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一章の九 食堂内にて、次朗の無駄口と文花の接触2。

 五月中旬。いつものように一華は、会社の食堂で昼食を摂っていた。
 十二時の昼休憩に入ると、見たくもない女と遭遇する確率が高くなる。だから、この頃はできるだけ、十三時に昼休みに入った。
 今日も、いつもの指定席に一華が座り、左隣りに次朗が従う。一時間遅れの昼食は、美味くも不味くもない仕出し弁当でも、ガッツリと進んだ。

「この前、尾藤が 《 ZIP(ジップ)―FM 》 に出ていたよ。新曲のプロモーションか何かで」

 この頃の尾藤公季の活動は、ほとんどが次朗経由で伝わった。

「ふーん。そうなんだ」

 一華は、興味のないふりをする。

「なんか尾藤の話、この頃したくないようだけど、何かあったの?」

 さすがに、次朗も感じていたようだ。妙に心配そうに見てくる。

「そう? 別に何もないよ」

 次朗には「尾藤の一ファン」として振る舞ってきた。現在、恋人がいる状況は把握されているが、尾藤自身が恋人であるだなんて、今まで誰にも話していない。

「だって、この頃、尾藤の話をまったくしなくなったじゃないか」

 なんだか、次朗がしつこい。

「そうか? おまえの勘違いだろ」

 大雑把にあしらう。

「いや、そうじゃないよ。確か『文子』がドーンと世に出てきた辺りで、ピタッと姉ちゃんから、尾藤の話題が出なくなったんだよね。変だなあ、昔からのファンっていうのは、そんなものなのかなあ、って最初は思ったんだけどさ。あきらかに、尾藤の話をすると、嫌な顔をするんだよね」

 次朗が饒舌になった。恐らく今まで、疑問に思ってきたのだろう。

「まあね、よく成功者がね。後日談で、貧しいときに支えてくれた人たちは、うまくいってから近寄ってこなくなるって言うでしょう。逆に、貧しいときに相手をしなかった奴らは、成功してから(てのひら)返す、みたいな話ってあるでしょ。姉ちゃんは、典型的な前者で、すごいなあと思ったんだけどね」

 本当に(くど)い。一華は有無を言わさず左拳を、次朗の右腕上腕二頭筋に当てる。

「痛っい。何すんの、本当に……」

 次朗は、恨めしそうに一華を見る。

「なんだよ。(あばら)は、やめてやっただろうが」

 いつものように、一華は睨みを利かせた。次朗は、左側に仰け反って、当てられた箇所をさすりながら大人しくなった。
 今までだったら、次朗への力技でスッキリした。だが今日は、鬱憤が溜まるいっぽうだ。
 一時間遅れの昼休みの食堂では、変わらず有線が流れていた。そのうち、聞いた記憶のある声が、流れ始める。

「これこれ。これだよ。尾藤の新曲は」

 次朗が騒ぎ始める。さっきまでのギクシャクした空間に歯止めを懸けたかったのだろう。

「なんかね。どこに行っても、あなたを探してしまう、って唄なんだよね。ラジオで本人も言ってたけど、題名は『いつも探してる』なんだけど、『文子パートⅡ』的な唄なんだって――」

 次朗の話が続く。一華は聞きたくない素振りをするが、次朗は汲み取らない。どうしても、ラジオで聞いたインタビューの内容を聞かせたかったのだろう。
 一華は、耳を塞ぎたかった。流れている唄と、鬱陶しい説明をする次朗の雑音。まったく逃げ場がなく、食堂を出るしかない。
 食べ終わった弁当を片づけるため、席を立とうとした。と、そのとき、食堂の出入口から妙な気配を感じる。見ようによっては、モデル歩きをする文花が、食堂に入ってきた。相変わらず外見上の魅力は、好き嫌い問わず視線を吸い取る。
 一華は、()げかけた腰を下ろした。弁当が置かれている食堂奥のテーブルと、空の弁当箱置き場は隣り合っている。今この状況で動いたら、どうしたって近づく羽目になった。
 余計な視覚を遮るには、目を瞑るしかなく、地獄といってよかった。こんなに長い唄があるのか、というくらい『いつも探してる』が延々と流れている。目を瞑る分、集中するのだろう。その分の音が耳に入ってくる。

「尾藤って、昭和高校出身なんだってね。今、出している唄は、高校時代に作曲したもので、貯金を切り崩しているようなものらしいよ」

 忌まわしい唄に、勝るとも劣らない解説が、これでもか、これでもかと、覆い被さる。グッと奥歯を噛み締めるしか術はない。
 そうやって、ただただ耐えていると。なんだろう。急に、次朗が喋らなくなった。一華にとっては、少し楽にはなる。代わりに、ほんのりとした、いい匂いがした。柔軟剤の匂いだろうか。
 一華は、明けない夜はないとばかりに、目を開けた。ぱっと正面に、正確にいえば十一時の方向に、テーブルを跨いで文花が立っている。

「そこの席、いい?」

 文花が、次朗の左隣を指さした。次朗は、俯いて返事をしない。しょうがなく一華は、首をこくりと上下させ、代わりに承諾した。

「仕事が忙しいから、仕事に戻るよ」

 次朗が一目散に、席を後にした。会議用テーブルには、右から一華、空席、文花と並んだ。
 考えてもみれば、前にも同じような出来事があった。そのときは、少しの沈黙の後、次朗に倣った。どう対応していいか、まったく浮かんでこなかったのだ。
 流れていた『いつも探してる』は、いつの間にかアイドル・グループの唄に代わっていた。
 さっきまでの複数の負担が、あまりにも重かったからか。文花一人ぐらい、どうってことなくなっていた。普通に、会話すればよいと思い立つ。

「仕事、慣れた?」

 自然に話しかけた。ただ、文花のほうを見てはいない。正面を見据えていた。

「ええ。だいぶ、体が慣れてきた感じ」

 構えていた一華が、馬鹿馬鹿しくなるくらい、普通に返答がある。

「そうなんだ……」

 文花のほうを見てはいなかった。ただ、ほんのりとした、いい匂いがしていた。

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