とも器用な事をしながら、家の方へ顎をしゃくる寿尚が提案してきた。
「芝生は手入れ済み、このベンチも真っ白で汚れの一つもない。外側は後からまた少しずつ見ても構わないと思う」
逆側からは詠もそう勧めてくる。
玉生はこういう風に予定していた手順が狂うと、それにスムーズな対応ができないところがある。
一度予定をたてると、自然と頭の中でその手順を繰り返す癖があるせいで上手く切り替えができないのだろう。
友人達はそんな事は先刻承知しているので、すぐに変更の代案を出す事にしているのだ。
「あ、うん。電気も水も使えるんだもんね……あっ、後は、ファブリックとか拘りがある物とかは自分で持ち込んだらいいんだろうけど……中の物はそのままだから、使っていいって話だったし、家具もあったもんね」
今はまだ少し動揺して色々な情報が錯綜している玉生の頭の中では、本日の予定の変更を組み直しがされているので、しばらく待てば平常心に戻るだろう。
一見して打たれ弱い印象のせいで、彼がこの状態になると一緒にアワアワと動揺してしまう者もいるのだが、実際はそれを許される環境ではなかったため、転んでも自分で立ち上がるだけの地力は育っているのだ。
ちなみにその間の駆は、外水道の押し下げたレバー式の蛇口から水が出るのを確認したりしながら右に左に楽し気に走り回っていたが、それが彼の通常運行である。
弱弱しいなりに元気になったらしいちいたまが寿尚の手首に抱き着いて、なんだか不器用ながらよじよじとした動きをしているので、寿尚はキャリーリュックのポケットから取り出した保温も兼ねたガーゼ生地のリード付きベストを着せてから、小さな身体を左の手のひらで軽く握るようにして軽くなったリュックを片腕に担いだ。
それを見てこちらへ戻って来た駆が「リードなんて付けても、まだこのチビ自力で歩けなさそうだけど?」と不思議そうに言うのに、「転落防止。転ばぬ先の杖、ってやつだよ」とさらに空いている右手は被せるようにしてちいたまを囲う。
「そういえば起きてもあんま鳴かないんすね」
そう言う翠星の左手の上の大ぶりな蜜柑が四個の上にもう一個という図は、片手にどれだけ乗るかにでも挑戦したのだろうか。
見た者はほぼ確実に、その繊細な美貌に似合わない力強さに驚く大きな手だ。
「もうすぐ昼で、外がこれだけ整えられているなら家も即、使用可能な状態の可能性が高いと思われるが。中へ入ってキッチンスペースでも探してみるか?」
本が絡まなければ、それなりにキチンと日常をこなせる下地はある詠が、腕時計を確認してお昼時だと指摘した。
言われればたしかにそんな時間で、気付いた途端に駆の好奇心で鈍っていたらしい腹の虫が空腹を訴えてくる。
「おお、そうだな。これだけ広い家ならキッチンにパントリーがあって、非常食もあるかもな」
実際は、テイクアウトの食料を木陰の芝生なりベンチなりで食べて小腹を満たすか、街の方に出て食事処にでも入る事になるかと予想していた詠は、軽口に乗っかる能天気な男の発言に「本気か?」と素で返してしまった。
「なんで言い出しっぺが信じられないって顔してるかなー」
理不尽と言いた気な駆に、「え、とね。朝、サンド屋さんで冷凍サンド買ったから、もう解凍できてると思うんだけど」と玉生が声をかけて、肩に斜めに掛けた大き目なショルダーバッグから[ランチサンドセット]と文字の入った無地の箱を一つ取って差し出した。
「三見塚、後輩にたかる様な真似は感心しない」
こちらは少しでも多く食事を取らせようとしているのに、と黒縁眼鏡で半ば隠れた目をすがめて、詠が駆を見た。
「いやいや、そんなつもりじゃなくてだな」
そう慌てる駆に、玉生は「みんなの分もあるから、遠慮しないでね」と少し笑ってグイッと押し付けるようにして渡す。
「今日は僕の都合に付き合ってもらってるわけだから、これ位は貰ってほしいんだ」
残りの分の箱も鞄から取り出すと、「ここで好意を無にしたら、少食の玉生には辛いノルマになるからな。ありがたくいただく」と詠が手に取り、翠星も「ごちそうになる」と器用に蜜柑を箱の上に載せながら受け取った。
「尚君の分は、座るとこまで運んでから渡すね。どこで食べようか?」
今の寒い季節、食事をするのはやはり屋根の下の方がいいに決まっていると、家に入る流れになったのは当然の事だろう。
傍野に渡された家の鍵束は、玄関の鍵に使われているキーリングと扉のシリンダーが同じ材質の様で分かりやすかったのだが、緊張のあまりそれを鍵穴に差し込むのに少々手間取った家主の姿はご愛嬌だった。
そうやって玉生がぎこちなくも両開きのどっしりとした木造の玄関扉を片側だけ押すと、それは予想よりもスムーズに開いていく。
その先は玄関と言うよりエントランスと呼びたくなる様な吹き抜けで、大きな天窓からは採光がふんだんに取り入れられた、とても開放的な空間だった。
その白い空間に向かい、ほぼ左の壁一面を占める不透明なガラス越しに溢れるガーデンルームからの光と緑の色彩が、まるでスクリーンの映像に入り込んだかの様に玄関ホールを彩っているのだった。
もう片側の扉を押し開けた駆も芸術家としての魂をつかまれた様で、扉を抑える手もそのままに瞬きもせずに見入っている。
開いた扉の間からは、自然を愛する翠星や知的好奇心の強い詠も目を細めて小春日和を形にした様な光景に目を奪われていた。
「……ぅわー」
「外も相当だけど、中もすっごいなー」
思わず声がもれた自分の口がポカンと開いているのに、この一帯の主になった玉生はしばらく気が付いていなかった。
うみゅぅ……
そんな玉生の隣で、感嘆の声を上げた寿尚も鮮やかな視界に意識を奪われかけていたのを、ちいたまから漏れた鳴き声で我に返る。
手元を見るとおそらくまだハッキリと物の見えていないクリンとした黒い瞳の子猫が小さな口を開けて寿尚を見上げていた。
そしてその目線の先に、子猫と似た表情で開いたままの口を見付けて苦笑し、掌に乗せたちいたまの小さな手を借りると唇を挟んでそっと閉じてやる。
そのぷにぷにとした柔らかい肉球の感触で白日夢じみた感覚から覚めた玉生は、何度か瞬きをし自分が入り口を塞いでいたのに気付くと慌てて室内へと足を踏み入れた。
それを合図に動きの止まっていたほかの三人も、ハッとして我に返ると家の内側へと歩を進めるのだった。
そこでやはり緑の光の先が気になった玉生がそこに近寄ってよく見ると、そのガラスは百九十cmに僅かに足りない駆が手を伸ばしても指先が触れない高さに枠があり、そこが扉になって出入りできる作りになっていた。
何の素材でできているのかは不明だが、曇りひとつないドアノブのレバーを玉生がそっと押し下げてみると、ガッチャっという音と共に内側に扉が開いた。
その流れで内側を覗き込もうとした玉生を、しかし寿尚の空いた方の手が素早く引き戻す。
「たまはちょっと待て。この中を見たいならまずはこの体力バカに様子見させてからにしな」
「え!? でも……」
「この男のいざという時の瞬発力は、以前に暴走運転の自動二輪から君と僕を両脇に抱えて避けた事からも証明済み」
戸惑う玉生に、詠も同意見だと寿尚に賛成した。
家の中という事から危険性という方向に頭が回らなかった玉生がワタワタとしている間に、寿尚の「GO!」に従って「おう!」と躊躇いも見せずに扉に手を掛ける犬気質の駆である。
そんな彼には、直立したラブラドールレトリーバーという異名があるのもむべなるかな。
ガラスの扉を抜けた駆が足を踏み入れた先は、迷路園の様な生け垣とガラス越しの空だった。
植えられているのは金木犀――あるいは銀木犀? 木犀科ではあるだろうが、花が無い状態ではそこまで詳しい特徴を覚えていない駆には残念ながらはっきりとは判断がつかない。
彼の長身でも目線の高さほどもあるその生け垣には、二階の窓よりも高くから覆い被さるガラスを通して光が降り注ぎ、それが玄関まで彩るのも納得の明るさだ。
そして迷路になっているといっても、彼のその目線では生け垣の上部が見えるので、すぐに岐路を目視で選択できた。
そしてほんの短いそれを抜けると、初見ではむしろデッキだと思われそうな広さのある、足元に玉砂利が敷かれた縁側の前に出た。
しかし縁側の向こう側に予想外の光景が広がっていて、風変わりな縁側などすぐに意識の外に流れてしまった。
そこにあったのは彼が予想していた観葉植物のオブジェで造られた庭などではなく、しっかりと大地に根を張った鬱蒼として奥が見えない木々だったのだ。
「家の中にジャングルって……いや、家と庭先? 庭先が温室?」
翠星が外側から見て温室かと見当を付けていた場所は、改めて確認すると大きな格子の木枠に収まったガラスの壁から続く屋根部分が、家の軒に当たる箇所からつながって家の一部を取り込んでいたのだ。
大胆にも森の中に家を建て、ガラスの壁を築く部分だけ間引いて残った木は温室に収まる様に剪定しているのだろうか?
そして外観より広く感じるのは、おそらくそのガラスの外側に見える位置を取り囲んで林立する木による視覚作用で、家の一部が緑に呑み込まれて見えるのもそのせいなのかもしれない、とも思う。
念のため密林の陰や縁側デッキの奥を危険物の確認のため覗いて歩いたが、特に問題も見つからず特に危険も感じなかった。
それに縁側は休むのにもちょうど良いので「ま、いいか」と判断し、駆はみんなに向かって「異常なーし! 左に進んでよ~し」と生け垣の正しい進行方向を伝えたのだった。
そして全員が生け垣を通った先で、まだ玄関から入ったばかりではあるが家の状態が良く慌てて手を入れる必要のある箇所は無さそうだから、これならそう慌てる事もないだろうと全員の意見が一致してお昼はここで休憩して取る事になった。
この状況でじっとしていられない駆が「勝手に一人で、ジャングルの奥地を探検してる気分で調子に乗らないように」との注意をされつつ見える範囲をサンドイッチ片手にウロチョロしているのに玉生は少しハラハラしていた。
おそらくは錯覚ではっきりしないせいだと思うが、どうも彼はガラスの外側と内側にある樹木の境いが気になるらしく、異様に深く見える木の奥を確認しに行きたいらしいのだ。
翠星の方も木の一本草の一本が気になるらしく、こちらもサンドイッチを咀嚼しながらすぐ手前の低木前でしゃがみ込んで観察中だ。
こちらは害のある植物などは大体勘で分かるらしく、以前みんなで出掛けたフィールドアスレチックでの身のこなしも驚異的だったので、あまり心配はいらないだろう。
「あいつらはタマが考えてるよりずっと丈夫だから」
心配するだけ無駄だから気にせず休めと言い置いて、心が惹かれるままに迷いなく縁側に足を向けていた寿尚は、その磨かれた様な床板を指先で拭って埃一つも着かないのに感心している。
そんな寿尚の手のひらの上から一緒に覗き込むような体勢のちいたまも、心なしか興味深そうに見える。
一つ頷いて納得してからキャリーリュックを下ろした寿尚は、鞄からふかふかしたタオルを取り出して敷いた上にちいたまを下ろすと、リードの持ち手をリュックのカラビナに通した。
縁側の端から子猫が落ちない事を確認してから、ぷるぷると震える四肢で立とうとするちいたまを横目に猫用の粉ミルクや人肌の湯を入れたボトルなどを取り出して、それからどこまで猫グッズを出そうかと少し考え込んでいる。
厳密には屋内とは言えないだろうが、外とはガラスで仕切られているおかげでこの縁側はなかなかに暖かいので、連れ歩くよりはここで昼寝でもさせておくべきだろうか、寿尚としては悩むところだ
「どうせ縁側なんて日尾野が常駐するって決まってるから、猫用トイレを一つはここに設置しておくべき」
縁側に座って後ろ手を突いていた詠がボソッと言った。
その詠の隣に座って、ちいたまのぷるぷるよたよたとした動きをハラハラドキドキとして見ていた玉生が、その会話を聞いて「縁側といえば猫で、猫といえば尚君だからもう見た途端にここの主は尚君だな、って僕も思ってたけど」とキョトンとした顔をした。
そして、「それに拾った猫も尚君にお届けだから、ここも猫の集会所とかになってちょうどよくない?」と他意のない笑顔で言い切るのだった。
「……ここで転がっても服は汚れないみたいだし、詠は体力ないからちょっと上がって休めば?」
家の環境からくる「利用されるのは真っ平」精神から、逆に自分が友人を利用する結果になる事に神経質になりがちな寿尚である。
利用しあうくらいの相手なら遠慮などしないが、身の内に認めた者からのストレートな好意には実は弱い。
いつもならそれを表には出さずむしろ軽く悪態を吐いて返す位なのだが、相手がまさかの詠で咄嗟に「後でその礼は倍にして返す」と切り返せなかった今の自分の限界にも腹が立ち、思わず原因の切っ掛けを作った詠にややツンとした態度をとってしまった。
寿尚の立場で強く賢くその上で周囲を守れるようになるには、自分を律して内心は悟らせず常に飄々としている位でなくては駄目なのだ。
生き馬の目を抜く商人の世界では動揺を見せるという事は弱点を晒す様なもので、商売敵が日尾野の隙を狙うとしたらそろそろ親の庇護から抜けかけている若輩者の寿尚を標的にするに違いないのだから。
今でもそれなりに傑物と言われてはいるがそれはまだ年相応のものでしかなく、豪胆と言われる両親や兄弟には遠く及ばない自分に心中がっかりな寿尚なのである。
ある意味で自分本意な詠はそんな寿尚の心境も知らずというより知った事ではなく、自分でも体力などないという自覚があるので特に反論もしないで、着脱が楽なので愛用しているというスリッポンを脱いで縁側に上がった。
「ここは仕切りの内側だからくれ縁、ここからは外だから濡れ縁、この部分は上手く繋げているけど家から独立してるからウッドデッキ? あと、くれ縁は広いから広縁?」
文字を追いながらボンヤリしたり考え事をしたりする玉生と違い、乱読を極める詠は読み込みによって雑学にも強いので、指を差しながら縁側について知識を確認している。
文字として知ってはいても、田舎の祖父などとは縁のない生粋の都会育ちなので実物を見た事がなかったのだ。
「廊下とは違うんだ……」
思わず感心した玉生に、自慢するでもなく「それは気になってちょっと調べたが、通路に使うなら廊下でも間違いではないかも、と。そこのカーテンの影にカウチソファーが見えるから広縁かと思ったけど」と続けてから一拍の間だけ考えて、「廊下に棚とか置くのも珍しくないし、どっちで呼んでも間違いではないだろう」と力技で結論を付けた。
ちいたまに子猫用の哺乳瓶でミルクを飲ませていた寿尚は、詠の言い草に力が抜け『そういえば兄さんとその友達も案外こんな感じだったな』と日尾野の自宅に出入りしていた彼らの学生時代を懐かしく思い返して苦笑した。
「まだ結構な余裕があるなら、詠は早く食べて栄養補給しなよ。いつもギリギリしか燃料入ってなさそうだし」
寿尚に言われて、「あながち間違えでもない」と起き上がった詠は鞄の上に置いていたサンドイッチの箱を手にした。
一つ一つセロファンと紙ナプキンで包んであって、手が汚れるのと汚れた手でサンドに触れるのとを防いでいる。
「衛生的でこれだけでも好感が持てるよ。挟んでる具材もズッシリとしてるし、たまはこういうの外さないね」
「でも駆君とかは、これだけじゃやっぱり足りないよね? 一応はね、ハムチーズとかカツとか卵とか、デザートにフルーツのサンドっていうセット選んだんだけど、冷凍だとこのセットしかなくってね」
そう言いながら「でも保温瓶にコーンスープもあるんだ」と紙コップに注いで二人に配るのだった。
「しかし、いつの間にか翠星まで視界から消えてるんだけど?」
タオルの海でごろごろうごうごしているちいたまに目尻を下げながら卵サンドを食べていた寿尚は、一息吐いてからふと気付くと想定内の駆はともかく翠星まで姿が見えないのに気が付いた。
すると、モソモソとスープでカツサンドを流し込んでいる詠が「奥側から三見塚が声をかけていたが」と、今さらの目撃情報を口にするので、「いや、そこで止めなよ」と寿尚ともあろうものが思わず素でツッコミを入れてしまった。
「きっとお昼休みくらいの感覚なんだよ。もう少し待てば戻って来るんじゃない、かな?」
二人をフォローする玉生は、自分で選んで買って来たサンドセットなのに半分も食べられずにもう限界だった。
情報を教えてくれたバイト先の同僚はたしかに「学生向けでボリューム満点だぜ」と言っていたが、自分の分だけでも単品にするんだったと少し後悔してしまうのだった。
そんな会話をする頃には、寿尚もすっかりいつものペースに戻っていた。
「縁側と猫、至福だね」
縁側に腰を下ろした寿尚が、またうとうとしてもう目が開けないらしいちいたまを緩く撫でていると、デザートのフルーツサンドまで食べ終わった詠がゴミをまとめながら、先ほどから視線を向けていた家の材質に興味があるらしくじっくりと観察しだした。
夢中になると寝食を忘れるタイプではあるが玉生のように少食というわけでもなく、運動神経が鈍いというわけでもないらしい詠は、案外と周りが思うよりも学者としてはアウトドアタイプであるのかもしれない。
「この枠は木目だけど、木目サッシか樹脂サッシ? 玄関の吹き抜けといい、玉生の叔父はこだわり派」
マイペースに家のチェックを続ける詠の言葉に、興味を掻き立てられた玉生もスニーカーを脱いで縁側に上がった。
詠の隣から覗き込み、何気なくサッシに右手を掛けると……
「あ、開いた」
玉生がそのままサッシを右に押し開くと、微かにカララ……と音を立てて開いていく。
「ちょっとたま、そこから入ったら玄関の方が後回しになって締まらないだろう。どうせのんびりペースになっているんだから、そこは内側からぐるっと順に回ろう」
小さくピクピクと動くちいたまの耳の先に気を取られながらも、しっかりとこちらに釘を刺してくる寿尚にビクッとなった玉生は、チラリと見えた畳にたしかにここに入ると動くのが億劫になりそうな危険性に「だね、はーい」と踏み出した足を戻した。
詠の方は相変わらずマイペースに今度はサッシの作りに気が行っているようだ。
「引き分け? いや、外側も動くから引き違い――あ! 戸袋があるから引き込み戸だ」
見れば左側のサッシが全て消えていて「ここ」と詠の示す場所に収納されているらしいのが分かるのだった。
縁側の向こうは正面だけに4枚の障子が並んでいて、床に敷かれた畳はそこのわずかに開いた隙間から見えているのだ。
「あ、この部分が小さい障子になっているって事は、これがそこだけ開くという猫間障子」
「猫ってにゃんこ?」
確かに指差す先は障子の桟が二重になっている部分があって、内側の枠だけスライドできそうだ。
「そう、にゃんこの間。なるほど、雪見障子のガラス部分の小障子を左右にって実際はこうか」
ふんふん頷きながら「ちなみに開いた所から猫が出入りするとか」と由来の情報も追加した。
「ハハ、ちいたま用の出入り口付きとは気が利いてるね」
機嫌良さ気な寿尚に「このヒトその障子の部屋に常駐しそう」と詠はやれやれといった感じだったが、『そうしてくれると、いつでもすぐ会いに来れるから寂しくなくていいな』と玉生は小さく微笑んだ。
いい加減に遅いと目を座らせた寿尚が「そろそろ奴ら、戻って来ないと教育的指導」と呟いたのがフラグになったのか、下草を踏む足音が聞こえてきた。
それと同時に不満そうに低く「ぅるるるっ……」と唸る声がする。
「おーい、スナさん。そこで拾ったヤツが、弱ってるのにオレの手に負えないくらいには元気なんだがどうするー?」
駆が先を歩いてその後を翠星が、何かほとんどオレンジ色に近い茶色の物体を抱えて着いて来る。
「くらタマの叔父さんの飼ってた、ペットとかなんすかね? わ、コラ暴れるな」
「ペットって言われて怒ったんじゃないのか? スナさんの家にも”飼われてやってる”とかいうタイプいたよな」
ハハハとノンキに笑って駆が言った。
「え? 猫がいたのかい? それなら早く俺によこしなさい」
寿尚が「さあ!」とばかりに両手を向けると、「そう余力もないみたいっすけど、一応気を付けて――」と駆に対して一噛みくらいはしてやる、という態度だったので『スナ先輩なら大丈夫だろ』とは思っても一言注意だけはした。
「うん、茶トラか。歴戦の猛者って感じの子だね」
不満そうではあっても、まあ許してやるか、という雰囲気が伝わってくる態度で寿尚の手に渡ったその茶トラは、「ほら、あの子はちいたま。君が仲良くしてくれるなら、一緒に飼う事になるけどどうかな?」と示されたタオルの波に埋もれた子猫を目にした途端、ピタリと動きを止めた。
「ちいたまはここの庭で拾ったんだけど、まさかお母さん?」
玉生が「勝手に連れて行っちゃった……?」とわたわたするのに「逆ならともかく庭にいたのはちいたまで、一週間前に目も開いてない状態だったなら可能性低いだろう」と詠が言うと「ここと外と出入りできるなら、この茶トラもここの中で弱ってなかったと思うぞ」と駆も続ける。
「ちいたまがうちに来たのは、生まれた日かその翌日だろうと思う。それにこの子は雄だよ、たま」
そう言う寿尚は明らかに迷惑そうな茶トラを物ともせず、毛の様子を確認していたが「よし、ノミとかはいないようだね。ちいたまには優しくするんだよ?」と縁側にそっと下ろした。
茶トラの方も理解したのかちいたまにそ〜っと近付き、鼻先が触れるほどの距離に座り込んでじっと様子を見ている。
「その茶トラは怪我してるわけでもないようだし、単純に燃料切れだと思うんすけど実際どうなんすかね?」
救助してきた当人としては気になるらしく、翠星が訪ねると「僕の残したサンドならあるけど……」と玉生がまだ中身が半分残った箱をチラリと見て気不味そうに言う。
カツサンドを残すといつもの「肉を食え」と怒られるパターンになるのが予想できたので、あえてカツサンドから手を付けたら思った以上に重量感があり、スープの力でどうにか食べ切れはした。
するとどう頑張ってもお腹に入るのはあと一つが限界という状況になって、常温では生クリームが一番危険だという理由はあったにせよ、正直デザートが食べたくてついハムチーズを半分かじったところでフルーツサンドを美味しく食べてしまったのだ。
その結果、ハムチーズと卵というむしろいつもの昼食で食べている物が残り、玉生に罪悪感も残したのであった。
「クリームチーズを少し上げるくらいはいいけど、猫に人の食事は重いらしいよ。それに、猫用のご飯ならこの通り」
猫缶と小分けにされたキャットフードを、リュックとは別に肩に掛けていたトートバッグから取り出した寿尚は「いつ出会いがあるかわからないからね」と澄ました顔でニヤリと笑った。
猫缶を開けてサンドの空き箱に入れると、茶トラの前にそっと静かに押し出して「どうぞ」と勧める。
少しだけ考えたように見えた茶トラは、鮪風味のフレークをまずはペロリと舐めてみて気に入ったのか、あっという間にハグハグと食べ切ったその尻尾は、やや立ち気味にユラっと揺れている。
それを見た寿尚が「おや、尻尾が……」と呟くと、縁側に腰を下ろして温室をあちこち眺めていた翠星はチラリとだけ視線を向け、「たしか犬は振って猫は立てるんすよね?」と途中だったらしい食事を再開して食べ掛けのハムチーズサンドを手に玉生に貰ったスープを口にしている。
その間に玉生にスープの入った紙コップと残りの卵サンドを貰っていた駆は、あっという間にそれを食べてからふとスープを飲んだカップを見て、鞄のポケットからミネラルウォーターのボトルを取り出し空いた猫缶に「水も一緒に上げるものなんだよな!?」と注いでやった。
「うん、気が利くね。水分無しでドライフードはどうかと思ったけど、これならこっちも上げてよさそうだ」
箱の空いた部分に小袋から餌を足すと、今度は躊躇いもせずに茶トラが豪快にカリポリと口にする。
「たしかに食べ足りなさそうだけど、弱ってる時はあんまり一遍に食べさせるのってよくないんじゃなかったか?」
もっともな駆の言葉に、「うーん……」と少し悩まし気に寿尚が唸った。
「なんだか普通の猫ではなさそうでね。問題があれば自己判断できそうっていうか……」
その言葉は聞こえて内容も理解していそうなのに、茶トラは気にもとめないようでまだ物足りないといった態度だ。
猫の健康には慎重な寿尚が、そんな普通ではないと言い切ってしまうのはハッキリとした根拠があったからだ。
「尻尾がね、三編みでごまかしてるけど三又だから。時々こちら側に、常世から妖のモノが狭間を越えて渡って来るっていうから、そういうモノなのかと」
伝説のような話を当たり前のように話す寿尚に詠が「時々、噂にはなるな」と頷くのに、「スナさんは、常世って信じる派だったか?」と駆が意外そうな声を上げた。
「なんか現実主義者というか……オレとしては、見えない物は信じづらいんだが」
それに対して詠が「ああ、それで一部は都市伝説だという事になっているな」と反応を返したので、駆と玉生までがキョトンとした。
「え? ヨーミンも信じる派とは意外だなあ。夢は寝て見ろとか言いそうなのに」
心底驚いた顔の駆に、ニコリともせずに「それは見えない者からの認識として認める」と詠は平然と返して、「うちの両親の研究主題は“常世”だし、僕は見えているので疑い様がない」と言い切ったのだった。
「ん? 見えないモノが見える?」
心理学的な何かの比喩なのかとも考えどう受け取るべきか首をひねっている駆はともかく、玉生の方に中途半端なオカルトとしての微妙な知識を与えてしまうより、この際にハッキリと理解させてしまうべきかと寿尚は決断した。
「例えばそうだね、アルバイト先のミルクホールの生け垣の脇を通る時、たまは必ずそこを見て行くだろう?」
いきなりそんな話しをされて驚いたが、「うん。店長の飼っているジョンが、尻尾を振って見送ってくれるから」と玉生は答えた。
店主の自宅は店のすぐ隣で、腰高の生け垣を挟んだ場所の庭で犬が飼われているのだ。
「え? あそこの犬はマオマオ待ちの時に会った店主に、最近見なくなったって話をして老衰で亡くなったって聞いてるんだが?」
その話に納得したように「老衰まで大事に飼われていたんだろう」と当たり前の事としてそう言った詠に、「でもジョンは昨日もいたんだよ?」と玉生は困惑した。
そこで今まで黙っていた翠星が「くらタマはハッキリ見えすぎて、その手のモノに違和感とかまったくないみたいだから仕方ない」とそれこそ仕方なさそうに口にする。
「スナ先輩は見えてないけど分かってて、ミミ先輩はまったく見えてないし気のせいで終わる。とみヨは見えてるし分かってる」
「普通に暮らして問題ないなら、特に気にしなくてもどうという事もない」
やはりよく理解できなくて首を傾げる玉生に、詠がそう言って「問題があれば日尾野が何か言う」と付け足した。
「知らなきゃ知らないでいい話なら、まあいいのか」
そう駆が結論付けたので、玉生もそういうものだと思う事にしたのだった。
「あ、お前……まあ、毒ではないけど、ちいたまが真似したら困るから、そこのところは分かっておくんだよ?」
そして日尾野の声の先を見た者たちは、茶トラが玉生の残したハムチーズサンドの最後の一口を平らげてしまう場面を目撃してしまったのであった。
「とにかく一度、玄関の方にもどろう」