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四章の八 唄は世界を変えられる?

《ラグーナ蒲郡》の惨劇のすぐ後。一華は、次朗の車の助手席に乗った。

「さあ、早く出しなよ。私、疲れているんだから」

 いつもどおり一華は、命令口調で指図する。

「あの、すいません。尾藤さんのお車で、お帰りになるんじゃないんですか?」

 運転席の次朗は、困惑した。

「そんなわけないだろうが」

 ここまで一華は、電車とバスで乗り継いできた。さすがに帰りは疲れて、同じようにはできそうにない。
 そうこうしていると、次朗側の後部座席のウインドウが、コンコンと叩かれた。

「は、はい、ただいま」

 次朗は背筋をピーンと伸ばしてから、車外に飛び出し、後部座席のドアを開けて「どうぞどうぞ」と(むか)い入れる。
 次朗の動きはキビキビとしていて、運転席に乗り戻る。すると、

「こういうわけですので、今日はご遠慮いただけますでしょうか……」と、こそこそ一華に促してきた。

「なんでだよ」

 一華は、一言で一蹴する。

「では、よろしい、ですね……」

 次朗は、真後ろの文花にお伺いを立てた。バックミラーの文花は、足を組んでから、プイと右側に顔を背けた。

「では、出っぱーつ……」

 次朗の出発宣言が、力なく車内にこだました。


 国道二十三号を、そのまま走っていく。ずっと、車内の会話はなかった。
 途中、次朗が堪らず、道路標識か何かで情報を拾い、「竹島でも行きますか?」と、冗談じみたトーンで騒ぐ。だが一華も文花も、反応しない。咳一つしなかった。

「お昼、どうしましょうか?」

 懲りずに、次朗は仕掛ける。だが、やっぱり反応はない。咳一つなかった。
 次朗の立場で考えれば、恐ろしい空間なのだろう。ここまで、まともに運転してきた次朗を、むしろ褒めてやるべきだ。
 そうやって一華は、次朗に対して仏心が芽生える。少々の、次朗の行動に目を瞑ってやろうとすら思い始めていた。

「そっか、ラジオを点ければいいんだね」

 緊張感を溜め込み過ぎて、判断力がおかしくなっていたのだろう。次朗は、ラジオに逃げ込んだ。一華も、仏心で判断力が落ちており、次朗の行動を、ぼうっと容認した。
いつも合わせているのだろう。 《ZIP―FM》が流れた。

「では、まず、今月リリースした曲を聞いてください。尾藤公季で『新生幻想即興曲F』」

 なんというタイミングだろうか。公開放送をしている公季が、ちょうど生で唄うときだった。

「次朗、止めろ!」

 一華は叫んだ。次朗が、手をわなわなさせて、ラジオを止めようとした。

「いいから、止めるな!」

 今度は後部座席の文花が、怒鳴った。次朗はビクッと手を止める。

「次朗、信号!」

 一華がとっさに発すると、信号が赤になって、結構な急ブレーキになる。三人とも体を前に持って行かれて、シートベルトの反動か何かで、背凭れに戻された。
 落ち着いた先に、ラジオの『新生幻想即興曲F』が始まっていた。一華は、左に顔を背けるしか術はない。
 元の音源は、スロー気味のピアノ主体だった。だが、生の公開放送では、ギターも加わっての演奏になっている。
 一華は、聞くに堪えなかった。何度、ラジオを止めようとしたか分からない。
 バックミラーで、文花を確認する。すでに号泣していた。文花本人が「止めるな!」って言ったんだから、止めるわけにもいかない。
 文花の啜り泣きが、いつまで経っても止みそうにない。ときどき激しく「ヴえーん」と声も荒げる。
 問題のサビの部分が、すぐそこにやってきた。一華も、今まで何度か聞く機会があったが、ほとんどが耳を塞いでいたから、「だいたい、あんな感じの唄だった」程度の認識しかない。
 確かサビの部分は、「愛しいヒトシ、ヒトシいー」と、ただ連呼していた。曲に歌詞を当て嵌めるのが難しかったのか、「ヒトシい」とスキャットを多用し、茶化しがいっそう増していた。
 あのスキャットを聞いたら、今ですら(むせ)び泣く文花が、これ以上どうなってしまうのか。とても想像できないし、したくもなかった。

「がんばれい、フミカあ、がんばれい、フミカあ、ドロットットットットット」

 サビの歌詞が、様変わりしていた。なんだろう。応援ソングに代わっていた。
 聞けば聞くほど、口ずさみたくなる。どっか恥ずかしさが湧き立つが、とっても癖になる。
 他の歌詞の内容、ストーリーも、いつのまにかサビに合わせられている。文花にとっては、まさにオリジナル応援ソングになっていた。

「がんばれい、フミカあ、がんばれい、フミカあ、ドロットットットットット」

 再び、スキャットを織り交ぜて、繰り出された。
 一華は、鼻でフンと笑う。これで唄が成立するのであれば、日本のミュージック・シーンの先行きが思いやられる。そうやって、辛口で皮肉ってもやりたかった。でも、好意的な想いは払拭できない。
 運転席の次朗も、笑いを(こら)えていた。ただ、頬を涙が伝っている。頭の弱い感激屋さん、ならではの光景に思えた。
 肝心の文花は、泣きながら笑っていた。「がんばれい、フミカあ」の部分は、口ずさんですらいた。
 再び一華は、鼻でフンと笑う。一方で、ハンカチを鞄から取り出した。すぐ次の、信号で止まったタイミングで、次朗にハンカチを差し出す。
 次朗が、黒目を小さくして驚いていると、一華は、軽く顎を後部座席に向ける。まだ信じられない顔をしている次朗へ、一華は再度、顎を後部座席に向けた。

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